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ハイデガーは、「人間」をこう規定した

『数学的推論が世界を変える』より

ウィノグラードとフローレスが、「人工知能が人間そっくりになることは不可能」という点について、の哲学を使ってどう論証しているか。それを理解するために、まずハイデガーの哲学に関する筆者の理解を要約しておく。

ハイデガーは、人間の存在を、他の動物や物の存在とは区別して〈現存在〉という名称で呼んでいる。物はもちろんのこと、人間以外の動物は与えられた環境の域を超えることができず、狭い現在を生きることしかできない。それに対して人間は、現に与えられた環境を他の「可能」な環境と重ね合わせ、相対化し、現在の中にズレを生じさせて、過去や未来といった次元を開くことができる。そうハイデガーは論じる。そして、そのようにして生物学的環境から〈世界〉へ〈超越〉することができる、という人間固有のあり方を〈世界―内-存在〉と呼んだ。

他の存在は、〈現存在〉である人間が〈了解〉することによって存在するが、そのような他の存在物をいっせいに存在せしめる当の人間がどうして存在するか、というと、「気づくと、そこにそうして存在し、すべてのものを存在物として見ている」と言うしかない、ハイデガーはそういうふうに人間の存在を規定する。

とりわけ、ハイデガーの論のポイントは、「存在」を「言語」と重ね合わせているところだ。彼はそれを、「言葉こそ存在の住居である」と表現し、次のように説明している。「言葉が存在の住居であるからこそ、われわれは絶えずこの住居を通りぬけることによって存在者にゆきつく。泉にゆくとき、森を通ってゆくとき、われわれはいつだってすでに〈泉〉という語、〈森〉という語を通りぬけているのである、たとえこれらの語を口に出したり、言葉のことを考えたりしなくとも」(木田元『ハイデガーの思想』)。

さて、ウィノグラードとフローレスは、このようなハイデガーの〈世界―内-存在〉を、次のように要約する。

ハイデガーは単純な客観的スタンス(客観的物理世界が第一義的な実在である)と単純な主観的スタンス(私の思考と感情が第一義的な実在である)のどちらも否定し、代わりに、一方は他方なしには存在できないとしている。解釈されるものと解釈者は独立に存在しているのではなく、存在が解釈であり、解釈が存在なのである。先入観は主体が誤って世界を解釈してしまう状態ではなく、解釈の(したがって存在の)背景をもつための必要条件である。

これは、ハイデガーの〈存在被投〉と呼ばれる考え方である。ハイデガーは、人間は「世界に投げ込まれた」存在であり、「内省的」にではなく、意識せずに行動する「臨在的なもの」であるとする。ウィノグラードとフローレスは、このようなハイデガーの「実在論」を足場にして、人工知能が人間そっくりになることの不可能性を論証していく。
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