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無責任体制の中の個人

『いまを生きるための政治学』より 政治はどのように展開されるのか 目の前の不条理と戦う

組織において外形的な忠誠が強調され、同調主義が広がると、内側からの自己変革を押し殺すことを説明した。そのような組織においては、丸山笑男の言う「無責任体制」が蔓延する。無責任体制とは、丸山が満州事変以降の日本の戦争遂行の過程を分析する中で考之出した概念である。日本において戦争責任の追及が困難な理由として、当時の指導部には計画性と指導力が欠如していたことがあげられる。大きな策略もなければ、決定した主体もいないという状態のまま、日本は戦争の深みにはまっていった。丸山は、なぜそんなことが起こったのかを考察した。

丸山は、日本の軍国主義指導者の特徴として、既成事実への屈服と権限への逃避の二つをあげる。前者については、すでにエセ現実主義という態度を説明する中で触れた。つまり、出来上がった現実を不動の前提として、それ自体には手を触れないという態度である。仮にそれが誤った現実でも、それを是正するという主体的な作為の契機は存在しない。たとえば、満州事変以降の大陸侵略は、段階的に進められた。侵攻が深まれば、その都度それが現実とみなされ、その上に次の政策が考えられる。事態を巻き戻して、平和の状態に戻るとか、戦争の拡大を回避するという政策は、そこから生まれてこない。

指導者が既成事実に屈服するということは、形式的な指揮命令権を持つ支配者が、実際には権力を行使できない、あるいはしないことを意味する。既成事実を作りだすのは、戦争の場合で言えば、現場、末端の士官である。下剋上を抑えきれないまま、指導部は現場の無法者が作り出す新しい現実に引きずられ、事態は悪化の一途をたどる。故に、指導力不在の空間で、戦争という事実が拡大していった。

権限への逃避とは、役人根性とも言い換えられる。これは、能動性の欠如、主体性の放棄という点で、既成事実への屈服とつながっている。軍国日本の指導者は、形式上権力者でありながら、政策の選択肢について考え、最終的に自分で決定するという主体性を持だない。外形上決定する地位にいる指導者も、下の人間が用意した決裁の書類に捺印するという手続的、形式的な作業として、決定という作業をとらえている。そして、政策決定の結果が大失敗に終わっても、形の上で決定に参与したので、自分には実質的な責任はないと抗弁する。これが、権限への逃避である。

政治家と官僚の関係に関連させて考えれば、権限への逃避とは政治家の自己否定と言うこともできる。政策の選択肢について考えをめぐらせ、決定の準備をするのは官僚の仕事である。官僚の仕事はそこまでなので、政策決定について責任を問われることはない。政治家は本来、政策の選択肢を自分なりに比較、検討し、最終的に一つの選択肢を選ぶ、決定するという作業を担うとされてきた。その結果が成功に終われば、政治家は称賛を受け、国民から感謝される。失敗に終われば、責任を追及され、国民から制裁を受ける。それが政治家たる者の宿命である。政治家が権限に逃避するとは、決定という最も重要な作業を放棄し、自分を飾り、あるいは操り人形に既めることを意味する。

丸山によれば、軍国日本は、小心翼々たる役人根性しか持たない軍人が、国家の上層部にひしめき、国を動かした体制であった。国が破滅したのち、そのことに対する責任を問われて、日本では誰ひとり自分の判断によってこのような帰結をもたらしたと認める者は現れなかった。その点がナチスドイツの指導者との大きな違いであった。もっとも、ドイツでも役人根性をむき出しにして責任を逃れようとした戦犯は存在した。強制収容所にユダヤ人を鉄道輸送する作業の責任者であったアドルフーアイヒマンは、戦後、逃亡先のアルゼンチンで捕えられ、イスラエルで裁判にかけられた。この時、自分は命令に従っただけだと抗弁した。権限への逃避は、責任を逃れようとする人間の常套手段である。ドイツの哲学者ギュンター・アンダースは、アイヒマンの息子に公開書簡を送り、アイヒマン問題を次のように定式化している。ここで言う彼らとは、アイヒマンに代表される巨大な罪を犯した小心な官吏である。

 彼らが自分自身をもはや機械の部品としてしか見なかった。

 彼らは機械の存在とすぐれた機能を機械を正当化するものだと誤解した。

 彼らは幾重もの壁によって最終的効果から隔てられ、自分の専門職の「囚人」であり続けた。

 彼らはこの最終的効果が法外な大きさであるために効果を想像することができず、また自分の仕事の間接性のために、自分がその抹殺にかかわっている大量の人間を知覚できないようになっていた。
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多数とは誰のことか

『いまを生きるための政治学』より 政治に参加するということ

政策を決定するのは多数決によるとして、では人々はどのようにして多数と少数に分かれるのであろうか。あるいは、多数派というまとまりは、どのようにして形成されるのであろうか。

政治における多数のまとまりは、社会における利害や立場の分化に対応することがある。ヨーロッパであれば、カトリックとプロテスタントという宗教的分岐や言語、民族といった単位でまとまりができることもある。一九世紀以降、資本主義経済の発達とともに貧富の格差が拡大してくると、先進国では経済的な力の大小が、まとまりを規定するようになった。労働者は、労働組合を結成し、それを基盤とした左派政党を作り、再分配を求めた。他方、経営者や富裕層は保守的政党を支持した。そして、この二つの勢力が多数を求めて競争するようになった。これが二大政党制あるいは二極的政党システムの基本形である。

しかし、富裕層の人数と労働者の人数が政治の世界でそのまま多数決に反映されるわけではない。いつの時代にも、常に富裕層は少数であり、労働者は多数である。しかし、どこの国でも保守的政党が支配する時代の方が長い。人は、所得水準によって政治的なまとまりを作るとは限らない。

その一つの理由としては、二〇世紀後半という時代には、各国で中間層が形成され、単純な階級対立の図式が崩れたことが挙げられる。中間層に属する人々の中には、ある程度の財産を持ち、富裕層と同じような政治意識を持つ者も出てきた。

では、グローバル金融資本主義の展開によって、格差が再び拡大し、中間層が分解するようになった二〇世紀末から二一世紀初頭にかけてはどうであろう。一般の労働者の賃金は下がる一方で、金融機関の経営幹部は日本円で数十億円の報酬を得て、その上彼らが投機に失敗して金融危機が発生すると、国民の税金によって金融機関は救済される。金融経済の暴走に抗議するアメリカの市民運動、ウォールストリート占拠では、「九九対一」というスローガンが叫ばれた[『オキュパイ? ガゼット』編集部二〇一二]。グローバル金融資本主義の中で富を得るのは国民の一%で、九九%は犠牲を強いられるという意味である。実際に統計が示すとおり、上位階層への富の集中は進んでいる(図2-1)。この運動は、二○一二年の大統領選挙で再選を目指したオバマに大きな影響を与えた。そして、オバマは中関層の復活を公約に掲げた。しかし、同時に選挙が行われた下院では、共和党が多数を占めている。共和党は金持ち優遇減税の廃止に強硬に反対し、財政赤字削減をめぐる議論はデッドロックに陥っている。

九九%の人々が現状を理解し、富の集中に怒り、金融の暴走に規制をかける政策に賛成すれば、政治の世界では圧倒的に勝利できるはずである。では、なぜ実際にはそうならないのであろうか。客観的な階層所属と、主観的な自己認識の間にずれがあるということは一つの説明である。実際には貧しくても、富裕層になれるという幻想を持っている人もいるであろう。

より大きな問題は、金融機関の無軌道、無責任に怒るという共通の前提から出発しても、九九%の中で異なる主張に分化するという現象が起こる点である。民主党リペラル派の政治家は、金融機関に対する規制の強化と、社会保障を通じた労働者への再分配を主張する。これに対して共和党は、金融機関救済のための公的支出の拡大を批判する。そして、社会保障の縮小や減税を主張する。

人間は自分の置かれている経済的状況を正確に理解することは困難であり、それを改善するための理路は複数あって、どれが正しいかはすぐにわからない。日本の例を取るなら、一九九〇年ごろから生活者というシンボルがしばしば使われるようになり、生産、供給者に対する保護を撤廃することが、価格の低下をもたらし、生活者の利益を増進すると言われてきた。確かに、規制緩和や投資の自由化で、安い製品が国内市場にあふれるようになった。しかし、同時に賃金も下落している。生活者のための政策が、必ずしも生活を楽にしているわけではないのである。「官と民」、「生産者と消費者」、「高齢者と若年層」など、同じように生活をしている人々を分けるシンボルが政治の中で飛び交う。そうした言葉の中からどれかを選んで、人は自分の所属するまとまりを決める。

だから、九九%を一つの政治的主張にまとめることは実は困難な作業である。また、自由で競争的な民主政治の中では、様々な主張、集団が、多数の支持を求めて出現するものである。それは民主政治の宿命である。それを前提としたうえで、政策的主張をするときには、少しでも多くの人々の共感を獲得できるような言葉と運動のスタイルを見つけることが必要となる。
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ポータル検討での疑問点

キーワードについて

 国民国家は従来の体制のキーワードですね。キーワードだけで、要約が理解できることを定義にしましょう。キーワードが一緒なら、項目のイメージは同じはずです。キーワードを原因なのか、結果なのか、要素なのか。

パートナーの問題意識

 問題が伝わっていないのと、意識が伝わっていないのと、その証明が中途半端です。だから、いくらでも突っ込まれるけど、何も言えない状態だということです。言えないのが問題です。

 自信がないなら、自信がないで、どうやって行くかを決めないといけない。

ポータル検討

 ESBの機能で、従来システムとつなげるが、内容と制約がわからない。

 パートナーからの指摘事項としては、ロールという言葉は使わない方がいい。

 コラボレーションでは、グループの設定が重要。チャッターとお知らせの使い分けがどうなるのか。

 Iフレームは既存の情報系以外に何に使うのか。使う時に設定だけでは済まない。むしろ、移行をどうするかです。

 「SFDC標準画面のために、デフォルトで表示されているボタンの非表示が不可」ここをどうするのか。なるべく、シンプルで分かり易いものにしていく。

 検索するためのコンテンツの範囲。どういうケースがあるのか。検索エンジンはChatterと同じレベルなのか。具体的なモノが見えない。範囲の絞込みがどうなっているのか。

 検索時に、ファイルの題名でもってくるが、メッセージのテキストは対象にできているのか。

 アップロードの整理の仕方。クラウドだから、ファイルだけでしかできないというのは、言い訳にもなっていない。Chatterにアップロードされているファイルを選択する場合、Chatterはグループ単位です。

 グループ単位のものと全体のものをどう関係づけていくのか。これが、サファイア循環と同じ問題になる。ということは、ここで具体的に対策出来れば、サファイア全体に展開できる。

 Chatterでグループを設定したものと、全体との整合性をどう持って行くのか。Chatterはライブラリとメッセージが一緒になっています。ポータルはライブラリは別になっています。どのように、ライブラリから、お知らせとかChatterにつなげるか。

 お知らせの「カテゴリー」の観点も分かっているのか。表面だけでは機能しない。どうしたら、目的にかなったポータルができるのか。まだまだ、足りない。とりあえず、現状をやっただけです。知識と意識のコミュニティにも、情報共有のイメージが見えてこない。

ICレコーダーの指向性マイク

 このICレコーダーの志向性マイクはかなり、上等です。もっと、静かなら、使えます。

エクソダスという言葉

 エクソダス、昔、これに憧れました。モーゼの出エジプト記、毛沢東の長征、そして、イスラエルへの帰還の船の名前です。

 研究開発部署で使った、MACとUNIXをつなげてしまうソフトの名前です。Exodus。
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