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ルネッサンスと宗教改革

『デンマークの歴史教科書』より ルネッサンスと宗教改革 1300-1650年

○こうしてデンマーク人はそれを獲得した

 王は、市民と農民を、“誤った無思慮な犬の群れ”として、反乱を起こすことを大目にみていた。しかし、特に農民は、貴族と仲が良い王を持ってきたと感じるようになった。多くの農民は、農園を王に捧げ、王の小作人となることを強制されていた。そして貴族は小作人を思いのままに使う許可を得ていた。

 王は外国との貿易の大部分を貴族に委ねていた。たとえば、穀物と家畜をドイツヘ売ることで、多くの貴族がとても裕福となった。

 古来、貴族は王の兵士だった。一方で、税金を払うことを免れていた。しかし今や、銃と大砲の時代だった。それは、鎧に身をまとった貴族軍は時代遅れとなったことを意味した。多くの貴族がその代わりに、土の高級官吏となった。同様に税金の支払いは免除されていた。

 1500年代は、商売と手工業の開花期だった。商人は国のためにたくさんのお金を稼いだ。そのため上は、都市の商売のためになる法を作ろうとした。少しずつ、コペンハーゲンの商人は外国との貿易を貴族から引き継いでいった。一部のこれらの商人はとても裕福になった。王と貴族が商人からお金を借りたので、商人もまた、次第に国家の運常への影響力を獲得していった。

 変化をもっとも感じたのは教会の聖職者たちだった/司教と修道院長はもはや、田家の迎行に影響力を持だなかった。教会はその価値を失い、経済面で下に頼った。しかしや聡t昔は独立した身分として残された。その身分には、川教、司祭長、川祭、教師が含まれていた。彼らの仕事は、デンマーク人がルター派の教えに基づいて暮らすのを世話することだった。

 修道院には、これまで同様に修道士と修道尼がいた。王は彼らに、残りの人生を修道院にいる許可を与えた。しかしカトリックのミサを開いてはいけなかった。都市では、多くの修道院が病院になっていった。それらは、高齢者、貧困者、病人の而倒をみる一種のケアホームであった。しかし病院には貧困者と病人を受け入れる場所だけがあり、残りの者は、生きるために物乞いをしなければならなかった。物乞いを抑えるために、市民からの分担金で賄われる貧困基金が設立された。集まった額は必要性がある者の間で分けられた。しかし十分ではなく、多くの者が同様に物乞いしなければならなかった。 2-5万人が物乞いをしてどうにか暮らしていたと推算されている。これは人口の5―10%に相当した。

○肥えた時代一誰かにとって

 1536―1660年は貴族の富裕時代と呼ばれる1536年の宗教改革以降、教会は王の下に置かれ、独立した権力を全く持たなくなった。今や貴族だけがほとんどの土地を所有し、枢密院に座って王とともに国を治めていた。その時代の人部分は、経済的にはうまくいっ九。デンマークは農業国で、穀物の価格は1630年ごろまで上がり続けた。その成果が一番最初に貴族の地主に恩恵をもたらした。より多くの土地を買い占めて領地を拡大した。森を切り払い、牧草地を畑に変えた。多くの貴族が新しい屋敷を建てる余裕を持った。

 農民は穀物価格の高騰の恩恵はたいしてうけなかった。収穫物はこれまで同様に、蒔かれた種の3-4借の穀物に過ぎなかった。主に農民自身で使い、一部は税金と支出に回った。ほとんどの農民は、農場と畑を地上から竹りる小作人だった。小作人の数は増加し、1650年ごろには耕作地のわずか6%だけが自作農のものだった。王はおよそ半分、貴族は約40%を所有していた。残りのわずかな部分が祁市の市民が所有する畑だった。小作人の生活は生存を賭けた日々の戦いだった。生産したものの主要な部分を自分たち白身で使い、残りを地主が、ランドギルデと呼ばれる小作料として受け収ったそのうえ、小作人は年問決まった目数、地主のために無償で働く義務があった。これはホウヴェリと呼ばれた。

 不作の年は、小作人が小作料を払うことができないことを意味した。もっともいい場合、地主から借金できた。最悪の場合、農場から追い出された。多くの戦争が農民に過酷な状況を強いた。農民はデンマークと敵の両方の兵士に食住を提供しなければならなかった。また、要塞建設と軍隊の他の仕事を強制的にさせられた。

○スウェーデン人との騒動

 1520年代にスウェーデンは最終的に、デンマークとノルウェーとの同盟から去った。グスタフ・ヴァーサもデンマーク王、クリスチャン3世もいずれも、同盟にまつわる高価な戦争をもう望まなかった。

 1500年代はじめには、ノルウェーは経済的に弱体化していた。わずかな貴族が残っていたが、国を治めるのに十分な力はなかった。クリスチャン3世はこれを利用した。1536年に王位を継いだと凱ノルウェーの枢密院を廃止した。これによってノルウェーは独立国でなくなり、スコーネとユトランドがそうであったように、デンマークの一部となった。 1560年代はじめには、フレデリク2世がデンマーク王位を、エーリク14世がスウェーデン王位を継いだ。両王は北欧全体の支配を欲したため、ここにデンマークとスウェーデンの問の平和な関係は終わりを告げた。

 1563年に、続く約100年間でデンマークとスウェーデンが戦った4回の大きな戦争の1回目が起きた。戦争の最も重要な理由は、北欧の統治権、バルト海貿易の支配権、デンマークが徴収していたオアスン海峡の通航税だった。戦争の結果として、デンマークは大きな領土を放棄しなければならず、国はもはや、北ヨーロッパの大国でなくなった。
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デンマークの農耕民

『デンマークの歴史教科書』より 農耕民 紀元前1万1000-1000

○デンマークでは

 およそ6000年前、現在デンマークと呼ばれる地域にはじめて農業がやってきた。すでにエルテベレ期の狩猟民は農業を知っていた。なぜなら北ドイツの農耕民と接触し、物を交換していた。しかし土地を耕し、家畜を飼うことは、狩猟民であることよりもはるかに多くの労働を必要としたので、必要性が出てくるまではデンマーク人は農耕民にならなかった

 ところがデンマークでは人口が増えていった。これは、狩猟、漁猟、食用ベリーや植物の採集では十分ではないことを意味した。飢えで死にたくなければ、狩猟民は農耕民になる必要があった。どのよ引こしてデンマーク人が農耕民となったのかは学者の問で意見が分かれる。ある者は、デンマーク人は少しずつ自分で農耕民であることを学んでいったと主張する。別の者は、デンマークに移住してきた人々から人地を耕し、家畜を飼うことを学んだと言う。

 人々はこれまで同様に多くの道具を石で作った。それゆえ、紀元前4000-1800年の時代は、農耕石器時代と呼ばれる。

○どうやって大地を耕したのか

 人が大地を耕した最初の方法は、焼畑農法と呼ばれる。大木を切り倒して森を開き、潅木や小さな木を焼く。燃焼の熱によって、土の一番上の数センチの層に含まれる栄養分が解き放たれる。同時に熱は雑草の種子を壊す。一旦は穀物を栽培することができるかもしれないが、数年後には土壌の栄養分は使い果たされ、雑草がはびこる。そうなると、最初からやり直し、新しい森を切り開かなければならなかった。

 焼畑農法によって、森の大きな面積が燃やされていった。そのため、餌となる動物や鳥の生息地が減っていき、人々は農業からもっともっと多くの食糧を手に入れなければならなくなった。同時に同じく、人口が増えていった。700一800年の問に、焼くのに適した森を見つけるのは難しくなっていた。生き残るためには、別の方法で畑を耕さなければならず、そのためそれほど急速には畑はやせなかった。

 こうして人々は次第にアード農法に移っていった。アードとはとても単純な鋤で、畑を縦横に引っかき、耕した。この方法で、畑がやせるまでより長く耕すことができた。しかしアード農法は焼畑よりも多くの労働を必要とし、畑を“すく”のに長い時間がかかった。耕す前に、石や根を取り除かなければならなかっ:だ。100㎡の畑をすくのに2日かかることが実験でわかっている。

○家畜

 実際には、農耕石器時代の豚、羊、ヤギ、牛を、家畜、と呼ぶのは間違っている。それらの動物は実際には年中外におり、牧夫が番をしていた。豚は、堕落に近い森で、根っこや木の実、食川になるものを自分でほじくり返して食べ物を得ていた。草が多い地域では、多くの羊やヤギが飼われた。牛はもっとも重要な家畜で、役畜として使われた。牛からは食べる肉の半分以上を取得し、衣服の革にも使われた。しかし牛は他の家畜よりもより手問がかかった。例えば、木々や潅木の葉を切り分けて、冬の食べ物としなければならなかった。

 農耕石器時代の最初の頃は、まず肉を目的に家畜を飼った。しかし次第に牛レ孔ヤギから乳を絞り始め、羊の毛を衣服を作るのに使い始めた。

○死は身近

 農耕石器時代の人々は狩猟石器時代と同じようには自然に依存していなかった。しかし、十分な食べ物を確実に得ていたと言うわけではない。干ばつや雨は収穫を台無しにし、動物は病気にさらされた。これは飢饉を意味した。

 農耕石器時代の人骨の調査から、わずかな数だけが40歳になったことがわかる。多くが出産中に亡くなり、生きて生まれた者のほぼ3分の2が成人になる前に死んだ。今日、多くの人が死を恐れ、死とは、滅多に話さない遠ざけられるものとされている。農耕石器時代でも人は、可能な限り長く生きたいと願った。しかし当時は薬、医者、病院などはなかった。だから死は常に身近なものであり、日常の生活の一部だった。死者は集落の近くの塚に埋葬された。もしかしたら、死者は崇拝されたのかもしれない。死者は必ず高価な贈り物とともに墓に埋葬された。

○集落

 集落は森の外れ、湖、小川、せせらぎもあるフィヨルドのそばにあった。ここでは、漁猟を営み、飲み水を得ることができた。同じ場所に何年も暮らしていたので家々は頑丈に建てられた。

 狩猟石器時代には、ひとつの集落の住民は独立したグループだった。農耕石器時代には、部族社会が出現した。つまり、複数の集落の住民が、部族長のような共通したリーダーの下に集まった。部族長は隣の部族と物を交換し、もし暮らす地域が敵に攻撃されれば、部族の男たちの先頭に立った。それぞれの部族は集会場を持っていた。ここに共同で死者への墓室を持った大きな塚を建てた。塚では、綺麗な陶器、琥珀細工、斧、動物、そして時には人川も捧げられた宗教的儀式が行われた。集会場では、フリント製斧や琥珀のような物も交換された。
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豊田市図書館の26冊

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 237.04『ヴェネツィア』東西ヨーロッパのなかめ 1081-1797

 134.96『存在と時間(三)』

 914.6『常識にとらわれない100の講義』

 913.6『人類資金Ⅲ』

 131.3『国家』

 238.95『デンマークの歴史教科書』デンマーク中学校歴史教科書 古代から現代の国際社会まで

 336.1『「アイデア講義」の実況中継』企画のプロが教える

 702.37『ミケランジェロ』

 798『超絶難問論理パズル』アタマの底力をひきだす72問

 289.3『マンガ はじめましてファインマン先生』超天才物理学者の頭の中

 913.6『1973年のピンボール』

 316.4『テロリズムの歴史』

 709『名景世界遺産 街並み編』

 361.9『図表でみる世界の社会問題3』OECD社会政策指標 貧困・不平等・社会的排除の国際比較

 490.15『どんな病気でも後悔しない死に方』

 336.4『「ゆとり世代」が職場に来たら読む本』彼らの価値観を理解すれば、100%戦力化できる!

 367.21『日本のジェンダーを考える』

 367.75『ひとり暮らしの老後に備える』

 A369『とよた市民活動ガイドブック 平成25年度』

 481.71『働くアリに幸せを』存続と滅びの組織論

 543.5『福島原子力帝国』原子力マフィアは二度嗤う

 675『今より高く売る!小さな会社のブランドづくり』「日経トップリーダー」の超人気セミナーを実況中継

 021.4『写真でアピールするレイアウト&カラーズ』

 537.06『「メイド・バイ・ジャパン」逆襲の戦略』四畳半から世界を狙う!

 497.04『観察力--確信を育てる』先入観という汚れを全て拭き取ろうとする配慮こそ、観察者の第一の要件だとだと思っています。ひらめきは、観察の結果築き上げられた未完の理論の先端からスパークし、そのひらめきから発見が生まれるのです。

 493.74『依存症のすべて』「やめられない気持ち」はどこから来る?
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