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「複数のホロコースト」-西欧

『ホロコースト・スタディーズ』より

一九九〇年代に入る前から、フランス人はたいてい、ヴィシー政権がドイツの命令を先取りして、自ら率先して一九四〇年に反ユダヤ法を導入した事実を知っていた。ただし、こうした議論の口火を切ったのは、マラスら北米の歴史家たちであっタ。法制化から二年後、ユダヤ人がフランスから強制収容所へ送られる頃には、フランス社会からのユダヤ人の排除は着実に進んでおり、こうした措置はそこまで極端であるとはフランス当局にも思われなかった。歴史家アンリールッソは、フランスの過去に対する現代人の強迫観念と、その実際の歴史的重要性とは釣り合っていないと述べたが、これは確かに誇張であったかもしれない。ただし、今やフランスの想起文化の議論は、〝ホロコースト〟だけ」というよりは、むしろヴィシー政府とアルジェリア戦争(一九五四-六二年)との関連の究明へと向かっている。ユダヤ人の移送--特に一九三〇年代にフランスに亡命した難民や、非フランス国籍者の移送--は、かつては歴史家さえも避けてきたテーマであったが、これは占領者ナチの命令であったと同時に、フランス政府のイニシアチブでもあったと、今では一般的に受け入れられている。歴史家の仕事もあり、またヴィシー政府高官ルネーブスケやポール・トゥヴィエ、なかでもモーリス・パポンに対する訴訟はー時間かかかったのも事実だし、抵抗もあったが--ユダヤ人を摘発し、ドランシーなど「東方」への移送を待つ中継収容所へ送り込む過程で、フランス警察が果たした役割を陽の下に晒し出した)--殺人のための官僚機構、たとえばユダヤ人を見つけ出し移送する目的で、現地の住民調査票などを調べるにあたって、フランスは特にドイツ側の関与を要しなかったのである。

熱心にユダヤ人問題に取り組んだフランスとノルウェーの傀儡政権を別とすると、西欧では反ユダヤ的ではあるが、積極的な殺害には至らない国家体制が至る所に見受けられた。ナチ支配下のヨーロッパで、多くの政府がユダヤ人を探し出し逮捕したが、自分たちの手で殺そうとはしなかった。国土がドイツに占領されていなかったならば、なおさらそうだっただろう。しかし、フランスとオランダのファシストがユダヤ人の一掃を主張したように、大量虐殺への協力は広範囲に見られた。オランダ人はドイツ人に対してかなり敵意を抱いていたが、オランダ警察はユダヤ人の移送に深くかかわり、その七五パーセント(総数は一四万人)が殺害されている。これは、真にイデオロギー的なナチズム支持というよりは、警察の「妥協的で権威主義的な姿勢」に理由があるのかもしれないが、結果は同じであった。

ペルギーとノルウェーの場合、数字は異なるが、死者の絶対数でも死亡率でも似たようなパターンが見出される。大半の住民はナチの占領者を嫌悪していたにもかかわらず(特にノルウェーの住民は、皮肉にもナチにとっては「アーリア人」の典型であった)、ユダヤ人を見つけ出し、逮捕し、死へと送り出したのは、たいてい現地の役人であり、わずかにドイツ人が監督する程度であった。加えて死者数とは、ナチが両国の状況下で戦争終結までにどの程度目標を達成できたかを示す目安に過ぎず、その能力の限界を意味したわけではない。したがって、フランスにおけるユダヤ人の生存率は最も高かったが(国内のユダヤ人の約二〇パーセント、七万六〇〇〇人ほどが死亡)、これはフランスの広さと地理的要因、そして決定的なことに、パリ以外では占領に必要なドイツ人員が足りなかったために、生き残る可能性が高まったのである。ある時点ではヴィシー政権の熱心な幇助があったとはいえ、フランスの生存率はオランダよりずっと高かった。逆にオランダでは、平坦な地形と人口密度の高さゆえにほとんど隠れる場所がなく、またユダヤ人はアムステルダムに集中していた。さらに重要なことに、現地の傀儡政権ではなく、ドイツの占領政府が存在したことが影響した。同じようにノルウェーでは、国内のユダヤ人一八○○人の大半はオスロに暮らしており、容易に見つかって逮捕された。例外はイタリアとデンマークで、多くのユダヤ人が助かっているが、なぜならここではドイツ人自らユダヤ人を逮捕して移送せねばならなかったからだ。イタリアの死者の場合は、一九四二年以降[ドイツ支配下に置かれた]北イタリアのすさまじい状況の犠牲になった者たちであった。したがって、マラスとロバート・パクストンが、「解放までにユダヤ人の破壊がどこまで進むかを決定したのは、ドイツの力、そしてその力を発揮するナチの能力であった」と述べたのは正しいが、西ヨーロッパ各地からのユダヤ人の移送は、現地政府の協力が--積極性の程度に差こそあれ--明らかに必要であった。マラスとパクストンは言う。「現地警察と官僚の広範囲な協力がなければ、西ヨーロッパのユダヤ人の殺害計画を実行することはできなかった」。
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時間の役割

『ファスト&スロー』より

経験する自己の生活は、瞬間の連続として表すのが論理的であり、一瞬一瞬にはそれぞれに価値がある。あるエピソードの価値すなわち実感計測値は、各瞬間の価値を合計すれば計算できる。だが私たちの脳は、エピソードをそんなふうには捉えない。記憶する自己は、記憶に基づいて物語を組み立て、選択をする役割も果たすが、そのどちらも時間を適切に考慮していない。物語では、エピソードは重要な瞬間に代表される。それは、始まりとピークと終わりである。持続時間は無視される。このようにいくつかの瞬間が偏って重視されることは、冷水実験や『椿姫』で確認することができた。

プロスベクト理論では、他の形で表れる持続時間の無視も扱った。ある状態が、その状態への移行によって代表されるという形である。宝くじに当選すると新しい資産状態に移行し、それがしばらく続くわけだが、決定効用は、当選したという知らせを聞いたときに予想される反応の強さによってのみ決まる。このほんの短い期間だけが考慮されて、新しい状態に対する注意の減退その他の順応は無視される。新しい状態への移行に焦点を合わせ、持続時間と順応を無視する傾向は、慢性的疾病に対する反応の予測に見られた。焦点錯覚に影響された回答者が犯した誤りは、選別された瞬間にのみ注意が集中し、それ以外のときに何か起きるかをすっかり無視したことに起因する。脳は物語を扱うことには長けているが、時間をうまく処理できるようには設計されていないらしい。

過去一〇年間に、私たちはしあわせということについて多くの新しい事実を知った。だが私たちは、「しあわせ」という言葉が単一の意味を持つのではないこと、したがって、あたかも単一の意味しか持たないように扱うべきではないことも学んだ。ときに科学の進歩は、以前よりも多くの難問を私たちに残すのである。

生活評価を話題にするときは

 「すごい車を買えばしあわせになれると彼女は思っていたらしいけど、それは感情予測のエラーだったことがわかった」

 「通勤の途中で車が故障して、彼はすっかり不機嫌になっているんだ。こんな日には仕事満足度を彼に訊ねるべきじゃないね」

 「彼女はいつも明るくて元気がいい。ところが生活満足度を訊かれたら、とても不幸だと言うんだ。その質問で最近の離婚のことを思い出したからだろう」

 「大きな家を買っても、長期的にしあわせになれるとは限らないわ。私たち、焦点錯覚にとらわれているのかもしれない」

 「彼は時間を二分して二つの都市を行き来することに決めたらしい。誤った願望の重症例だと思うね」
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ニーチェの言葉が私の心

ニーチェの言葉が私の心

 雑記#747のニーチェの言葉は私によく合っています。

 人生を自分のものにせよ。起こったことを自分が意欲して起こしたことだと言い換えれば、自分のものになる。偶然を必然とする。

 愛しすぎることは危険。激しいほど、報われない。報われたとしても、さびしいだけ。これはパートナーとのこと。

 あらゆる体験はつながっている。これは実感です。同じことをしなくても、昔のことが生きてくる。

 本を書くということ。個人的な自己満足ではなく、人間として、自己を超越しえたことの例を示すことになる。本がなぜ、そこにあるのかの答えです。それにしても、そうでない本が多すぎる。読者の現在の人生に対して、役に立とうとする奉仕の行い。

 卓越した人は理解されない。最後は見えない。私を見えている人はいない。

 思想は星座のように意味を持つ。これまでたくさん読み、考えてきた人が、新しい考え、新しい思想に出会ったり、聞いたりすると、驚いたり、違和感を覚えて戸惑う。むしろ、その新しい思想や新しい見方は古いものとよい具合につながり、全体でチェーンのようにつながることで、より理解できる。

 知恵は武器になる。戸惑いを感じたときに、知恵がそれを突破できる。偶然は必然なことを言葉として知っていれば、自分を救ってくれる。

 国家より、自分の理想にかける。国家は自己保身のために、どんな手も使う。国家の保持が最高目的だという根拠は何もない。組織の中の人たちの自己保身しか残らない。だから、国家のために、自分を捨てたり、価値観を変えたりすべきではない。自分の理想を達成するために、国家を犠牲にするぐらいがちょうどいい。国家を組織に当てはめると、私が言いたいことそのものです。

 哲学者の求めるもの。真理ではなく、世界の姿です。どうなっているかをなぞってみたい。知りたい。世界の中にある、一つの理でも、自分なりの解釈をしたい。自分なりの解釈だから、いつも、擬人的な解釈や構成になる。

 依存への欲求。真理を求めているとか、真理を追究しているとか言うけど、そんな抽象的なものを求めているのではなく、強力な指導者を求めている。それに命令されたがっている。それが依存である。

 理解されなく理由。人は理解されることを欲している。私は誤解される方を望む。誰からも理解されているということは、お前が考えている内容のレベルは低いということだから。要するのレベルが違うんです。

ソーシャルウェブ化

 2006年からソーシャルウェブ化している。フェースブックとかツイッターが現れた。パソコンの世界からコミュニケーションの世界に変わってきた。

 今回のポータルにしても、ソーシャルウェブに頼ろうとしている。

 今まで、下への力を上にあげる力です。そこではリテラシーというよりも、デモクラシー、平等です。ベースは効率ではなく、コミュニケーションです。

 ソーシャル化で、今までのデジタル技術の分解から、統合に向かうということです。微分的なものから積分的なものに変わっていく。統合の結果から起こるのは、色々な集団を束ねることが可能になるということです。

 個体からグループへ。マスメディアと異なり、下から上にあげていく。そこでは、声を上げる人の原資が増幅される。

ポータルの設計

 今は、3時半です。2時半から寝ながら、考えてきました。頭の中で、ポータルの設計を行っていた。一応、全域の設計が終わりました。

 作るのは、MSを中心にして、販売店のシステム会社に委託します。その後に、販売店の活用を考えて、自分たちのニーズを合わせての勉強代を含めます。

 これは20年前のマックを導入した時のやり方と一緒です。ユーザーサイドに作っておいて、横展開できる。一気にできる。そうすれば、お客様ポータルもこの中に入れることができます。5年で5億のライセンスならば、採算が取れます。

 販売店には、データ抜出の表示も含めて、基幹系・情報系の活用形を販売店に提供できます。作るのは自分たちのシステム会社だから、説明はいらないでしょう。ということは、メーカーで作る方も、今の工数を半減できます。ちんたら、同じものを作っているよりもその方がいいでしょう。

 頓挫しているeのシステムも動き出せます。販売店から情報を集約しようとするから、拒絶された。今度は、販売店毎に、自分たちでデータを外付けして、それを使うカタチになります。メリットは販売店にあります。

 お客様ポータルもDMもそこから作ればいい。システムを使うというよりも、データを使って、営業は展開していくことができる。メールもラインもそこに入ってきます。

 ソーシャルウェブそのものです。必要なソーシャルツールを使えます。ネットワーク会社のメールもなくすことができます。

 スタッフにとっては必要なデータが自分たちの手元に来るわけです。加工できなかったら、その辺のシステム会社に頼めばいいです。一番のメリットは商品からメーカー、販売店。スタッフまでの仕組みができます。それもメッセージ単位です。

 そうすれば、お客様とスタッフのコラボレーションできれば、すべてがつながります。方向も、お客様からスタッフ、メーカーということもできます。3年前に考えた、三段ループです。昇りのためのコラボレーション、下りのためのライブラリです。

クラウドでの構築

 それをクラウドでやってしまおうという話です。プログロムは販売店システム会社でやってしまおうという話です。金を掛けて、作ってもらうのではなく、皆が使い方を習いながら、展開していくというやり方です。

 これこそ、研究開発部署で技術者に対してやったことと同じです。自分たちに合わせてモノを作っておいて、そこでのノウハウを展開できます。一気に作り出します。

 だから、情報系・基幹系のデータを外付けしてしまえば、パッケージを使えます。本体はメンテナンスだけを考えておけばいいから、メーカーにそんなに多くの人はいりません。その工数だけも、アカウント料金をペイできます。

 情報系・基幹系の活用形ができれば、サーバー集約は楽になります。集約センターではメンテナンスだけをおこなっていればいい。データの流れも、本社回線を使わずに、クラウドから持ってこれる。

夢とは

 こういうものを「夢」というけど、一つのシステムを作るのに、100万円単位で使う方が夢です。そんなことが成り立つこと自体が、今後の社会からすると夢です。作ることにそんなにお金を掛けられるのは悪夢です。使い人が作っていくようにしないと、ペイしません。

未唯へ

 70.6Kgです。今週は70Kgを割ります。
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