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ネット社会と「顔の見える地域社会」

『ネット時代の地方自治』より

ネットが浸透する現代社会は、常に、しかもすさまじいスピードで自己変革を遂げており、誰もその変化の先を予測できない。「LINE」は、携帯電話を軸とした24時間、いつでも、どこでも、無料で好きなだけ通話やメールが楽しめる新しいコミュニケーションアプリだ。この「LINE」が最近急速に利用者を増やし、フェイスブックを脅かすまでになっているのはよい例だろう。これまでも見たように、ネットコミュニティは、人々の社会関係資本に正の影響を与え、地理的制約を超えた助け合いを促すこともあれば、人間関係に影を落とし、ネット上のいじめのように、被害者をとことん追い詰め、破局に導くこともある。

ネットコミュニティは、匿名でバーチャルな世界であるという本質を変えることはできないだろう。人間は、生身の肉体を持ち、五感を統合しながら世界と向き合っている存在だ。そうであれば、ネットコミュニティにのみ身を置くことは、人間という存在にかなり深刻な影響を与えるのではないだろうか。

顔見知りの間で行われている日常的コミュニケーションは、やはりかけがえのないものである。そのことの価値を今一度再評価し、回復させていくことが求められている。地域の中のある場所で、実際に会い、言葉を交わす世界はリアルなものだ。だから、地域におけるコミュニケーションを活発にすることは、バーチャルな世界からリアルな世界への回帰を意味する。自治体が、自分からサービスを提供してほしいと名乗り出てくる人々のみを相手にするのではなく、古くから期待されてきたように、地域内に「生活の本拠」を有するすべての住民に対して誠実に向き合おうとするなら、自治体のトップと職員は、個人と他者との関係性やコミュニケーションのあり方に常に関心を払っておく必要があろう。広い意味でのコミュニティのありようがどのような様相を呈しているのか、どのように変貌しようとしているのかについてのイメージを持っておくことは、地方自治の重要なアクターである自治体の関係者にとり、とても大切なことだと私は思う。

ネット時代の日本の地域社会は、現実の世界においては、地域、職場、社会的目標、哲学、価値観、趣味、嗜好などを単位とするコミュニティがあり、その一方でネット上では、現実のコミュニティと関係があり、あるいは全く無関係なネットコミュニティが無数に存在し、変容し続けていると言うことができる。大事なことは、全体を見ることだ。ネットコミュニティや「ネット世論」の動向ばかりに気を取られていると、現実から遠ざかるおそれがある。ネット社会が将来破滅的な災厄を人類に与え、あるいは極端な復古主義者が権力を握ってネットワークをことごとく破壊し尽くすようなことがない限り、全面的に「顔の見える世界」が復権することはないだろう。逆に、ネット社会が「顔の見える地域社会」をかなり追い詰めてきているのが現状であり、両者のバランスが問われているのではないだろうか。

ネット社会と「顔の見える地域社会」は、必ずしも背反するものではない。共存し、補完し今っものにしなければならない。「顔の見える地域社会」が、ネット社会の負の側面をどのように和らげるのか、それぞれが持つ特性と、関わり合いの形について知恵を絞っていかなければならない。

ネットツールは、社会関係資本を増やしもし、減らしもする。大切なことは、ネットツールの特性を正確に理解し、うまく使いこなすことだ。私たちは、ネット世界の利点を最大限に活用する一方、ネット世界の影の部分をできるだけ減らしていく努力が求められている。ネットツールをうまく活用して「顔の見える地域社会」を内部から再生させ、さらに、それぞれの「顔の見える地域社会」をネットワーク化して、コミュニティが緩やかに連携した基礎自治体を構築することが考えられてもよいのではないだろうか。

現実の世界とネット世界の両方にまたがる、コミュニティの瞭乱のありようを冷静に見つめ、自治体がトップの明確なリーダーシップのもとに、組織の総合力を発揮し、生き生きとしたコミュニケーションに根ざした自治体経営といかに関連づけるかが問われていると思う。
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日本の伝統的社会からネットコミュニティヘ

『ネット時代の地方自治』より

グローバル化か進んだとはいえ、日本社会には日本的な特質がある。そのような日本的特質を持った地域社会とネット社会はどのような関係に立つのだろうか。

1983年、政治学者の京極純一は、著書『日本の政治』の中で、日本人社会においては、個人は親疎遠近の順序により四重の同心円の中に生きている、と論じた。

まず自分を取り囲む一番中心に「『身内』の世界」がある。最も小さい場合は母子であり、自分と一体化した家族がある。伝統的なイエ集合体となる場合もある。「『身内』の世界」の外側には「『仲間』の世界」がある。兄弟、親戚のほか、他人の中でも「狭い世間」に属する人々がこの仲間に該当する。ムラ集合体や同じ町内など地縁の上で近い人々、同じ職場の仲間、同業者、業界などの気心の知れた人々である。この「『仲間』の世界」の外側には「赤の他人」の「広い世間」が広がる。クニ、天下、日本全体の世界であるが、それは同時に「狭い日本」であり、その外側に「広い世界」がある。言語不通、文化断絶の異境である。


京極によれば、日本人の行動基準は、この四つの世界毎に明確に区別されてきたという。身内の世界は、「同じ釜の飯」を食う世界であり、融合一体を規準とする世界である。ここでは「暖かい人情」が支配し、完全信頼があるから、安らぎ、休息、寛ぎがあり、甘えと寛ぎが結合する結果、我借、無遠慮、無作法が現れる。

これに対して、「狭い世間」の交際は、互いに身元が分かっており、礼儀作法と遠慮を基調とする「お堅い」交際である。当事者の自前と対等を前提とする義理の交換であるが、それをあからさまにすることは好まれず、義理の交際に人情の裏打ちを求め、義理と人情の一致を理想とする強い集合体志向がある。この外にある「広い世間」では、人間同士は「赤の他人」であり、旅の恥はかき捨てでよい。「渡る世間に鬼はない」という一面もあるが、基本的には功名と出世を争う競争の戦場であり、人を人とは思わず、呑んでかかれというのが戦場の処世訓である。

最後の「広い世界」に対しては、日本人はこれまで自己矛盾に陥ってきた。それは自分たちとは異なる、所詮理解できない世界である一方、「文明」の源泉、憧憬の対象である。その結果、外国からの高名な短期滞在者に対しては歓迎、接待、歓送するが、長期滞在者については、「ガイジン」として扱い、また海外における現地採用者は、「同じ釜の飯」の世界には決して入れては貰えない。

また、京極は、タテマエ(建前)とホンネ(本音)についても触れ、両者を集団ないし個人における公益と私益の調整制度だと論じている。「日本の集合体とそのなかで支配する側の個人ないし集団は、イエ、ムラ、勤め先、クニ、すべてにおいて、タテマエを擁して服従を求め、服従を要求される側のホンネに拠る抵抗に直面することとなった」と述べ、タテマエとホンネの対抗関係の中に日本社会があるとした。

1983年、京極が著書『日本の政治』において日本人にとっての秩序とカオスを論じて以降、このような同心円的な社会モデルは、次第に空洞化してくる。「自分と一体化した家族」像は一般的なものではなくなろうとしている。そのような家族像が理想とされ、なお存在していることは確かであろうが、家族や家庭の空洞化が進んでいることはまぎれもない事実だ。また、職場の代表であったカイシャは、前近代のエートスと近代産業社会、ある意昧でのゲゼルシャフトが奇妙に結合したような様相を呈していたと思われるが、次第に輝きを失っていった。またグローバリズムの進展は、「ガイジン」という言葉すらも死語にしつつある。京極純一がモデル化した同心円構造は、部分的な存在になっているというべきだろうか。

他方で、京極(1983)の言う「タテマエとホンネの対抗関係」はネット社会でも観察することができる。例えば、匿名性こ情報発信源という武器をネット上で手に入れた個人は、支配する側に抵抗するためにホンネをネットにぶちまけており、その好例が2ちゃんねるであろう。巨大電子掲示板サイト「2ちゃんねる」では、タテマエとホンネを使い分ける日本社会において、匿名性という盾に守られた個人が、タテマエに縛られることなく、そして、ホンネをさらしても社会的に潰されることがない。1999年のサービス開始以来、現在でも1000万人を超える利用者数がいると言われているが、日本的なタテマエとホンネの関係の発露の場として、日本人にとって欠かせないものになっている。
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キーワード空間のハンドリング

全てを知ること

 全てを知るということは、項目を知るだけでなく、それらの関係付けを把握し、上から見た時に、論理的にどうなっているかを知るということです。

 その意味では、個人の分化、分化の意味を別のコミュニティとどうなるかを、この中で関係づけられます。これは現実の空間に非常に近い形になります。

 組織のような単層なカタチではなく、多層なカタチでつながって、カバーリングしていく。それをどのように見える化していく。

日本は共有化ができない

 今までも、ネットワークの考えもないし、情報共有もないし、共有化の考え方は、ローカル中心の藩から中央集権化する時点で、日本は確実に退化しました。

 ヨーロッパの場合は、国が近接しているので、色々な実験をそれぞれのところで行って、いいとこ取りしたり、影響を与え合って、やっています。独善的にならずに、依存せずに、自分たちで決めていきます。

 日本の場合は、それが全然できていません。たとえば、原発にしても、あんなものを隣国に垂れ流したら、国自体が攻撃されます。下手したら、NATO軍が攻めてきます。それレベルのことです。日本は平気でやっています。

 この感性を変えていくにはどうするか。自分たちが立派になっていくしかない。それをやっていくには、日本の力としては、企業から変えていくしかない。

 社会保障にしても、企業が行っています。国とか行政ではやられていない。税金で社会保証していないから、当たり前と言えば、当たり前です。

 だから、皆は企業に入ろうとします。今は、入ったからと言って、それだけのことはできない。だかえあ、非正規社員になっていくのです。企業は利益というものが主になっているからです。一応、CSはあるけど、実際、そんなことは考えていない。地域が一律の社会保障すれば、構図が変わります。

キーワード空間のハンドリング

 いいハンドリング法が見当たらないから、とりあえず、見ながら考えることにしました。人間の脳を使うことで、答えを見つけましょう。

 存在の力に対する、現在の意思の力をどういうキーワードで表現しようか。組織とかリーダーシップぐらいは分かるけど、ポータル、コミュニティ、情報共有以前の秩序は不明。

 意思の力と存在の力の使い分けは業種ではない。作る・売るものは意志の力で、使うものは存在の力です。

 キーワードは難しいものです。「思考過程」と言った時に、「思考」と「過程」なのか。

 「どこでも」「知の共有」は何のキーワードなのか。とりあえず、人間の感覚で判断していきます。「分化」は「個人の分化」「市民の分化」「組織の分化」などを集約したものです。「仕事の変化」と「社会の変革」も前を変えることで、内容が変わってきます。単なる集合論ではダメです。

 キーワードをどういう風に一つのカタチにするのかは、AIの助けがいる。

意思の力を表現する

 売るというやり方、作るというやり方に、意思の力が働きます。作るためには、意思の力は必要です。全体のエネルギーを作るのは必要です。それを一般の人に展開せずに、一部の人のところに留めておきます。その辺のバランスが、次の世界では必要なる。それをどう表現するのか。

言葉のハンドリング技術

 データのハンドリングに比べると、言葉のハンドリングははるかに難しい。というよりも、道具が揃っていない。部品表の時に、あれほど、簡単にできたことが、言葉を対象にするだけで、体系ができていない。それをハンドリングするための道具がない。

 研究開発部署では、人工知能言語で、ハンドリングできたのに、ここではエクセルしかない。このフィールドにAIが展開されていくはずです。今後のITの使い方はこちらになります。それで人類にどう貢献するかです。

 コミュニケーションの立場で、集合知をやるためには、言語のハンドリング技術は必要です。それに向けて、色々な道具が出てきているのは、確かです。グーグル・Facebook、アマゾンに期待しましょう。

 ただ、ライブラリ系が出てきていない。ナレッジ化したものをどのように集合知にしていくのか。人間のリテラシーを要求せずに、できるようにすることです。
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キーワード空間

キーワード空間

 未唯空間のキーワードで使用部位に関するファイルを作りましょう。それに合わせて、腰の部分を決めます。キーワード空間とは、論理的な、バーチャルな空間を作ることなんでしょう。

 その意味では、個人の分化と対比できます。実際、バーチャルな空間から、動かすことになります。社会の位相化というキーワードで、未唯空間の項目から集めてくることになる。

 ややこしいのは、それに対して、バーチャルの空間がどういう関係になるのか、その組み合わせによって、また異なります。組合せというよりも、集合関係なのか、関係づけなのかわかりません。

 学校図書館のマニュアルにしても、一つのジャンル、キーワードに対して、何を配置するのかというのと同じような発想になります。だから、インスピレーションのカタチを取ります。少し前だから、曼荼羅です。

言葉のハンドリング

 とりあえず、手でのハンドリングするけど、これらの手法が機械的に、システム的にできれば、大量のデータ処理の部分、メッセージ系のハンドリング部分で結論をどう持ってくるのか、コミュニティをどういうカタチが見えてくる。要するに、情報共有のところの関係が出来上がります。

 本来の第7章生活編は、自分の生活を通して、全体の構造、部分が全体よりも大きいことの証明を行っています。これらは今のシステム設計を超えるものになります。全てを知ることに対しては武器になります。

 民主主義はこういうことができないので、結局、多数決の論理で単層化してしまった。多層化したところでどうしていくのか。ネットワークとコンピュータとライブラリをどう使っていくのか。どういう関係にしていくのか。下から、カバーリングしていく時には、全体必要な機能になります。

 それが昨日から感じた、存在の無からの結論だとすると、あまりにも、前向きすぎます。

多層的な環境社会

 環境社会も単純にCO2削減ではダメです。色々なものをやっていかないといけない。色々なコミュニティが必要です。そこに分散するのではなく、市民が分化して、それぞれに関わって行動するカタチになる。

 ましてや、家庭をかえていかないといけない。色々なファクターを持たないといけない。自分たちが出来ることと、他がやること、行政がやること、政府がやること、産業に任せること。それを自分たちの頭の中でやるとしても、どのようなカタチで整理すればいいのか。

 図書館だけで、知識と意識だけではダメです。それらを駆使できる、システムの支援が必要です。ライブラリに対するサポートです。それをするためには、上からのポインターだけでなく、下からのポインター、部品表で言うならば、使用部位的な発想です。

 これは人間の能力を超えています。人間は、自分の近くしか見えていません。それがどういう影響を与えるかが見えない。時間軸も見えていない。環境社会にとっては、自分の狭い範囲の中でも何をしたらいいのか分からないので、結局は政府とかマスコミに言いなりになって、お金を出すだけです。

社会の位相化の役割

 自分が主体的に動くと言っても、何を動けばいいのか、それがどういう関係になるのか、全然見えません。それらが見えるロジックをどう作っていくのか。それがトポロジーに課せられた役割です。社会の位相化の役割です。

 クルマを売るとか、使うということも、同じようなことになります。環境社会だけでは、自分だけで使っていればいいというものではない。かといって、プリウスだからというのも答えではない。

 もっと、複雑なモノから、いかに単純にして、答えを出すのか。それを自分の身近で行うことを、全てがつながっていく関係図ができること。
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