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未唯への手紙

未唯への手紙

哲学は後付け

2013年10月16日 | 1.私
哲学は後付け

 哲学については、元々、その気はなかった。自分の存在と無から、なぜこうなっているのかから始めた。

 存在と無みたいなことを、考えたり、表現しているものがなかったので、結局、哲学に行ってしまった。皆、素直ではないというのが、感想です。生まれてきた以上は、皆、そういうことを考えているはずだし、それを知りたがっているはずです。

 池田晶子さんのように、宇宙の旅人という概念までたどり着いた人もいる。親というのは、親ではないのも知りました。ずっと、しこりでした。それに言葉を与えられた。

 今の未唯空間も、存在と無とか孤独と孤立の悲しさから始めています。最後は存在の力で終わる、というか、始まるという歴史観を持ってこれたことは幸いです。

 哲学がどうのこうのという哲学者には、一番の論点である、なぜ、自分がと言うところが抜けています。特に日本の哲学は、海外から持ってカタチになっている。自分の言葉になっていない。元々、日本には、禅などに、そういう概念があるからです。

存在と無と一神教

 存在と無から考えると、どうしても一神教にはなれない。自分自身が大いなる存在だから、多神教にならざるを得ないし、自分が中心になるので、宗教そのものがあり得ない。現象学にしても、キリスト教という一神教を否定するところから、はじめて出てきました。

何も考えない自分が好き

 台風の風が強いので、今日は収まるまで、様子を見て、それからいくなりしようかなと追っている。こんなことを思う自分は好きにはなれない。

概念を言葉にすると難しい

 それにしても、言葉は難しいですね。ハイデガーではないけど、言うからある、言わなければない、言っても言わなくても、あるところにはある。言うことは大変難しい。そういうことの存在を考えているのも、考えているだけでは分からない。言わなきゃ。だけど、それに適用した言葉があるかどうか。

 ないものは考えられない。あるものしか考えられない。あるものも、この思考形式でしか考えられないのだから、考えられた途端にそれは嘘になる。こんなものには付き合っていられない。

環境社会の政治形態

 9.7の政治形態は、あまりにも唐突だし、中身がない。むしろ、今の衆愚政治みたいなものを、どのようにして、LL=GGでまとめていくのか、そこで新しい民主主義ができるということに向けていかないといけない。

 特に、国の役割のところです。今の国の役割は分配が主であるけど、これは民主主義で決めていることです。その民主主義を変えようとしているのに、逆転する発想になります。つまり、分配できないことから、中央集権を変えて行くということです。

 明治維新の時に、中央集権にして、国民は幸せになれたのか、というところから、新しい地方分権にしていくということです。つまり、分配の機能ができなくなった以上は、中央主権である理由がない。軍事だけです。

国民国家と国際関係

 国際関係のところは、国民国家がキーになります。それから、どちらに向けっていくのか、超国家なのか、地方なのか、そのバランスをどうとるのか。それと環境社会をどうのようにして、実現していくのかが関係します。特に、思考停止にある、日本の悩みは大きいです。

環境社会ありき

2013年10月16日 | 3.社会
環境社会ありき

 第9章は、環境社会ありきで展開している。大きな問題を片付けるには、環境社会にしないと、決めつけている。

 では、環境社会とは、何をするためのものなのか。環境社会の中には、最初から位相が入り込んでいます。本当の意味の環境ではない。今のままではどうなるかの考え方です。

 生き残るための考え方というのは、確かだけど、それしかないのか。人間が環境を壊したと思えることと、直せることがペアになっている。直せないということは、壊していないということです。それしかないことの証明を後半で行います。やはり、存在の力に頼るしかないかもしれない。それを活かした形、位相的な変化を起こすための言い訳にしていくしかない。

ヘーゲルの読み方

 ヘーゲルの読み方。字面だけを追ってはダメです。文章とともに進みながら、自分の思考を同時並行で観察する。最初は難しくても、どうしてもそれをするのです。私の読み方はこれに近いですね。そこからDNAが当たれば、それで読了です。

 無が有であり、有が無である。これはなじみます。存在と無、そのモノです

 つまり、自分の思考を自分で観察する。自分とは絶対精神、すなわち、宇宙であるということが分かっている人々です。それを、禅は言わないけど、ヘーゲルは言う。

 日本の哲学が弱いのは、その辺なんでしょうね。禅で出来てしまっているから、それをひっくり返すわけにはいかない。禅は言葉を使わないから、反証の仕方がない。達磨大師の○(まる)みたいなものです。

どのように行動させるか

 どうしたら、個人の分化ができるのか。他っておいたら、次の世界に行くことはない。こういう世界があることを、どのように知らせて、行動させていくのか。

 今後は、自分という言い方にします。自らを分ける。つまり、個人の物価そのものです。

知識と意識の場

 10.6のサファイア革命を変えます。社会の位相化という風にして、目的を明確にします。コミュニティはあくまでも、知識と意識の場です。情報共有というのは、そのための拡がりです。

 今のポータルとか販売店システムには、両方ともない。売っておしまいで、お客様との関係も維持できない。また、店舗側にコミュニティの概念がないので、単体での仕事になっている。重要なのは、取り込むことです。環境そのものです。

中項目の要約 販売店、環境社会

2013年10月15日 | 5.その他
販売店

 販売店要望
  店舗コミュニティ:店舗コミュニティの情報共有の展開を図る
  簡単に使える:データを簡単に使えるようにクラウドで対応する
  お客様とつながる:お客様の状況を把握して、お客様にアピールする
  販売店システム:販売店システム全体を情報共有環境にする

 システムの方向
  情報の集約:ポータルに情報を集め、発信で、意識改革を図る
  販売店から変革:ソーシャルウェブで店舗を変え、社会改革を図る
  ネットから提案:メッセージとネットワークでスタッフから提案
  次期システム:次世代システムとして、お客様志向にさせる

 お客様とつなぐ
  お客様から発信:お客様・クルマからの発信にスタッフが対応する
  市民コミュニティ:お客様とつながり、市民コミュニティを支援
  メーカーがつなぐ:お客様とメーカーが直接、つながる体制を支援
  メーカーと販売店:メーカー施策を販売店の知恵で現実化する

 2015年の姿
  販売店インフラ:思いの共有で、コミュニティに知識と意識を実現
  販売店が変わる:スタッフを武装化し、組織の分化で店舗を変える
  販売店から循環:店舗に全ての情報を集約し、発信し、循環する
  いい町・いい社会:地域の拠点つくりから、いい町・いい社会を志向

 ポータル
  現行機能:ポータルでメッセージとライブラリをつなげる
  拡張機能:店舗コミュニティの情報共有機能に拡張する
  ポータルの進化:データの活用、メーカー、お客様との接続に進化
  開発方法:ソーシャルウェブで一体化した、柔軟な開発

 実現イメージ
  店舗内システム:基幹系・情報系主体からメッセージ系に再構成
  情報共有:メッセージでの情報共有で状況把握し、行動
  コミュニティ:企業SNSでテーマとグループでコラボし、行動する
  ソーシャルウェブ:ソーシャルウェブ対応で、スタッフの分化を図る

 情報共有基盤
  私のミッション:未唯空間の位相化をポータルでイメージ化する
  お客様とつなぐ:メーカー・販売店がライブラリ連携でつながる
  多様なデータ:メーカー・お客様・システム発信データを活用
  多様なツール:タブレット・スマホをネットでメッセージ接続

 企業の位相化
  皆で考える:知識と意識の場で、ポータルで仲間とつながる
  コミュニティ:ローカルのコミュニティからサファイア循環
  位相化構造:危機を想定して、位相化構造に企業から変わる
  社会の位相化:企業で出来るところから、社会の位相化を狙う

環境社会

 問題整理
  人口増減と格差:人口増で環境を破壊し、社会の格差を生み出した
  エネルギー問題:集中型のエネルギー政策は破綻し、分散型に移行
  静脈系の流れ:廃棄物処理の静脈系を活かし、循環型へ切替
  環境問題の制約:地球温暖化対策は信用されない国では不可能

 環境社会の動き
  日本の活力:少子・高齢化で、地球規模の課題への対応するか
  市民と地域:環境社会では、コンパクトな生活者が前提
  企業とインフラ:モノつくりが保証される新しいインフラ
  市民主体の形態:環境社会に対応した、地域主体の政治形態

 環境社会に対応
  問題解決の方法:技術依存での問題解決はムリで、市民が解決する
  環境社会の配置:北欧でNPO・市民・専門家・行政の配置を習得
  合意形成の仕方:多数決ではなく、皆が活きる合意形成が必要
  2030年の姿:2030年までに、地域をコミュニティでまとめる

 2015年から準備
  市民を強くする:市民が危機感から、自立することが前提
  地域が独立:行政での税収入を含めて、地域が独立する
  地域から循環:コミュニティで地域をまとめ、社会を動かす
  サファイア革命:市民をコミュニティ化し、ネットで社会変革

 社会インフラ
  地域ネット構築:ネットのLAN/WAN概念で、地域を有効活用する
  地域インフラ:地域のインフラを市民主体でスマートに拡張する
  働き方の改革:存在の力を活かし、働き方を変える
  全体を変える:地域を活かして、企業を変え、政治を動かす

 経済体系見直し
  人を生かす経済:モノつくりからソーシャル活用と高度サービス化
  持続可能な循環:個人の分化と公共意識で、持続可能な循環を図る
  税制を地方に:地域コミュニティで差別化して、優先順位決定
  環境社会の哲学:個人主体・地域主体の本来的な形態を狙う

 政治形態
  地域の姿:欧州では、地域のコミュニティで自律している
  国の役割:国民国家では、権限保護と分配が国の役割だった
  政治家の役割:党に集まり、多数決で政策決定してきた
  2030年の社会:2030年からのLL=GGにあたり、政治形態を見直す

 国際関係
  国民国家の方向:国民国家のあり方から、次の方向を模索している
  日本の針路:ビジョンなしの日本には、三つに針路しかない
  国際関係:国民国家・グローバルを超える環境社会を構築
  国家連合形態:国家連合の形態は、同じ価値判断の地域の融合

企業の位相化

2013年10月15日 | 1.私
未唯へ

 目がまたまた、悪くなっています。どれぐらいなのかは分からない。色々なものが目の前を飛び交っている。

 昨日の分が書き起こしの説明です。あれを読むまでに時間がかかるので、要約を先になっておきます。

 中分類の要約をインスピレーションにして、ブログに入れておきます。

ミカロスは12月8日まで続く

 とりあえず、ミカロスは12月8日まで続くでしょう。異動でどうなるかわからないけど、目の前からお互いに退くでしょう。それまでに、どこまでまとめられるか。何しろ、時間がないから、やれるだけのことはやります。

 全てをトレースするために、ICレコーダーはイヤホン付きで、常時、携帯します。音の拾い方がきになります。もっと、ゆっくり話した方が、入力にはいいかもしれません。頭にあるものはそう簡単にできないし、出るときは。一気に出ます。ここがややこしい所です。そのコントロールをしていきます。

 お任せボイスにしたけど、音がハウジングします。指向性マイクにすると、汎用性がないから、変えるのが面倒になります。

 昼休みにIさんに会ったけど、笑顔になれなかった。ミカロスの性にしておきましょう。だけど、会えてよかったという感覚を持たないと、このまま、死にます。要するに、ミカロスを訴えたくて、ああいう態度になったんでしょう。ごめんなさいね。

メッセージとコミュニティ

 メッセージとコミュニティとソーシャルで、店舗内システムの再構成のキーにします。これを店舗コミュニティの情報共有でまとめていきます。その時に、メッセージとコミュニティはどう違うのかを明確にする。

 メッセージは情報共有の状況把握であり、コミュニティ系はテーマとグループを設定した上でのコラボレーション。両方とも、行動するのが目的です。

 コミュニティと情報共有は分けて考えます。情報共有は関係です。コミュニティはローカルでの状況です。

この会社の位相化

 8.8、つまり、販売店の最終項目、を企業の位相化に変えました。このメーカーは社会の位相化に先行しないといけません。日本の場合は、企業から変えていかないと、動きません。

 情報共有基盤を使って、仕事の仕方を変えて、社会にアピールすることで、社会の位相化ができる。

 インターネットは、ネットワークの位相化の上に乗っかることで、基盤となりえた。題名を企業の位相化にしたが、中の項目は一緒でいいでしょう。皆で考える;コミュニティー;企業変革;社会改革です。

 社会の位相化は、第9章と第10章に任せます。取りあえず、この会社をどう変えていくのかという指針です。メーカーという立場とマーケティングの立場とは異なります。それを使い分けるのは、お客様であり、市民です。

 位相化という以上は、ローカルな部分とグローバルな部分があり、その関係付けがある。

地球規模の課題

 人口が増えたのが、全ての問題の始まりだけど、今は、減少することが課題になっている。有限の世界に限界を認識するところから、課題解決する。

 環境問題というのは、地球規模の問題なのか、先進国だけの問題なのか。環境社会という答えからすると、消費を前提するのではなく、ライフをどうしていくかを問題にしていきたいから、テーマにしていきたい。

 地球規模の課題という時には、トポロジーに戻った方がいい。次元の呪いというような様相が出ているはずです。地球規模の課題ではなくとも、有限であることから、変えていかないといけないけど、どの程度で変えるかです。

やはり図書館はパブリック・フォーラムと考えるべき

2013年10月15日 | 6.本
『図書館と表現の自由』より 図書等の収集、管理ないし廃棄及び利用と表現の自由

アメリカでは、道路や公園などは古典的なパブリック・フォーラムとされ、このようなフォーラムは本来市民の表現の場だと捉えられ、そこにおける表現の自由は強く保障される。これに対し公民館や公会堂などは限定的パブリック・フォーラムないし創出されたパブリック・フォーラムと呼ばれ、州や地方公共団体にはこのようなフォーラムを創出する義務はないが、それが市民の表現の場として創出され開放されている限り、そこにおける表現の自由はそのフォーラムの目的と矛盾しない限り広く保障される。しかし、そもそも本来市民の表現の場として開放されていない非パブリック・フォーラムにおいては、つまりパブリック・フォーラムではない場合には、見解に基づく差別に当たらない限りは、その場本来の目的のために使用し、表現を排除することも広く許される。この枠組みの中で図書館はパブリック・フォーラムかどうかが問題とされてきたのであった。

従来下級裁判所などで支配的だったのは、公立図書館を限定的なパブリック・フォーラムと捉える立場である。州や地方公共団体には図書館を設立する義務はないが、ひとたび設立されて、一般公衆の利用に供された場合は、そこにおける図書館の決定には憲法の制約が及ぶ。内容に基づく制約はやむにやまれない政府利益を達成するため必要不可欠な制約でない限り許されず、これが許されるかどうかは裁判所による厳格審査に服する。これに対し内容中立的な制約の場合は、そこまで厳格な基準を満たす必要はないが、それでも重要な目的を達成するために必要な限度の制約に限定されていることが必要である。この立場では、図書館が、図書等の内容に基づいて収集、管理ないし利用において利用者の権利を制約するような決定を行った場合は、それは疑わしいものと推定され、図書館の側で、それが正当な決定であったことを証明しなければならないことになる。

日本では、そもそもこのようなパブリック・フォーラム論が妥当するのかどうかについて判例理論が確立しておらず、学説の意見も一致していない。パブリック・フォーラム論に従うと、問題の場がパブリック・フォーラムかどうかに焦点が当てられ、パブリック・フォーラムでないとされると表現活動の制約が広く認められてしまう点など問題点はある。しかし、道路・公園などといった古典的なパブリック・フォーラムや公会堂や公民館など市民の表現の場として創出された限定的パブリック・フォーラムの場合には、パブリック・フォーラムであることを認めて、そこにおける表現の自由をしっかりと確保すべきであろう。

この点、地方公共団体の設置する公立図書館は、地方自治法にいう「住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設」としての「公の施設」であり(地方自治法二四四条一項)、地方公共川体は、この利川において、「正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない」(同二項)とされ、さらに「住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない」(同三項)とされている。これは実質的に公立図書館を限定的なパブリック・フォーラムとして認めたものと見ることができる。実際、国立国会図書館であれ、公立図書館であれ、その本来の(あるいは主要な)目的は、知や情報へのアクセスをすべての人に認め、すべての人の情報を受け取る自由を実質的に確保することであり、それはまさに表現の自由の行使のための場を確保することである。とすれば、図書館は、一種の限定的な創出されたパブリック・フォーラムに当たるといえるのではなかろうか。実際、最高裁判所も、船橋市西図書館事件判決において、公立図書館を、「住民に対して思想、意見その他の種々の情報を含む図書館資料を提供してその教養を高めること等を目的とする公的な場」であるとともに、「そこで閲覧に供された図書の著作者にとって、その思想、意見等を公衆に伝達する公的な場でもある」と捉えている。これは最高裁判所としても図書館をパブリック・フォーラムと捉えているものと理解してもよいのではなかろうか。

図書館は表現の自由を享受しているか

2013年10月15日 | 6.本
『図書館と表現の自由』より 図書等の収集、管理ないし廃棄及び利用と表現の自由

表現の自由は、一般に個人が人格を形成し、自己実現を図るために不可欠な権利であるだけではなく、民主主義政府においては、国民が政治について知り、政治について自由に議論し、政治について自由な批判を行うことを可能にする点で、不可欠な権利だと考えられている。そのため、表現の自由にっいては、特別に強い保護が必要だと考えられている。最高裁判所も、北方ジャーナル事件判決でこのことを認め、「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもって自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法二一条一項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」と述べている。

この点、表現の自由は、積極的な表現行為の自由を保障しているが、表現の自由が保障されても、その表現を受け取り、表現に接する自由が保障されていなければ、表現の自由の保障の意味はない。そのため現在では、表現の自由の保障には、表現を受け取る自由の保障も含まれることが認められるにいたっている。国民は、一般に入手できる表現や情報へのアクセスを妨げられない自由を有しているのである。最高裁判所も、このことを認めている。「およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法一九条の規定や、表現の自由を保障した憲法二一条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法一三条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる」というのである。それゆえ、市民が入手することができる情報を制限されたりした場合、表現者の表現の自由だけではなく、表現の受け取り手の情報を受け取る権利の侵害の主張が可能である。

図書館自体を表現の自由を享受する主体と捉えて、図書館における図書等の収集、管理、利用に対する法律や条例による制約を、図書館の持つ表現の自由の侵害と捉える考え方も可能である。実際、アメリカでも、後述する、連邦の補助金を受ける図書館のすべてのインターネット端末にフィルタリング・ソフトを義務づけた連邦法の合憲性が争われた事例では、この義務づけは図書館の表現の自由を侵害すると争われており、合衆国最高裁判所の裁判官の中にも、この主張を受け入れている裁判官もいる。しかし、合衆国最高裁判所の相対多数意見は意識的にこの問題についての決定を見送っている(判例法の国アメリカでは、裁判所の結論とそれを導いた法的判断のうち過半数の裁判官が賛同している部分が先例拘束性を持ち、後の合衆国最高裁判所および下級審・州裁判所はそれに拘束される。合衆国最高裁判所の裁判官の意見がわかれ、結論については過半数の支持があるが、それを導く法的判断については過半数の支持がない場合がある。そのとき、通例裁判所の結論とそれを支持する裁判官のなかで過半数に満たないが相対的に多数を占めた意見を裁判官が述べることがある。これが相対多数意見と呼ばれ、その先例拘束性については議論がある)。それゆえ、合衆国最高裁判所の立場はなお定かとはいえない。

日本では、まだ十分検討がなされていないが、おそらく政府による規制に対しては、図書館にも限定的に表現の自由の享受を認めるべきであろう。このことは、例えば日本放送協会や国立大学法人の場合と同じである。いずれも公的な組織であり、市民との関係では公権力行使の主体として現れるが、それぞれ表現・報道行為ないし学問・研究のため自治権を認められており、それゆえその自治権の範囲内では、表現の自由ないし学問の自由が認められるべきだと思われるからである。これらと同じように、国立国会図書館や公立図書館は公的な組織であり、利用者および受け入れる図書の著者ないし出版社など市民との関係では、権力主体として現れるが、法律ないし条例によるその活動の制約については、すべての市民に情報に接する場を提供する主体として、憲法二一条によって保障された表現の自由の保護を受け、その侵害を主張しうると考えるべきであろう。あるいは、少なくとも、図書館及びその職員は、国民の情報を受け取る自由とその制約について専門的立場において調整を図るべき専門家集団として、市民の情報を受け取る権利の代行者として一定の保護を認めるという考え方もありうるかもしれない。

現存在の本来的な全体的存在可能

2013年10月15日 | 1.私
『存在と時間(三)』より 梗概 現存在の本来的な全体的存在可能と、気づかいの存在論的意味としての時間性

課題の設定(第六一節)

 現存在の「全体的存在可能」を解明することであきらかとなったのは、死へとかかわる本来的な存在が「先駆すること」である事情であった。現存在の本来的な「存在可能」はたほう、「決意性」なのであった。この両者がどのように関連するのかが、つぎの問題となる。決意性そのものがその本来のありかたにあふて先駆的決意性であるのかどうかが、問われなければならない。先駆と決意性という実存的な現象を、「実存的」な可能性へと向けて解釈して、その可能性を「おわりまで思考すること」が問題なのである。

 あらためて確認しておくならば、現存在は「目のまえにあるもの」ではない。現存在のなりたちは、実存する自己が「不断に自己であること」にもとづく。自己という現象が「実存論的」に輪郭づけられる必要がある。そのためには気づかいという現象の意味がさぐられなければならない。そのことで、時間性が現存在の本来的な全体的存在であること、時間性がさまざまな可能性において「時間化」することがあきらかとなるだろう。

行為への決意(第六二節)

 決意性、死へとかかわる存在、良心をもとうと意志すること、現存在の本来的な全体的存在可能について、これまで語られてきた。これらの事象は、どのように関連するのか。また、決意性という現象を「おわりまで思考すること」はなにを意味するのだろうか。

 決意性とは、もっとも固有な「負い目ある存在」へと投企することであった。決意性は、だから、死へとかかわる本来的存在をみずからのうちにふくんでいる。負い目ある存在は、現存在の存在にぞくしており、現存在とは不断に負い目のあるもので「あり」、その根源的存在は死へとかかわる存在、きわだつた可能性へとかかわる存在であった。そのような現存在が決意することで本来的に引きうけるのは、じぶんの「無-性」の「無的な根拠」であること、みずからの死の「被投的な根拠」であることである。先駆は、たほう、現存在の仝体的存在にもとづいて、負い目のある存在をあらわにする。先駆的決意性によってこそ、負い目ある存在可能が本来的かつ全体的に理解されるのである。

 良心をもとうと意志することとは、負い目ある存在への呼びかけに対して用意があることであり、決意性という現象によって私たちは実存の根源的真理へとみちびかれる。決意性は事実的な「状 況Lをじぶんに与え、また状況のなかへとみずからをもたらす。状況は自由な決意に対してのみ開示され、決意性は、現存在の全体的な存在可能に向かふてじぶんを自由に保持しようとする。先駆することで、こうして決意性は、本来的で全体的な確実性を手にすることになるのである。

 死とは、もっとも固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実で、しかも未規定的な可能性であった。これまでの分析で、かくて、死へとかかわる本来的な存在のさまざまな様態があきらかになったことになる。先駆的決意性とは死を克服する逃げ道ではない。良心をもとうと意志すること、死へとかかわる存在もまた、世界から逃避することではない。それはむしろ「行為すること」への決意性へとみちびくものなのである。

解釈の循環(第六三節)

 現存在はそのつど私たちがそれである存在者でありながら、存在論的には「もっとも遠いもの」である。現存在の根源的な存在を獲得するためには、現存在の頑落している傾向に逆行して、現存在の存在が奪いとられなければならない。実存論的分析は、こうして、日常的な解釈に対しては「暴力的」なものとしてあらわれる。ここには、とはいえ一箇の方法的問題がある。現存在の本来的な実存は、どのょうにして見わけられるのか、という問題がそれである。そもそも、実存のさまざまな可能性をあらかじめ与えることは、恣意的なものという批難を免れないのではないか。現存在のきわだった可能性として死をとり上げることも、気ままな選択ではないという保証があるのだろうか、と(イデガーはあらためて問いはじめる。

 問題は、こうである。存在一般の理念は、現存在の存在了解をつうじてはじめて獲得されるものであった。当の存在了解は、ただ現存在を「実存理念」として解釈することによってとらえられる。そうであるとするなら、基礎存在論的な問題は、あきらかに一箇の「循環」のうちに巻きこまれていることになるのではないだろうか。いいかえるなら、私たちは実存ならびに存在一般の理念を前提としたうえで現存在を解釈し、そこから存在の理念を獲得しようとしているのではないか。

 だが、実存論的分析論は、循環をけっして避けることができない。循環こそ気づかいの根本構造であり、気づかいは現存在の存在のしかたにほかならないからである。理解について循環が批難される場合、まさにこうした事情が見あやまられている。それゆえつぎにあきらかにされる必要があるのは、気づかいの全体的ななりたちなのである。

中項目の要約 自分、数学

2013年10月14日 | 1.私
自分

 生まれてきた
  絶対的な孤独:絶対的な孤独から孤立と孤独が生まれた
  真理を求めて:存在と無を原点にして、数学の真理を求めた
  数学を生かす:真理は数学にあることからトポロジーを見つけた
  生き方を決めた:生まれてきた理由から無為に生きることに決めた

 生きている意味
  夢に確信を持つ:私の夢は、夢を聞き、夢を伝え、確信を持つこと
  もう一人の私:もう一人の私として、無敵のμが生まれた
  偶然を生かす:偶然を意識すると必然が見える。未来を見ていく
  考え抜く:本質を見て、考え抜くことで啓示を得る

 宇宙の旅人
  私は旅人:存在と無に救いを求めて、宇宙の旅人に辿り着いた
  考える存在:生まれてきて、存在するのは考えるため
  傍から社会を見る:組織の中の個人をμの視線で傍から見ていく
  社会を分析:ローカルを近傍系として、地域を観察・定義する

 未唯への手紙
  社会につぶやく:先が見えないので、社会にメッセージを発信する
  未唯への手紙:考え、感じたことを未唯的な人に渡していく
  住みよい社会:笑顔とあいさつでつながる住みよい社会
  社会のあり方:グローカルな構成で、循環でサファイア社会

 存在と無
  存在とは:本当に在るのかの存在証明を内なる世界で行う
  無である:無にする覚悟で、社会に干渉し、好奇心を満たす
  考えること:考える意味を問うことで、大いなる意思で見える
  孤独で生きる:内なる世界の孤独で生き、社会の真理をめざす

 未唯空間
  考えを体系化:フロー・ストック情報で構造を考え、体系化する
  さまざまな表現:全域を、エッセイ・空間・プレゼンで表現する
  未唯空間の構成:近傍系の考えで、サファイアで未唯空間で構成
  未唯空間を進化:言語表現から項目間のコンパクトで位相化を図る

 サファイア革命
  革命の準備:革命の準備のために、分化を未唯空間で表現する
  全てを発信する:情報を収集し、関心を深めて、全てを発信する
  LL=GGの世界:社会の位相化で、LL=GGの新しい民主主義
  2030年の働きかけ:危機感から2030年の知識と意識のサファイア社会

 内なる世界
  ジャンルの変革:数学・社会・歴史で変革するためのスケジュール
  しあわせループ:店舗コミュニティからシェア社会への価値観
  自己肯定:根源的に考えて、問われたら応える自己肯定
  自分に還る:未唯宇宙で真理を得たので、自分に還ります

数学

 真理は数学に
  真理を求めて:真理があるとしたら、数学ということで決めた
  数学科:数学への思いから、数学で考える数学者の世界へ
  多様体を発見:近傍系を規定して、ローカルでの多様体を発見
  社会は多様体:社会の不変を規定することで、多様体として解析

 多様体の考え
  多様体モデル:多様体で、図書館、社会、歴史をモデル化
  ゼロから構築:理系は空間認識でゼロから構築する訓練をする
  複雑性の考え方:複雑性から、部分は全体よりも大きいことを確認
  販売店モデル:店舗・本社を空間配置し、サファイア構成

 数学は先駆け
  測地法の世界:算数は具体的なモノを地面に書いて始まった
  幾何学の限界:抽象化して、デカルト平面で考え始めた
  数学の独立:エルランゲンプログラムで数学自身の数学になる
  多様体で見る:ローカルを多様化して、グローバルで定義を行う

 社会に適用
  数学者の姿勢:思考で完結して、先を見て、全体を見る
  仕事に適用:数学を部品構成、実験結果、ネット設計に適用
  近傍系を武器に:ローカルでの近傍系を武器に動きを把握
  数学でまとめる:環境社会を持続型社会とし、モデルを作る

 数学の理論化
  TGALの循環:{Think,Act}と{Locally,Globally}で循環を定義
  対応する機能:サファイア循環に対応する4つの機能
  近傍系の発想:近傍系を連鎖して、位相空間を作る
  グループ設定:基本空間をベースにグループ設定を行う

 数学を展開
  生活規約:自分の時間を全て、考える生活にしていく
  具体的展開:数学を仕事などに当てはめ、民主主義を変える
  空間をつくる:近傍系で、空間の位相化をはかる
  数学を展開:世界を数学的に解釈して、社会の位相化を狙う

 新しい数学
  ユークリッド制約:ローカル規定をグローバルの多様な空間につなぐ
  特異点解消:特異点の歪みを除去して、意味のある空間を創出
  力を持つ空間:コミュニティで近傍空間を作り、組織を取り込む
  新しい数学活用:周縁の変化を解析して、空間の拡大・進化を図る

 内なる数学
  数学手法を駆使:個人の近傍化とトポロジー思考を駆使している
  ジャンルに適用:数学で仕事をモデル化し、生活に真理を持ち込む
  自律した社会:市民が主体の認識から、数学的に環境社会を構築
  歴史を変える:LL=GGと二極化したモノがつながる歴史の変節点

少子化と非婚化

2013年10月14日 | 5.その他
『日本のジェンダーを考える』より 結婚

晩婚化、非婚化か進んでいる。男性の生涯未婚率(五〇歳における未婚者の割合)は、一九八〇年の二・二八%から二〇一〇年の二〇・一%へと急上昇した。女性の生涯未婚率も、同じ期間に四・五%から一〇・六%へと上昇した。各年代の未婚率も、平均初婚結婚年齢も上昇の一途をたどっている。

人は結婚に何を期待するのだろうか。子どもをつくれること、夫婦間の分業が可能になること、共同生活によって住居費や食費などの生活費を節約できること、病気や怪我で一時的に働けなくなったときの保険となることなどが考えられる。また、夫婦間の愛情や信頼関係を築くという心理的な便益も重要だろう。

なかでも子どもは、かつては重要な労働力であり、セーフティーネットだった。わが国で、国民年金の制度ができたのは一九六一年のことであり、それ以前は、年金制度に加入していない人が多かった。制度ができてもすぐに十分な年金が支給されたわけではない。当時は農業社会であったこともあり、ほとんどの人にとって、老後は子どもの世話にならないと生きていけないのが現実だった。子どもは労働力やセーフティーネットの提供者としてなくてはならない存在だった。しかし、農業社会から工業社会、ポストエ業社会へと社会の経済構造が変わり、年金制度や介護保険制度が高齢者の世話というかつての子どもの役割を肩代わりした。それによって、子どもがもたらす便益、ひいては結婚の便益が大きく低下した。

一般には、晩婚化、非婚化か少子化の原因であるといわれる。確かに、個人のライフサイクルからみればそうであるが、歴史的な因果関係はその逆ではないだろうか。結婚する人が減ったから子どもが減ったというよりは、子どもを産み育てる必要がなくなったから結婚する必要がなくなったと考えるほうが論理的である。

結婚の便益として、子どもをつくることと同様に大きいのは、夫婦間の分業だった。夫は仕事、妻は家庭という分業によって、より効率的に働き家計を営むことができた。高度経済成長期以前の日本のように女性の稼得能力が非常に低かった時代には、ほとんどの女性にとって自分の所得だけで生活することは困難だった。結婚できるかどうかは女性にとって死活問題であった。結婚して、夫の収入で暮らせるようになってはじめて人並みの安定した生活ができるようになった。「結婚こそが女の幸せ」という、今の人たちからみると結婚に対する過大な期待や思い入れを、女性自身もまた世間ももっていたのはそのためである。

かつては、性別分業があるために、男女とも結婚によって便益が得られた。しかし今では、皮肉なことに、性別分業が結婚の便益を小さくし、晩婚化、非婚化をもたらしている。平均的には、女性の稼得能力は男性よりも低いが、個々のカップルについてみると、女性の稼得能力が男性と同等であったり、女性の稼得能力が男性に勝ることも珍しくない。ジェンダー所得格差が縮小するほど、そして同性内の所得格差が拡大するほど、確率的にはそうしたカップルが増える。しかし、伝統的性別分業がある限り、そのようなカップルにとって、結婚から得られる便益は小さい。

夫婦間分業に関する経済学の議論は、夫婦間の能力や適性に応じて分業が決められると仮定している。つまり夫婦のうち稼得能力の高いほうが稼得労働に専念し、稼得能力の低いほうが家事に専念する。その仮定に基づくと、専業主婦が専業主夫より圧倒的に多いのは、男性のほうが稼得能力が高いカップルが多いからということになる。

確かに現実の夫婦をみると、そのほとんどは夫のほうが稼得能力が高い。しかし、現実は原因と結果が逆である。女性は、伝統的性別分業が合理的となるような男性を結婚相手として選択する。つまり、結婚や出産後、自分が仕事を辞めても経済的に困らないように、自分より稼得能力の高い男性を選んで結婚するのである。男性もまた、妻が一時的に仕事を辞めても家族を養えるだけの経済力がなければ結婚する覚悟がもてない。

これを示しているのが図4‐1である。図は二〇〇四年に独身であった二二歳から三六歳までの男女のうち、所得階層ごとに二〇一〇年までに結婚した者の割合を示している。

男女とも年収五〇〇万円までは、所得が高いほど結婚確率が高くなる傾向にある。男女を比較すると、二つの注目すべき事実が明らかになる。一つは、所得が低いほど男性の結婚確率が女性に比して相対的に低いことである。年収二〇〇万円未満層では、男性の結婚確率は女性のおよそ半分である。それに対し、五〇〇万円以上層では、男性の結婚確率のほうが女性より高い。もう一つの特徴は、年収五〇〇万円を超えると女性の結婚確率は急に低下することである。男女とも年収五〇〇万円以上の層は四〇〇万円台の層より結婚確率が低いが、両者の差は女性のほうが大きい。女性の場合は、年収一〇〇万円台の結婚確率より低くなる。

これらの事実は、いずれも、女性が伝統的性別分業を前提に結婚相手を選んでいるという仮説と整合的である。女性は自分より所得の低い人と結婚したのでは、性別分業からの便益が得られないため、そのような相手は選ばない。その結果、男性は所得が低いほど女性と比べて相対的に結婚確率が低下する。さらに、年収が五〇〇万円あれば、女性は結婚しなくて毛人並みの生活ができる。結婚して一時的に専業主婦になってもいいと思えるほど収入のある男性を見つけるのは難しいことをこの図は示している。

最期までにやりたいことができる病気

2013年10月14日 | 7.生活
『どんな病気でも後悔しない死に方』より がん

さて、がんの場合に心がけるべき、最も大切なことをお伝えします。

それは、「悪くなった時は、経過は早い」ということです。一方で利点もあります。これも他の病気と異なった利点。それは、「やりたいことは、亡くなるまでの間に本来できる病気」ということです。がんは、それでも、他の病気よりは比較的若い段階でなります。例えば心臓や脳、肺の病気の終末期は現在非常に超高年齢化しています。さらに認知症などの末期では自らの状況を正しく理解し、残された時間に何かを積極的に為してゆくということは難しいものです。

世の中には「がんで死にたい」という方がいます。一つは、この何年から何力月という患う期間に「やりたいこと、やるべきこと」ができるという利点からです。

例えば、突然死は本人には苦しくないかもしれませんが、周囲にとってはつらいものでしょう。だからがん死はそんな一日で死に至ってしまう「突然の死」と比較して、自分ばかりではなく他人にも優しい、とそういうわけです。ある種「短すぎず長すぎない」死までの時間に、自らや家族のことを考えて生活することも可能です。自らの死を考える時間も、与えられるといえば与えられます。

また他の利点として、多くの場合、「自らの意思をやろうと思えば反映できること」「物理的には、多くの場合、自ら決断が可能であること」「緩和ケアの主対象疾患でありQOLに配慮してもらいやすいホスピス・緩和ケア病棟に入れること」などを挙げられる方が多いです。

私個人としては、認知症で寝たきりとなり、あまり満足なケアを受けていない方に比べると、がんは幸せなのではないかとも感じます。一方で問題は、その「悪くなると早い」という病気の性格があまり知られていないために、タイミングを様々な点で逃しているということです。ここからそのことを考えましょう。

ゆえに治療を受けながら、後悔が残らないように、やるべきこと、やりたいことを積極的に行っていかねばなりません。もちろんことはそう簡単ではありません。治療には副作用もありますし、定期的な通院もありますから、身体がだるかったり食欲がなかったり、動く気力がなかったりなどしてあっという間に次の通院日が来てしまって、あまりやるべきことや、やりたいことをできないということも少なくありません。

しかし、その時間が大切な時間なのです。なぜならば抗がん剤も以前よりは随分と副作用も少なくなりましたし、その対処法も整ってきましたから、「状態が急速な低下を示している段階」まで、抗がん剤治療が行われていることがしばしばあるわけです。

がんの場合の間違いは、状態が急速な低下を来たしてから、やるぺきことややりたいことを片付けようとしたり、あるいは最期をどこで過ごすのかを決めたりすることです。しかしそのような状態になると、身体が思うようになりません。状態悪化を来たす前に、全ての準備をしておかねばなりません。

準備とは、もちろん「やるべきことをやること」「やりたいことをやること」になります。いつ急速な状態悪化が来ても良いようにです。

5年生存率はあくまで目安にしか過ぎません。それよりずっと長く生きる方もいれば、そうではない方もいます。だからこそ、いつそれが来ても良いように準備しなければなりません。これは「焦ってください」ということを言っていません。かと言って、大丈夫大丈夫と安うけあいもしていません。答えはその合間です。長期生存を成し遂げた方の傾向を見ると、「準備をしていたらいつの間にか病気のことを忘れた」というのが最良なのではないかと感じています。

さて、自分のやりたいことの準備ばかりではなく、最期の医療に向けた準備をしなければいけません。

どういうことかと言いますと、がんの治療を行ってくれる大きな病院は、しばしば治療ができなくなると、他の病院に皆さんを紹介することになります。大きな病院は治療をする患者さんがたくさん来ますから、なかなか終末期の方を診続ける余裕がないからということが主因とされています。とはいえ、これも病院や科、あるいは主治医の先生ごとに考え方が異なるようです。ですので、事前に「いざ終末期ということになったらどうしたら良いのか?」を聞いておかなければなりません。

私は、この時に、終末期の当座(何カ月か)を過ごす場所と、終末期の最後(短い週単位から日にちの単位)を過ごす場所はどこか、そしてまた入院するとしたらどういう時かを事前に明らかにしておくことが重要と考えます。

私の場合は可能な限り、三者体制を敷くことが多いです。もともと自院にかかっている患者さんには、在宅医と訪問看護師の導入をお勧めし、最後の入院場所の選択肢を増やすためにホスピス・緩和ケア病棟の予約をしてもらいます。

まず、なぜ在宅医と訪問看護師を導入するか。それは家で生活できる時間を延長するためです。在宅医や訪問看護師は家まで来てくれますし、きちんと終末期の診療・看護をしてくれる施設は24時間体制で対応してくれます。いやむしろ、がんの患者さんは極力そういう施設を選ばないといけません。また終末期医療に通じ、できれば緩和ケアの知識・経験が多いところのほうが良いことは言うまでもありません。

体力が落ちると病院の外来に通うのも難しくなります。在宅医も緩和ケアの知識・技術を持っているところも少しずつではありますが増えてはいますから、そちらで薬物調整をしてもらうことも可能です。在宅医も処方Iを出せますし、薬局も訪問して薬剤を届けてくれます。つまり家から一歩も出ずに、医療・看護を受けることができ(もちろん介護もですが)、さらに薬剤まで届けてくれるのです。そして入院診療よりも、もちろん医療費ははるかに安いのです。

とりわけ在宅医や訪問看護師の関わる時間が数カ月程度となることが多いがんの終末期では、無尽蔵に医療費がかかるわけではありませんから、ぜひとも利用してほしいところです。