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アンダルシア 新しいエネルギーと産業の可能性

『アンダルシアを知るための53章』より

ついに世界のリーディング産業登場か、と期待されるスベインの産業部門が「離陸」した。それが「再生可能エネルギー産業」である。その中心が風力や太陽光・熱であるが、アンダルシア州の事情はスベイン全体の状況とは異なっている。その現状をみていこう。

一次エネルギー供給に占める再生可能エネルギーの比率は、スベイン、アンダルシア州ともに約8%と依然として小さい。再生可能エネルギーが普及すれば、日本と同じ石油依存国であるスベインにとってはエネルギー自給率の向上を意味する。再生可能エネルギーはほぼ100%が発電に向けられることから、スペイン全体の再生可能エネルギーの発電許容量比率をみると、もっとも多いのが風力で全体の半分を占め、続いてコ・ジェネレーション、太陽エネルギー、水力、廃棄物、バイオマスとなっている。しかしアンダルシア州では、バイオマスがダントツの1位であり、2位が風力、太陽エネルギーが3位、水力が4位となっている。アンダルシア州のバイオマス生産は、同州主要農産物の一つであるオリーブ生産と不可分の関係にある。オリーブ生産量世界1位のスベインにおいて同州は一大生産地域である。生産面積(150万ヘクタール)はスベイン全体の約60%を占め、オリーブ果実生産では(年間平均約400万トン以上同じく約80%を占める。

オリーブ果実全生産量のうち93%がオリーブオイル生産に向けられる。これら果実のうちオリーブオイルに精製されるのは20%であり、残りの80%は搾りかすとなる。つまりオリーブオイル約70トンが生産されるのに対して、搾りかすが約300トンも副次的産物となるのである。これらがバイオマス資源に向けられる。さらにオリーブ樹木の派生物もこれに加わる。1ヘクタールのオリーブ樹木から平均3トンの剪定枝が生じるので、年間にすると、約200万トンの剪定枝が生じる。従来は、これらをオリーブ畑で燃やしていたが、同州が開発した専用機械で、剪定枝をバイオマス燃料用の木片に変えることで、バイオマス資源となった。さらに、ヒマワリ、ワタ、コメ、施設園芸作物、コルク、砂糖などから生じる農林工業残滓物もバイオマス資源に循環される。

オリーブ大生産地のハエン県、コルドバ県、グラナダ県では、これらの残滓物のバイオマス資源化を業態とする企業が約15社創設されている。また大小さまざまな規模のバイオマス発電所とバイオガス発電所も建設された。従来ならばいわば「お荷物」であった派生残滓物が再生可能エネルギーになることは、二酸化炭素削減に大きく貢献するとともに、地元産業・雇用創出効果という二重の効果という結果をもたらした。ただし、問題もある。オリーブ生産量はEU規模で生産調整されるために、それに比例してバイオマス資源供給量が左右されてしまうことである。

2004年までの州別風力総容量はガリシア州に次いでアンダルシア州が2位であったが、2008年では両州を抜いたカスティーリャ・ラーマンチャ州とカスティーリャ・イーレオン州が1、2位を占め、アンダルシア州は4位に位置している。風力発電設備は同州全体で91力所(2008年)設置されているが、とりわけスベイン最南端のカディス県に54力所と集中している。アンダルシア州の経済発展からみた問題は、地元企業・雇用を生んだバイオマス利用と異なり、州内風力発電設備メーカーおよびウィンドファーム運営会社をほとんど創出していないことにある。スベイン全体では2008年までの風力装置設置実績はガメーサ社が半分を占め、4分の1を外資が設置している。風力発電設備の場合、構成部品は約1万5000点といわれ、部品数は多い。したがって裾野産業創出効果は高い。アンダルシア州にはそれらの部品産業・企業がほとんどなく、多くは北部スペインに創出された。ここにアンダルシア州社会経済の問題がある。

太陽エネルギー利用という点では、年間日照時間が約3000時間のアンダルシア州は太陽エネルギー利用のメッカのように思われている。実際、太陽熱エネルギー施設の累積設置面積は、国内ではアンダルシア州がもっとも広い。個別ケースを見ても、アルメリア、グラナダ、セビーリャ各都市郊外に建設された新型施設は、将来の同国太陽エネルギー利用の発展を牽引していくであろう。しかし同州産業・経済の「離陸」という観点からすると、別の将来が見えてくる。
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豊田市図書館の28冊

豊田市図書館の28冊

心の穴を本で埋めるしかない。すべてを知りたい!

 289.1『闘う南方熊楠』「エコロジー」の先駆者

 159.4『スターバックスCEOだった私が社員の贈り続けた31の言葉』

 124.57『ヘタなリーダー論より「韓非子」の教え』現実直視のこの〝戒め〟が、必ずあなたを強くする!

 134.9『真理と方法Ⅲ』

 689.5『ディズニー流!みんなを幸せにする「最高のスタッフ」の育て方』

 290.93『新世界一周NAVI』世界一周航空券完全ガイド 世界一周なんてカンタンだ!

 210.3『古代の社会と人物』

 336.2『トリアージ仕事術』 10の仕事を1の力でミスなく回す

 910.26『週刊 司馬遼太郎』 「新選組血風録」「「坂の上の雲」「空海の風景

 342.1『増税時代』 われわれは、どう向き合うべきか

 410.96『数学的推論が世界を変える』 金融・ゲーム・コンピューター

 509.21『性能限界』モノづくり日本に立ちはだかるもう一つの壁

 501.6『減電社会』 コミュニティから始めるエネルギー革命

 125.4『入門 朱子学と陽明学』

 767.8『前田敦子はキリストを超えた』 <宗教>としてのAKB48

 159『18分集中法』 時間の「質」を高める

 304『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チェムスキー、…

 302.2『隣りの国の真実』 韓国・北朝鮮篇

 304『日本の危機』私たちは何をしなければならないのか

 366.9『僕たちの前途』

 387『知れば恐ろしい日本の風習』「夜に口笛を吹いてはならない」の本当の理由とは……

 451.85『地球温暖化との闘い』 すべては未来の子どもたちのために 枝廣淳子監訳

 302.36『アンダルシアを知るための53章』

 675『グランズウェル』予約して、購入してもらった。 ソーシャルテクノロジーによる企業戦略

 675『リッスン・ファースト!』予約して、購入してもらった。 ソーシャルリスニングの教科書

 159『10年後生き残る人、消えてしまう人』今これだけは知っておく、始めておく!

 675『エンパワード』予約して、購入してもらった。』ソーシャルメディアを最大活用する組織体制

 304『怒る!日本文化論』よその子供とよその大人の叱りかた 行儀の悪い子供を叱れない人に、天下国家を語る資格はありません!
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マスウードは「パンジシェールの獅子」

『中央アジア』より アフガニスタン 冷戦の代理戦争

カールマルは、1980年1月に半人道的、反民主的な政策の撤廃や政治犯の釈放を発表し、少数民族やムスリムを含んだ民主国家の設立を目指すとして反政府勢力の懐柔に臨んだが、各地での反政府ゲリラ活動は頻発した。一方国際社会はソ連軍侵攻を非難した。カーター米大統領が「カーター・ドクトリン」を発表し、対ソ連穀物追加輸出を停止したほか、モスクワオリンピックヘの不参加を発表、多くの西側諸国がこれに協調した。さらにルーマニアやユーゴスラビアなどの東欧諸国や、西側諸国の共産党、中国もソ連の軍事侵攻を非難した。これに対しブレジネフ書記長は、外国勢力による軍事干渉がアフガニスタンの独立を損ない、ソ連南部地域に帝国主義的前線基地がっくられる危険性があった,と軍事侵攻の理由を説明した。だが1月14日、国連ではソ連軍の「アフガニスタンからの外国軍隊の撤退要求決議案」が賛成多数で採択された。

ソ連軍侵攻に伴い,ムスリムの6グループは「イスラーム擁護同盟」を結成した。これにはラッバーニーの「イスラーム協会」、ラッバーニーと快を分かったヘクマティヤールの「イスラーム党」、1979年にヘクマティヤールのイスラーム党と離れたユーノス・ハーリスの「イスラーム党ハーリス派」、スィブガトゥッラー・ムジャッディディーの「民族救国戦線」、ナビー・ムハンマディの「イスラーム革命運動」,サイイド・アフマド・ギーラーニーの「イスラーム革命民族戦線」が参加した。彼らはアフガニスタンにおけるイスラーム体制の確立を主張することで一致したが、ヘクマティヤールはイラン革命に強く影響を受けたため、武力行使を辞さないイスラーム革命を主張して、国王復権も認めた穏健派と対立した。彼はまたイランやパキスタンとイスラーム国家としての連帯を主張し、これらの国々からの支援も認めた。だがラッバーニー派の司令官マスウードは武力行使を時期尚早と認識し、さらに外国、特に非イスラーム諸国からの援助を嫌ったため、あらゆる援助を受けたヘクマティヤールと対立した。こうしたムスリム勢力は、ジハードを実践する者、という意味の「ムジャ・ヒディーン」、あるいはその戦法から「アフガンゲリラ」とも呼ばれた。彼らは意見の対立を繰り返し、けっして一枚岩にならなかった。

ムジャ・ヒディーンは主導権争いの結果、発足後1ヵ月余でヘクマティヤールが連盟を脱退、5グループが「アフガニスタン解放イスラーム擁護連盟を結成した。ムジャ・ヒディーン勢力の対立の要因には民族や部族、宗派の違い、指導者の政治的方向性や社会基盤の相違、覇権をめぐる個人的な対立を挙げられるが、この対立を通して各グループが民族的な基盤を強調し,周辺諸国との密接な関係を築くことになり、現在の軍閥形成につながった。またこの時期、ムジャ・ヒディーンはカーブルとジャラーラーバードの間など主要道路を支配下とし、通行料を徴収し始めた。このような資金獲得活動もまた、地方の軍閥を形成する一因となった。

上記のグループがスンナ派であるのに対し、シーア派はイラン国内でグループを編成した。1979年にサイイド・アリー・ビヒシュティーが結成した、ハザーラ人による「アフガニスタン・イスラーム・統一革命評議会」は、シーア派による最初の団体であったが、1982年頃に内部分裂した。その最大勢力はアースィフ・モーセニーが率いるイスラーム運動党だった。そのほかにイラン革命の影響を受けた急進派の若者で構成される「イスラームの勝利青年団」や、親イラン派の「防衛兵士団」「救済党」「イスラーム青年団」「祖国党」などがあった。これらシーア派9団体は1990年にテヘランで「イスラーム統一党」を結成し、シーア派、ハザーラ人の権益保護を主張した。

国軍の兵力が不足する中、革命評議会は1981年に徴兵法を公布して20歳以上の男子に対し徴兵の義務を課した。また労働賃金の引き上げや農民の土地税免除、政治犯釈放などでの懐柔案を提案した。さらに、この年の5月にアリー・ケシュトマンド革命評議会副議長を閣僚会議議長兼首相とする内閣が発足すると、宗教的・部族的伝統を尊重する土地改革法の改正を発表し,モスク所有地や宗教学者、あるいは部族長や近代農法での農家を対象外と定めた。こうして政府は、反政府運動を展開中のグループのうち、イデオローグではない、地主や一般の市民を懐柔して,反政府運動の分解を試みた。だが戦争は収まらず、泥沼化する一方だった。

戦争の泥沼化の要因に反政府勢力による「ゲリラ戦」があげられたが、当時200近く存在した反政府グループは、ソ連と政府への敵意以外に共通点はないどころか、イスラームの信仰さえも共有していなかった。反政府勢力は、ラッバーニ-やヘクマティヤールなどのインテリ層のみならず,マドラサ(イスラーム学院)に学んだムスリム、地元の聖者崇拝を尊重するムスリム、あるいは農地改革に反対する農民など、多様なグループが連携をとらぬまま別々に蜂起したのだった。したがって反政府勢力は相互で「あまり相談せずに効果的な戦闘を展開」した。これが「ゲリラ」的戦闘を導いたのである。ムジャーヒディーンが戦術を知らず、場当たり的な戦闘しかできなかったのに対し、ソ連軍は典型的な上意下達の戦略をとり、臨機応変な戦術をとらなかったことも指摘された。また激戦地となった北東部パンジシェール渓谷は、険しく起伏の激しい山岳地帯で、平野での戦闘に慣れていたソ連軍兵士が苦戦を強いられたの対し、この山岳部を故郷とするマスウード率いるムジャ・ヒディーンは、山岳部を抜けて奇襲を繰り返すことで、「ゲリラ」的戦闘を可能とした。1985年にソ連軍はパンジシェール渓谷への総攻撃を仕掛け、死者数は2000人超となったが、ムジャ・ヒディーンは屈服しなかった。この戦闘はソ連軍撤退を導いた象徴的なものといわれ,マスウードは「パンジシェールの獅子」と英雄視された。さらに戦争の膠着化の要因には、ソ連軍兵士の中にウズベク系など民族的同胞意識からムジャ・ヒディーンに加わる者やさまざまな疾病に罹る兵士が続出したり、麻薬に溺れる者も出て,士気が低下したこともあげられた。さらに、1987年にはアメリカが熱追尾方式のスティンガーミサイルをムジャ・ヒディーンに供与したことで、ソ連軍用機撃墜を可能としたことや、パキスタンやアラブ諸国、東南アジア諸国からムジャ・ヒディーンとして多くのムスリムが戦闘に参加したことで、ムジャーヒディーンの戦闘能力は高まった。戦争の継続とともに難民問題も深刻化した。1985年末の時点で、パキスタンヘの難民数は270万人、イランヘの難民数は78万人と発表された。

1986年5月に、カールマルが書記長を辞任すると、後任には秘密警察局長だった強硬派のナジ・ブッラーが選出された。だが一方で、ゴルバチョフ書記長はソ連軍の早期撤退を検討していると発言し、一部での撤退も実施された。翌1987年、ナジ・ブッラー書記長は新憲法制定のローヤ・ジルガを開催、イスラームを国教に制定し、国名を「アフガニスタン共和国」に変更して「民主」の語句を取り、共産主義の印象を拭った国民和解路線を掲げたが、ムジャーヒディーンはナジーブッラー政権がソ連の傀儡だとして,その打倒を掲げ、ソ連軍には無条件撤退を求めた。
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アメリカ政府とイラク戦争 政権上層部

『シビリアンの戦争』より イラク戦争

行政府の中でもっとも政治が支配するところであるホワイトハウスでは、上層部やスタッフのほとんどが戦争推進派であった。省庁や委員会などの他の行政機構では、パウエルやオニールなどを除く長官たちの多くが戦争を支持し、彼らの補佐に当たる政治任用高官の多くが同様の攻撃的な政策志向を取った。NSCや国防総省の中の政治任用高官はイラク戦争やその計画過程を牽引する役割を担い、亡命イラク人のアフマド・チャラビの重用や極端な脱バース化計画など問題がある政策を生み出した。政権上層部に注目してアイデンティティを分析すると、今までどのようなキャリアを歩んできたかということと、政策過程で何を重んじるかという意識の違いが戦争への態度に反映されていたことが分かる。

チェイニー副大統領は、湾岸戦争時の国防長官時代とは打って変わって理念先行型ないし独断型の人間になったと評価されることが多い。その変化の背景には、副大統領としての彼に備わった民意を反映した正統性と権力があった。チェイニーはホワイトハウスのスタッフ、大統領次席補佐官、首席補佐官としてキャリアを積み、政治家として出馬して保守派の下院指導者になり、また国防長官に任命されるというホワイトハウスの政治任用高官・議会政治家の混合キャリアを歩んできた。副大統領になったチェイニーは、すでに自立した支持基盤と正統性をもつ政治家であったということができるだろう。そのうえ、チェイニーはブッシュの政治的対抗者ではなかったこと、両者の目的が一致しただけでなく、関係が親しかったことも彼の政策上の影響力を増大させただろう。

一方、ラムズフェルドは過去に大統領を目指したこともあるが、このときすでにブッシュの政治的競争者ではなかった。ラムズフェルドは若かりし頃、大統領首席補佐官として活躍し、国防長官も務めたが、製薬企業の経営者としても、人脈を活かして政府機関との折衝を有利に進めたり、大胆なコストカットを行ったりして成功を収めている。彼は政治的忠誠心や利害で動く、まさに政治家であった。しかも同輩が多数いる議員ではなくトップを求める傾向があり、彼は常に自分が大統領である場合に国防長官に求めるものを意識して行動していたといわれる。実際、これまで見てきた彼の行動や思考からは、大統領の推進する戦争が現実的に可能ならばそれをいかに実行するかという問題に集中すべきであって、戦うべきか否かという必要性の議論は重要ではないと考えていたことが窺える。同時に、彼はイラク戦争を彼の目的である米軍再編の推進力として利用することにもやぶさかではなかった。

政権内の反対者の人物背景を探ると、軍人を含めたプロフェッショナルとしての側面が強かったことが分かる。パウエルは軍のトップであった経験から指導者の座にも馴れた軍事プロフェッショナルであり、また党派色は薄く、強い倫理観を持っていた。オニール財務長官もインタビューで政治的忠誠心よりも大事なものがあると明かしているように、もともと政治家ではなく官界と経済界に属する人間であって、予算と経済のプロフェッショナルであり合理主義者である。彼は外交政策の中での優先度と財政規律の観点からイラク戦争に反対していた。外交・安保では夕力派に分類しうるアーミテージも、軍人としてベトナム戦争を戦い、国防総省の文官や顧問、政治任用の国務次官補や次官として引き続きベトナム戦争、中東、東アジア、欧州などに関わった長いプロフェッショナルのキャリアをもつ。アーミテージはパウエルよりも理念重視の政治活動を行ってきたが、政治任用官僚としての忠誠心はブッシュではなくパウエルに向かい、軍事キャリアに影響を受けた思考方法を持っていたことも確かである。

開戦にいたる政策過程途上で、パウエルより前にイラク戦争賛同へと態度を転換し、CIAの分析に圧力をかけたテネットには、情報機関の官僚としては十分なキャリアがない。彼は情報関係の議会スタッフとして政治任用官僚のキャリアを積んできたからである。テネットは九・一一後は、イラク戦争の必要性を信じていなかったにも拘わらず、しばしば大統領の命に応じて情報を柔軟に解釈した。テネットとしばしば対立し、また大統領へのアクセスをめぐっても競争心を露わにしていたといわれるライスの行動は、理念というより機会主義的な動機に基づくものだったと評価できるだろう。彼女は学者出身だが、大統領への個人的な忠誠心がずば抜けて高く、またスタンフォード大学でのキャリアの途中でも複数の大会社の相談役になるなど、キャリアは政治任用官僚そのものである。最後に、ウォルフォウィッツは自分の理念のために政治の世界で働く理念先行型の政治任用官僚だったが、彼の場合は目標がブッシュやチェイニーとたまたま一致していたといえるだろう。同じ政治任用官僚でも忠誠心のおきどころと、自らの理念と政治的な利害に基づく選好に対する優先順位によって、行動が異なることが分かる。

これらの特性・属性が重要な理由は、忠誠心の対象と政治的な利害の意識、コストを意識または実際に負担するか否かが、しばしば政治家・文官たちの政策に対する態度を左右していたからである。本書がこれまで見てきた政治指導者の開戦の動機は、コスト意識の低さとともに国内政治における権力闘争での利害得失に影響を受けたものであった。イラク戦争の事例からは、最高政治指導者の決断をより容易にし、支えた政権チームがいたことが分かった。彼らの開戦支持の理由を見れば、大統領と似た低いコスト意識と政治的利害に基づく思考過程を辿ったことが指摘できるだろう。一般に政治家、政治任用官僚は自分を任命したトップに対する忠誠心が高く、政治任用官僚は、自分の推進した政策が政権の路線と合っていた場合には、失敗しても必ずしもその報いを受けるとは限らない。逆に個人の政治的利益は政権の路線と合っていないと発揮されない。すでに政財官界の大物として個人的な政治資産があったオニールやパウエルは独立した思考を持つ傾向にあり、ブッシュに対する忠誠よりも自らの国家に対する責任感を優先する傾向を持っていた。しかし彼らは、戦争が始まる前に辞任に追い込まれるか、政権の中枢から外されることになった。
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30万人のコラボレーション

未唯へ

 また、足がつっている。時間は4時半です。ワーとなるというよりも、ずっと、つっている。炭水化物とも関係するのか。

 完全に70Kgです。それがいいか悪いか、わかりません。土曜日に病院で、糖尿関係の数字を確認します。その病院の医者が70Kgにしなさいと言ったんだから、責任を取ってもらいたい。

社会構造を変えるコミュニティ

 変えるというのは、自分はないがしろにされている感覚をベースに動きを起こす。対話と参加を促して、社会構造を変え、われわれを作る動きにつなげていく。いわゆる、コミュニティをベースにするということです。

 全部がコミュニティになれるかどうかは「われわれ」という感覚です。全部がコミュニティになれば、「われわれ」の範囲を広げればいい。一人のスタッフでお客様に対して、広げていけば、300のコミュニティができます。

原発とシェア

 原発をなくせというのは、単に物理的になくすことではない。原発の持っている独占企業とか分配を行っている政治を変えるということです。自分たちの問題です。では、なくしてどうするのか。われわれでエネルギーを作り出すことです。

 われわれが作り出すことで、一番簡単なのは、エネルギー消費を少なくすることです。我々の場合はシェアという有効な手段があります。

30万人のコラボレーション

 30万にコラボとはなくか、という前に、コラボとは何か。個人が十分な情報を得て、個人を分化させて、色々な意見を発信するという、真ん中があります。

 当然ながら、勝手なことを言ってもしょうがない。お客様を代表して、考えをまとめて、意見を言うことです。それは全うです。その中には、お客様だけではなく、行政も含めて、商品をどうしていくのか、交通体系をどうするのか、駐車場をどうしていくのか、エネルギーの問題をどうしたらいいのか、というものも当然あります。

 商品を売っているからと言って、エネルギーとか交通体系を考えないというわけにはいかないでしょう。自分の生活そのものだから、そういう多面性を持っているから、それを発信すればいいです。

 地域と一緒に考える

 地域として、それをコミュニティを一緒に考えるというのも、一つの手です。もっと、軽車両を増やすとは、そのための道路を整備するとか。商品を電気化するためには、シェアしていくとか、そのためにどうしていくのか。そのための知恵を出していけばいいです。

 行政だけではできない。一般市民も動けない。そうなると、ある観点を持った専門家というのが、店舗のスタッフです。そういう人たちが意見を出し、アイデアを出して、誘導していかないといけない。

 要するのに、一か所で考えるのではなく、個人が考える。多様化した個人、分化した個人が考えて、それぞれのコミュニティで実現しながら、それを自分の中で合わせていくという、複雑性の世界です。

 多面性をもつ

 単純にこうだと決められない。こうなったら、こうなるという、自分の中に多面性を持てば、複雑性を持つしかない.

 私の場合は本で多面性を持ってきて、自分の中で毎回、作り変えます。これは無知の知です。

パートナーのやりたいこと

 パートナーも自分が何をやりたいかをハッキリさせないといけない.システムから離れたいのであれば、それでいいけど。そのための準備をどうしていくかです。

 誰かがやってくれるわけではなく、自分から変えていかないといけない。そのために、何をやりたいのか。

 私自身は3年前に、循環を作ることを決めました。そのための設計とヒアリングで結論付けて、販売店を観察してきた。その通りの流れになってなってきた.

ソーシャルウェブに適応

 あと、5年間使いことは崩壊を招く。それでは、2006年以降のソーシャルウェブに対応できない.お客様との関係が成り立ちません。

 だから、インフラをSFDCに変えます。理由は簡単です。簡単に軽く変えられるからです。片一方は人日です。それに対して、人月です。そのぐらいでできることです。そのぐらいで変えられるということです。アイデアひとつでできるということです。

 そういうものでないと、次の時代に対応できない。
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寝ながら、ポータルの設計

寝ながら、ポータルの設計

 パワーポイントでポータルの設計書を作ります。

 30万人のコラボの可能性が出てきた。どのようにして、メーカーサーバーとつなぐのか。そこでの規定。データを出して、見ること。そのためにかかるお金。

 どっち道、組み替えるのであれば、同じコストで、2006年以降のソーシャルウェブの概念を入れ込みます。お客様ポータルもラインもすべて、その中に入れます。

 チャッターとかもコラボのためにハッキリさせます。アンケートも組み替えます。エクセルで固執しません。もどきで十分でしょう。むしろ、本来のアンケート、社長がスタッフにしてみたいものもあるけど、店舗からいかにして意見を吸い上げるか。

 一番重要なのはスタッフの武器にするというところ。当然その中には、社内でのコミュニケーション、お客様とのコミュニケーション、商品とのコミュニケーション、メーカーとのコミュニケーションを含みます。

 やったものをどこに置くのかというと、今までのライブラリ以外にナレッジに置くこと、そこから伝えるという三段構想。お客様ポータルが三段構想に含まれるかどうか。まあ、違うやつも含めて、その上に載せてしまえばいい、

「われわれ」のコミュニティ

 コミュニティは「われわれ」を自覚させるかもしれない。そうなると、そこから関係が生じます。それがないと、個人と組織の関係です。その意味ではマルクス主義とよく似てくるかもしれない。労働者と資本関係というものから、「われわれ」というものを作り出す。コミュニティを作り出す。

 組織がないところでは、個人に対して、コミュニティをつくって、そこから組織を作ればいい。アメリカ社会は地域からユーナイテッド・ステートを作ったから、そのプロセスの方が矛盾が起きないでしょう。日本のように、組織と個人しかないところで、「われわれ」というコミュニティを作るのはたやすい問題ではない。

複雑性のところ

 複雑性のところは、予測がつかなくなって来ていることの説明に使いましょう。こうすれば、こう動いて、それに対して、こう反応して、こうなって、というカタチです。そういう意味では再帰性です。

 要するに、やってみないと分からないということと、個体そのものが分化している。そこではどう反応するかはそれによって、違ってくる。

 仕事だけやっている人間なら、予測はつくけど、そうではない人間が増えて、色々なコミュニティに参加していると、コミュニティごとに異なる答えを出して、行動が変わってくる。それを複雑性のところで発信します。

安定と変化との関係

 そこで安定しないということです。自分で作れば作るほど、自分が変化して、不安定がやってくる。自分を作りながら、自分も安定しようとするのだから、矛盾しています。つまり、安定は変化との関係です。

SFDCでのポータル

 SFDCの場合は簡単にできるということです。あまり作り込まなければいいのだから、ライブラリもアンケートも変えましょう。

 そのまま持ってきて、とりあえず、くっつけておけばいい。やり方は変わってきます。だから、やり方が変わってきます。二つ並べておけばいい。

 なるべく自分たちで加工できるようにしておく。自分たちと言っても末端ではないです。EUC抜出程度のことです。

無知の知と原理主義

 ソクラテスの無知の知には意味があるみたいです。自分が知らないことを確認して、変化できることを確認する。そうでないと、原理主義に陥る。

 原理主義には対話が起こらない。私の場合は本との関係で原理主義ではない。日本の場合は組織に対しての原理主義です。組織からの指示に頼ります。組織そのものが人間でできている以上は、不安定です。にもかかわらず、絶対視します。それは矛盾です。

なぜ、エンパワーメントなのか

 自分はダメだと思って、力がない、知識がない、できない、だから変えられない、という人が多くなっている。それを変えるために、対話主体で元気づけるしかない。力をつけるしかない。つまり、知識と意識です。それがエンパワーメントです。

 本来、それをやるのは、政府なり、専門家となっているけど、そうはいかない。地域活性化というのは、そんなものです。自分はできないと思っているものをどうして、エンパワーメントするかです。

 人々の自立能力を高めるしかない。そこには、情報共有とか役割を持たせるとか、ふだんの活性化しかない。外からのエネルギーではなく、内側のエネルギーで変えていくということです。それをもとにして、ネットワークを通じて、つながっていくということです。それをしないと、運営そのものが行き詰まります。
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グローバル・コミュニティ

『国際秩序』より 均衡・協調・共同体--三つの秩序原理

カントの考えた「世界市民主義」、そして「平和連合」の理念は、その形式を変えながらも二一世紀に受け継がれている。とりわけ、グローバル化が進む世界のなかで諸国間の繋がりがよりいっそう緊密になることで、地球全体が一つのコミュニティになったと論じられるようになった。

その代表的な論者が、入江昭である。ハーバード大学で長らく外交史を教えてきた入江昭は、『グローバル・コミュニティ』と題する著書のなかで、コスモポリタニズムの思想に基づいて現代世界における人々のネットワークを描いた。入江は、「グローバルーコミュニティという概念を、『グローバル意識』を土台として作り出された国家を超えたネットワークの形成を示すもの」と位置づけている。それでは、その「グローバル意識」とは何か。それは、「国という社会を一歩踏み出した外部には遥かなる世界が広がり、個人や集団が、どこに帰属するものであれ、その広い世界の中では一定の利益や関心を共有するという思想」である。

入江はその著書のなかで、一九世紀以来の国際行政機構の広がり、そして「国際主義」という理念の浸透によって、人々の繋がりが緊密になっていく歴史を描いている。入江は、勢力均衡の秩序原理を拒絶して、またメッテルニヒが求めたような大国間の協調からも距離を置いて、むしろ市民やNGOがかたちづくるリベラルなネットワークに基づいた秩序を構築するよう提唱した。それは、カントが論じる世界市民主義の伝統を部分的に受け継ぐものであった。カントが、「自由な諸国家の連合」を重視していたように、入江もまたリベラリズムに基づいた国際主義的なグローバル・コミュニティを主唱する。それは、「共同体の体系」としての国際秩序観といえるものであった。

ロンドン大学(LSE)教授であったデヴィズなコミュニティの形成に目を向けて、新しい世界秩序を論じた。ヘルドは次のように述べる。「換言すれば、国家第一主義の政治やリアリズムないし『国家の理性』は、人々のあいだの、また、コミュニティ間の網の目が密になっている時代の政治を展望するには適切とは言えないし、不十分なものともなっていることになる。これに替わる方向は相互の承認を基礎とした政治であり、各人が、また、万人が同様に重視されるとともに、国境にかかおりなく大きなインパクトを受ける公的決定設定が透明で、説明責任に耐え得る政治が求められている」。ヘルドはこれを「コスモポリタニズム」と呼ぶ。

ニルドの世界秩序論は、明らかに、カントの世界市民主義の系譜を受け継いでいる。他方でヘルドは、カソトの「世界市民主義」に民主主義的な条件を加えることによって、「世界市民的民主主義」を提唱している。カソト自らは実際には、すでに見てきたように、「世界共和国」の成立には消極的であった。むしろ彼は、主権国家の自由な連合によって、世界市民主義の精神に基づいてゆるやかな連邦的秩序をつくることを目指していた。それに対して、ヘルドはより積極的に、民主主義の理念を基礎とした「世界共和国」のようなコミュニティを構築することを希求する。「こうした形での世界市民主義への関与は、自分たちの国境の内外で民主公法を支持する、民主的国家や社会からなる国際共同体、すなわち、世界市民的民主共同体の設立に向けて努力する義務を課す」。明らかにヘルドは、カントの永遠平和論を実現可能な政治的なプログラムとして、それをさらに拡充したかたちで実践することを希求している。

このように、二一世紀になるとかつてのカントの夢が、現実の世界秩序の構想として学者たちによって論じられるようになった。カソトからウッドロー・ウィルソン、入江昭に至るまで、彼らは勢力均衡に基づいた国際秩序を時代錯誤なものとして拒絶した。新しい時代には、新しい秩序が可能だと考えた。カントが、共和的体制の諸国による自由な連合を想定していたのに対して、入江やヘルドはより積極的にグローバルなコミュニティが可能だと考えた。

このように、近代的な国際社会が成立してから、思想家たちはさまざまな国際秩序の構想を思い描いてきた。それを本書では、「均衡の体系」、「協調の体系」、そして「共同体の体系」という三つの系譜に分けて考えた。それでは、これらの国際秩序の原理は、実際の歴史のなかでどのように実践されたのだろうか。それぞれの時代に、いったいどのような国際秩序が存在していたのか。次章では、歴史のなかの国際秩序を見ることにしたい。
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人はいかに生くべきか

『働く女性が知っておくべきこと』より あなたたちが新しい時代を作る

●メンターとロールモデルを見つけよう

 「メンター? ロールモデル? 聞いたことがないわ」

 メンターというのは、ギリシャ神話のオデッセウスが留守中息子の後見を頼んだ親友メントールから来た言葉だが、つまり若い青年に対して教え導きアドバイスをする存在とされている。1980年代から、アメリカのビジネス界で成功する男性たちはそうしたメンターがいるのに女性にはいない。また自分が目標とするロールモデルも女性は持ちにくい。

 それが女性がビジネスで成功するのを妨げているのでメンターやロールモデルをもとうと強調されるようになった。

 最近では男女を問わず、職業人、社会人として成長するためにメンターやロールモデルが必要とされ、特に女性の管理職養成のために社内メンターを設けている企業、昭和女子大のように学生に対する社会人メンターを設置している大学もある。

 メンターは直属上司や指導教官ではなく、すこし離れた位置から、大所高所に立ったアドバイスをしてくれる人である。そういうメンターがいると、目先の狭い問題にとらわれることなくより高い目線を持って判断できるようになる効果がある。メンティー(メンターから指導を受ける側)も相手を尊敬し、指導に従う。メンターは本来自然発生的にめぐりあうもので、仕事をしている過程で、「頑張っているな」とすでにエスタブリッシュしている幹部に目をかけられるべきなのだが、自然にまかせるとなかなか運次第で出会えない。

●人はいかに生くべきか

 結局人間の社会は世話をできる人、他人の支援をできる人たちによって支えられている。一生世話だけされていきたい、自分だけいい思いをしたい、得をしたいと思う人が多い社会は力を失っていくし、世話をしよう、自分だけでなくほかの人も幸せにしよう、よくなってもらいたいと考える人が多い社会は豊かになっていく。日本も戦後のある時期、おそらく1980年代の半ばまではみんなで力を合わせて平和で豊かな社会を作るというコンセンサスがあった。良いものを作ることで企業は成長し、便利で清潔な暮らしを実現することができる、仕事に真剣に取り組むことによって家族を幸せにすることができる手ごたえがあった。悲惨な戦争やみじめな貧しさを記憶している人も多かったので、それと比較して平和のありがたさがわかった。問題はその『豊かな社会』が実現した後どういう社会を作るかが見えなくなったことね。私たちが社会に出たころはバブルで、自分の生活を楽しむのにみんな忙しがっていた。

 自分の企業だけ成長する、自分や家族だけ豊かな生活ができれば幸せになると短絡的に考えたのがまちがっていた。日本国内が飽和したなら、まだまだそれが行きわたっていない途上国に進出して援助するとか、文化基金を作るとか、優良な住環境を作る、社会資本を整備する、エネルギー開発を進めるとか、いろいろなすべきことは多かったのに。

 でも今更それを言ってもしょうがない。これからも私たちがまだまだやるべきこと、やれることがたくさんある。他人、企業、国をあてにして任せるのではなく、自分自身が考え抜き、最善を尽くすこと。グローバル化が進み競争の激しい時代になり、生き残るために自分のことだけ考えて、競争に負けないでということばかり目指すと、万人の万人に対する戦いになってしまう。個人を尊重した結果、視点が狭く小さく短くなった人が増えているのは悲しいこと。
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「複数のホロコースト」-西欧

『ホロコースト・スタディーズ』より

一九九〇年代に入る前から、フランス人はたいてい、ヴィシー政権がドイツの命令を先取りして、自ら率先して一九四〇年に反ユダヤ法を導入した事実を知っていた。ただし、こうした議論の口火を切ったのは、マラスら北米の歴史家たちであっタ。法制化から二年後、ユダヤ人がフランスから強制収容所へ送られる頃には、フランス社会からのユダヤ人の排除は着実に進んでおり、こうした措置はそこまで極端であるとはフランス当局にも思われなかった。歴史家アンリールッソは、フランスの過去に対する現代人の強迫観念と、その実際の歴史的重要性とは釣り合っていないと述べたが、これは確かに誇張であったかもしれない。ただし、今やフランスの想起文化の議論は、〝ホロコースト〟だけ」というよりは、むしろヴィシー政府とアルジェリア戦争(一九五四-六二年)との関連の究明へと向かっている。ユダヤ人の移送--特に一九三〇年代にフランスに亡命した難民や、非フランス国籍者の移送--は、かつては歴史家さえも避けてきたテーマであったが、これは占領者ナチの命令であったと同時に、フランス政府のイニシアチブでもあったと、今では一般的に受け入れられている。歴史家の仕事もあり、またヴィシー政府高官ルネーブスケやポール・トゥヴィエ、なかでもモーリス・パポンに対する訴訟はー時間かかかったのも事実だし、抵抗もあったが--ユダヤ人を摘発し、ドランシーなど「東方」への移送を待つ中継収容所へ送り込む過程で、フランス警察が果たした役割を陽の下に晒し出した)--殺人のための官僚機構、たとえばユダヤ人を見つけ出し移送する目的で、現地の住民調査票などを調べるにあたって、フランスは特にドイツ側の関与を要しなかったのである。

熱心にユダヤ人問題に取り組んだフランスとノルウェーの傀儡政権を別とすると、西欧では反ユダヤ的ではあるが、積極的な殺害には至らない国家体制が至る所に見受けられた。ナチ支配下のヨーロッパで、多くの政府がユダヤ人を探し出し逮捕したが、自分たちの手で殺そうとはしなかった。国土がドイツに占領されていなかったならば、なおさらそうだっただろう。しかし、フランスとオランダのファシストがユダヤ人の一掃を主張したように、大量虐殺への協力は広範囲に見られた。オランダ人はドイツ人に対してかなり敵意を抱いていたが、オランダ警察はユダヤ人の移送に深くかかわり、その七五パーセント(総数は一四万人)が殺害されている。これは、真にイデオロギー的なナチズム支持というよりは、警察の「妥協的で権威主義的な姿勢」に理由があるのかもしれないが、結果は同じであった。

ペルギーとノルウェーの場合、数字は異なるが、死者の絶対数でも死亡率でも似たようなパターンが見出される。大半の住民はナチの占領者を嫌悪していたにもかかわらず(特にノルウェーの住民は、皮肉にもナチにとっては「アーリア人」の典型であった)、ユダヤ人を見つけ出し、逮捕し、死へと送り出したのは、たいてい現地の役人であり、わずかにドイツ人が監督する程度であった。加えて死者数とは、ナチが両国の状況下で戦争終結までにどの程度目標を達成できたかを示す目安に過ぎず、その能力の限界を意味したわけではない。したがって、フランスにおけるユダヤ人の生存率は最も高かったが(国内のユダヤ人の約二〇パーセント、七万六〇〇〇人ほどが死亡)、これはフランスの広さと地理的要因、そして決定的なことに、パリ以外では占領に必要なドイツ人員が足りなかったために、生き残る可能性が高まったのである。ある時点ではヴィシー政権の熱心な幇助があったとはいえ、フランスの生存率はオランダよりずっと高かった。逆にオランダでは、平坦な地形と人口密度の高さゆえにほとんど隠れる場所がなく、またユダヤ人はアムステルダムに集中していた。さらに重要なことに、現地の傀儡政権ではなく、ドイツの占領政府が存在したことが影響した。同じようにノルウェーでは、国内のユダヤ人一八○○人の大半はオスロに暮らしており、容易に見つかって逮捕された。例外はイタリアとデンマークで、多くのユダヤ人が助かっているが、なぜならここではドイツ人自らユダヤ人を逮捕して移送せねばならなかったからだ。イタリアの死者の場合は、一九四二年以降[ドイツ支配下に置かれた]北イタリアのすさまじい状況の犠牲になった者たちであった。したがって、マラスとロバート・パクストンが、「解放までにユダヤ人の破壊がどこまで進むかを決定したのは、ドイツの力、そしてその力を発揮するナチの能力であった」と述べたのは正しいが、西ヨーロッパ各地からのユダヤ人の移送は、現地政府の協力が--積極性の程度に差こそあれ--明らかに必要であった。マラスとパクストンは言う。「現地警察と官僚の広範囲な協力がなければ、西ヨーロッパのユダヤ人の殺害計画を実行することはできなかった」。
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時間の役割

『ファスト&スロー』より

経験する自己の生活は、瞬間の連続として表すのが論理的であり、一瞬一瞬にはそれぞれに価値がある。あるエピソードの価値すなわち実感計測値は、各瞬間の価値を合計すれば計算できる。だが私たちの脳は、エピソードをそんなふうには捉えない。記憶する自己は、記憶に基づいて物語を組み立て、選択をする役割も果たすが、そのどちらも時間を適切に考慮していない。物語では、エピソードは重要な瞬間に代表される。それは、始まりとピークと終わりである。持続時間は無視される。このようにいくつかの瞬間が偏って重視されることは、冷水実験や『椿姫』で確認することができた。

プロスベクト理論では、他の形で表れる持続時間の無視も扱った。ある状態が、その状態への移行によって代表されるという形である。宝くじに当選すると新しい資産状態に移行し、それがしばらく続くわけだが、決定効用は、当選したという知らせを聞いたときに予想される反応の強さによってのみ決まる。このほんの短い期間だけが考慮されて、新しい状態に対する注意の減退その他の順応は無視される。新しい状態への移行に焦点を合わせ、持続時間と順応を無視する傾向は、慢性的疾病に対する反応の予測に見られた。焦点錯覚に影響された回答者が犯した誤りは、選別された瞬間にのみ注意が集中し、それ以外のときに何か起きるかをすっかり無視したことに起因する。脳は物語を扱うことには長けているが、時間をうまく処理できるようには設計されていないらしい。

過去一〇年間に、私たちはしあわせということについて多くの新しい事実を知った。だが私たちは、「しあわせ」という言葉が単一の意味を持つのではないこと、したがって、あたかも単一の意味しか持たないように扱うべきではないことも学んだ。ときに科学の進歩は、以前よりも多くの難問を私たちに残すのである。

生活評価を話題にするときは

 「すごい車を買えばしあわせになれると彼女は思っていたらしいけど、それは感情予測のエラーだったことがわかった」

 「通勤の途中で車が故障して、彼はすっかり不機嫌になっているんだ。こんな日には仕事満足度を彼に訊ねるべきじゃないね」

 「彼女はいつも明るくて元気がいい。ところが生活満足度を訊かれたら、とても不幸だと言うんだ。その質問で最近の離婚のことを思い出したからだろう」

 「大きな家を買っても、長期的にしあわせになれるとは限らないわ。私たち、焦点錯覚にとらわれているのかもしれない」

 「彼は時間を二分して二つの都市を行き来することに決めたらしい。誤った願望の重症例だと思うね」
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