未唯への手紙
未唯への手紙
30万人のコラボレーション
未唯へ
また、足がつっている。時間は4時半です。ワーとなるというよりも、ずっと、つっている。炭水化物とも関係するのか。
完全に70Kgです。それがいいか悪いか、わかりません。土曜日に病院で、糖尿関係の数字を確認します。その病院の医者が70Kgにしなさいと言ったんだから、責任を取ってもらいたい。
社会構造を変えるコミュニティ
変えるというのは、自分はないがしろにされている感覚をベースに動きを起こす。対話と参加を促して、社会構造を変え、われわれを作る動きにつなげていく。いわゆる、コミュニティをベースにするということです。
全部がコミュニティになれるかどうかは「われわれ」という感覚です。全部がコミュニティになれば、「われわれ」の範囲を広げればいい。一人のスタッフでお客様に対して、広げていけば、300のコミュニティができます。
原発とシェア
原発をなくせというのは、単に物理的になくすことではない。原発の持っている独占企業とか分配を行っている政治を変えるということです。自分たちの問題です。では、なくしてどうするのか。われわれでエネルギーを作り出すことです。
われわれが作り出すことで、一番簡単なのは、エネルギー消費を少なくすることです。我々の場合はシェアという有効な手段があります。
30万人のコラボレーション
30万にコラボとはなくか、という前に、コラボとは何か。個人が十分な情報を得て、個人を分化させて、色々な意見を発信するという、真ん中があります。
当然ながら、勝手なことを言ってもしょうがない。お客様を代表して、考えをまとめて、意見を言うことです。それは全うです。その中には、お客様だけではなく、行政も含めて、商品をどうしていくのか、交通体系をどうするのか、駐車場をどうしていくのか、エネルギーの問題をどうしたらいいのか、というものも当然あります。
商品を売っているからと言って、エネルギーとか交通体系を考えないというわけにはいかないでしょう。自分の生活そのものだから、そういう多面性を持っているから、それを発信すればいいです。
地域と一緒に考える
地域として、それをコミュニティを一緒に考えるというのも、一つの手です。もっと、軽車両を増やすとは、そのための道路を整備するとか。商品を電気化するためには、シェアしていくとか、そのためにどうしていくのか。そのための知恵を出していけばいいです。
行政だけではできない。一般市民も動けない。そうなると、ある観点を持った専門家というのが、店舗のスタッフです。そういう人たちが意見を出し、アイデアを出して、誘導していかないといけない。
要するのに、一か所で考えるのではなく、個人が考える。多様化した個人、分化した個人が考えて、それぞれのコミュニティで実現しながら、それを自分の中で合わせていくという、複雑性の世界です。
多面性をもつ
単純にこうだと決められない。こうなったら、こうなるという、自分の中に多面性を持てば、複雑性を持つしかない.
私の場合は本で多面性を持ってきて、自分の中で毎回、作り変えます。これは無知の知です。
パートナーのやりたいこと
パートナーも自分が何をやりたいかをハッキリさせないといけない.システムから離れたいのであれば、それでいいけど。そのための準備をどうしていくかです。
誰かがやってくれるわけではなく、自分から変えていかないといけない。そのために、何をやりたいのか。
私自身は3年前に、循環を作ることを決めました。そのための設計とヒアリングで結論付けて、販売店を観察してきた。その通りの流れになってなってきた.
ソーシャルウェブに適応
あと、5年間使いことは崩壊を招く。それでは、2006年以降のソーシャルウェブに対応できない.お客様との関係が成り立ちません。
だから、インフラをSFDCに変えます。理由は簡単です。簡単に軽く変えられるからです。片一方は人日です。それに対して、人月です。そのぐらいでできることです。そのぐらいで変えられるということです。アイデアひとつでできるということです。
そういうものでないと、次の時代に対応できない。
また、足がつっている。時間は4時半です。ワーとなるというよりも、ずっと、つっている。炭水化物とも関係するのか。
完全に70Kgです。それがいいか悪いか、わかりません。土曜日に病院で、糖尿関係の数字を確認します。その病院の医者が70Kgにしなさいと言ったんだから、責任を取ってもらいたい。
社会構造を変えるコミュニティ
変えるというのは、自分はないがしろにされている感覚をベースに動きを起こす。対話と参加を促して、社会構造を変え、われわれを作る動きにつなげていく。いわゆる、コミュニティをベースにするということです。
全部がコミュニティになれるかどうかは「われわれ」という感覚です。全部がコミュニティになれば、「われわれ」の範囲を広げればいい。一人のスタッフでお客様に対して、広げていけば、300のコミュニティができます。
原発とシェア
原発をなくせというのは、単に物理的になくすことではない。原発の持っている独占企業とか分配を行っている政治を変えるということです。自分たちの問題です。では、なくしてどうするのか。われわれでエネルギーを作り出すことです。
われわれが作り出すことで、一番簡単なのは、エネルギー消費を少なくすることです。我々の場合はシェアという有効な手段があります。
30万人のコラボレーション
30万にコラボとはなくか、という前に、コラボとは何か。個人が十分な情報を得て、個人を分化させて、色々な意見を発信するという、真ん中があります。
当然ながら、勝手なことを言ってもしょうがない。お客様を代表して、考えをまとめて、意見を言うことです。それは全うです。その中には、お客様だけではなく、行政も含めて、商品をどうしていくのか、交通体系をどうするのか、駐車場をどうしていくのか、エネルギーの問題をどうしたらいいのか、というものも当然あります。
商品を売っているからと言って、エネルギーとか交通体系を考えないというわけにはいかないでしょう。自分の生活そのものだから、そういう多面性を持っているから、それを発信すればいいです。
地域と一緒に考える
地域として、それをコミュニティを一緒に考えるというのも、一つの手です。もっと、軽車両を増やすとは、そのための道路を整備するとか。商品を電気化するためには、シェアしていくとか、そのためにどうしていくのか。そのための知恵を出していけばいいです。
行政だけではできない。一般市民も動けない。そうなると、ある観点を持った専門家というのが、店舗のスタッフです。そういう人たちが意見を出し、アイデアを出して、誘導していかないといけない。
要するのに、一か所で考えるのではなく、個人が考える。多様化した個人、分化した個人が考えて、それぞれのコミュニティで実現しながら、それを自分の中で合わせていくという、複雑性の世界です。
多面性をもつ
単純にこうだと決められない。こうなったら、こうなるという、自分の中に多面性を持てば、複雑性を持つしかない.
私の場合は本で多面性を持ってきて、自分の中で毎回、作り変えます。これは無知の知です。
パートナーのやりたいこと
パートナーも自分が何をやりたいかをハッキリさせないといけない.システムから離れたいのであれば、それでいいけど。そのための準備をどうしていくかです。
誰かがやってくれるわけではなく、自分から変えていかないといけない。そのために、何をやりたいのか。
私自身は3年前に、循環を作ることを決めました。そのための設計とヒアリングで結論付けて、販売店を観察してきた。その通りの流れになってなってきた.
ソーシャルウェブに適応
あと、5年間使いことは崩壊を招く。それでは、2006年以降のソーシャルウェブに対応できない.お客様との関係が成り立ちません。
だから、インフラをSFDCに変えます。理由は簡単です。簡単に軽く変えられるからです。片一方は人日です。それに対して、人月です。そのぐらいでできることです。そのぐらいで変えられるということです。アイデアひとつでできるということです。
そういうものでないと、次の時代に対応できない。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
寝ながら、ポータルの設計
寝ながら、ポータルの設計
パワーポイントでポータルの設計書を作ります。
30万人のコラボの可能性が出てきた。どのようにして、メーカーサーバーとつなぐのか。そこでの規定。データを出して、見ること。そのためにかかるお金。
どっち道、組み替えるのであれば、同じコストで、2006年以降のソーシャルウェブの概念を入れ込みます。お客様ポータルもラインもすべて、その中に入れます。
チャッターとかもコラボのためにハッキリさせます。アンケートも組み替えます。エクセルで固執しません。もどきで十分でしょう。むしろ、本来のアンケート、社長がスタッフにしてみたいものもあるけど、店舗からいかにして意見を吸い上げるか。
一番重要なのはスタッフの武器にするというところ。当然その中には、社内でのコミュニケーション、お客様とのコミュニケーション、商品とのコミュニケーション、メーカーとのコミュニケーションを含みます。
やったものをどこに置くのかというと、今までのライブラリ以外にナレッジに置くこと、そこから伝えるという三段構想。お客様ポータルが三段構想に含まれるかどうか。まあ、違うやつも含めて、その上に載せてしまえばいい、
「われわれ」のコミュニティ
コミュニティは「われわれ」を自覚させるかもしれない。そうなると、そこから関係が生じます。それがないと、個人と組織の関係です。その意味ではマルクス主義とよく似てくるかもしれない。労働者と資本関係というものから、「われわれ」というものを作り出す。コミュニティを作り出す。
組織がないところでは、個人に対して、コミュニティをつくって、そこから組織を作ればいい。アメリカ社会は地域からユーナイテッド・ステートを作ったから、そのプロセスの方が矛盾が起きないでしょう。日本のように、組織と個人しかないところで、「われわれ」というコミュニティを作るのはたやすい問題ではない。
複雑性のところ
複雑性のところは、予測がつかなくなって来ていることの説明に使いましょう。こうすれば、こう動いて、それに対して、こう反応して、こうなって、というカタチです。そういう意味では再帰性です。
要するに、やってみないと分からないということと、個体そのものが分化している。そこではどう反応するかはそれによって、違ってくる。
仕事だけやっている人間なら、予測はつくけど、そうではない人間が増えて、色々なコミュニティに参加していると、コミュニティごとに異なる答えを出して、行動が変わってくる。それを複雑性のところで発信します。
安定と変化との関係
そこで安定しないということです。自分で作れば作るほど、自分が変化して、不安定がやってくる。自分を作りながら、自分も安定しようとするのだから、矛盾しています。つまり、安定は変化との関係です。
SFDCでのポータル
SFDCの場合は簡単にできるということです。あまり作り込まなければいいのだから、ライブラリもアンケートも変えましょう。
そのまま持ってきて、とりあえず、くっつけておけばいい。やり方は変わってきます。だから、やり方が変わってきます。二つ並べておけばいい。
なるべく自分たちで加工できるようにしておく。自分たちと言っても末端ではないです。EUC抜出程度のことです。
無知の知と原理主義
ソクラテスの無知の知には意味があるみたいです。自分が知らないことを確認して、変化できることを確認する。そうでないと、原理主義に陥る。
原理主義には対話が起こらない。私の場合は本との関係で原理主義ではない。日本の場合は組織に対しての原理主義です。組織からの指示に頼ります。組織そのものが人間でできている以上は、不安定です。にもかかわらず、絶対視します。それは矛盾です。
なぜ、エンパワーメントなのか
自分はダメだと思って、力がない、知識がない、できない、だから変えられない、という人が多くなっている。それを変えるために、対話主体で元気づけるしかない。力をつけるしかない。つまり、知識と意識です。それがエンパワーメントです。
本来、それをやるのは、政府なり、専門家となっているけど、そうはいかない。地域活性化というのは、そんなものです。自分はできないと思っているものをどうして、エンパワーメントするかです。
人々の自立能力を高めるしかない。そこには、情報共有とか役割を持たせるとか、ふだんの活性化しかない。外からのエネルギーではなく、内側のエネルギーで変えていくということです。それをもとにして、ネットワークを通じて、つながっていくということです。それをしないと、運営そのものが行き詰まります。
パワーポイントでポータルの設計書を作ります。
30万人のコラボの可能性が出てきた。どのようにして、メーカーサーバーとつなぐのか。そこでの規定。データを出して、見ること。そのためにかかるお金。
どっち道、組み替えるのであれば、同じコストで、2006年以降のソーシャルウェブの概念を入れ込みます。お客様ポータルもラインもすべて、その中に入れます。
チャッターとかもコラボのためにハッキリさせます。アンケートも組み替えます。エクセルで固執しません。もどきで十分でしょう。むしろ、本来のアンケート、社長がスタッフにしてみたいものもあるけど、店舗からいかにして意見を吸い上げるか。
一番重要なのはスタッフの武器にするというところ。当然その中には、社内でのコミュニケーション、お客様とのコミュニケーション、商品とのコミュニケーション、メーカーとのコミュニケーションを含みます。
やったものをどこに置くのかというと、今までのライブラリ以外にナレッジに置くこと、そこから伝えるという三段構想。お客様ポータルが三段構想に含まれるかどうか。まあ、違うやつも含めて、その上に載せてしまえばいい、
「われわれ」のコミュニティ
コミュニティは「われわれ」を自覚させるかもしれない。そうなると、そこから関係が生じます。それがないと、個人と組織の関係です。その意味ではマルクス主義とよく似てくるかもしれない。労働者と資本関係というものから、「われわれ」というものを作り出す。コミュニティを作り出す。
組織がないところでは、個人に対して、コミュニティをつくって、そこから組織を作ればいい。アメリカ社会は地域からユーナイテッド・ステートを作ったから、そのプロセスの方が矛盾が起きないでしょう。日本のように、組織と個人しかないところで、「われわれ」というコミュニティを作るのはたやすい問題ではない。
複雑性のところ
複雑性のところは、予測がつかなくなって来ていることの説明に使いましょう。こうすれば、こう動いて、それに対して、こう反応して、こうなって、というカタチです。そういう意味では再帰性です。
要するに、やってみないと分からないということと、個体そのものが分化している。そこではどう反応するかはそれによって、違ってくる。
仕事だけやっている人間なら、予測はつくけど、そうではない人間が増えて、色々なコミュニティに参加していると、コミュニティごとに異なる答えを出して、行動が変わってくる。それを複雑性のところで発信します。
安定と変化との関係
そこで安定しないということです。自分で作れば作るほど、自分が変化して、不安定がやってくる。自分を作りながら、自分も安定しようとするのだから、矛盾しています。つまり、安定は変化との関係です。
SFDCでのポータル
SFDCの場合は簡単にできるということです。あまり作り込まなければいいのだから、ライブラリもアンケートも変えましょう。
そのまま持ってきて、とりあえず、くっつけておけばいい。やり方は変わってきます。だから、やり方が変わってきます。二つ並べておけばいい。
なるべく自分たちで加工できるようにしておく。自分たちと言っても末端ではないです。EUC抜出程度のことです。
無知の知と原理主義
ソクラテスの無知の知には意味があるみたいです。自分が知らないことを確認して、変化できることを確認する。そうでないと、原理主義に陥る。
原理主義には対話が起こらない。私の場合は本との関係で原理主義ではない。日本の場合は組織に対しての原理主義です。組織からの指示に頼ります。組織そのものが人間でできている以上は、不安定です。にもかかわらず、絶対視します。それは矛盾です。
なぜ、エンパワーメントなのか
自分はダメだと思って、力がない、知識がない、できない、だから変えられない、という人が多くなっている。それを変えるために、対話主体で元気づけるしかない。力をつけるしかない。つまり、知識と意識です。それがエンパワーメントです。
本来、それをやるのは、政府なり、専門家となっているけど、そうはいかない。地域活性化というのは、そんなものです。自分はできないと思っているものをどうして、エンパワーメントするかです。
人々の自立能力を高めるしかない。そこには、情報共有とか役割を持たせるとか、ふだんの活性化しかない。外からのエネルギーではなく、内側のエネルギーで変えていくということです。それをもとにして、ネットワークを通じて、つながっていくということです。それをしないと、運営そのものが行き詰まります。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
グローバル・コミュニティ
『国際秩序』より 均衡・協調・共同体--三つの秩序原理
カントの考えた「世界市民主義」、そして「平和連合」の理念は、その形式を変えながらも二一世紀に受け継がれている。とりわけ、グローバル化が進む世界のなかで諸国間の繋がりがよりいっそう緊密になることで、地球全体が一つのコミュニティになったと論じられるようになった。
その代表的な論者が、入江昭である。ハーバード大学で長らく外交史を教えてきた入江昭は、『グローバル・コミュニティ』と題する著書のなかで、コスモポリタニズムの思想に基づいて現代世界における人々のネットワークを描いた。入江は、「グローバルーコミュニティという概念を、『グローバル意識』を土台として作り出された国家を超えたネットワークの形成を示すもの」と位置づけている。それでは、その「グローバル意識」とは何か。それは、「国という社会を一歩踏み出した外部には遥かなる世界が広がり、個人や集団が、どこに帰属するものであれ、その広い世界の中では一定の利益や関心を共有するという思想」である。
入江はその著書のなかで、一九世紀以来の国際行政機構の広がり、そして「国際主義」という理念の浸透によって、人々の繋がりが緊密になっていく歴史を描いている。入江は、勢力均衡の秩序原理を拒絶して、またメッテルニヒが求めたような大国間の協調からも距離を置いて、むしろ市民やNGOがかたちづくるリベラルなネットワークに基づいた秩序を構築するよう提唱した。それは、カントが論じる世界市民主義の伝統を部分的に受け継ぐものであった。カントが、「自由な諸国家の連合」を重視していたように、入江もまたリベラリズムに基づいた国際主義的なグローバル・コミュニティを主唱する。それは、「共同体の体系」としての国際秩序観といえるものであった。
ロンドン大学(LSE)教授であったデヴィズなコミュニティの形成に目を向けて、新しい世界秩序を論じた。ヘルドは次のように述べる。「換言すれば、国家第一主義の政治やリアリズムないし『国家の理性』は、人々のあいだの、また、コミュニティ間の網の目が密になっている時代の政治を展望するには適切とは言えないし、不十分なものともなっていることになる。これに替わる方向は相互の承認を基礎とした政治であり、各人が、また、万人が同様に重視されるとともに、国境にかかおりなく大きなインパクトを受ける公的決定設定が透明で、説明責任に耐え得る政治が求められている」。ヘルドはこれを「コスモポリタニズム」と呼ぶ。
ニルドの世界秩序論は、明らかに、カントの世界市民主義の系譜を受け継いでいる。他方でヘルドは、カソトの「世界市民主義」に民主主義的な条件を加えることによって、「世界市民的民主主義」を提唱している。カソト自らは実際には、すでに見てきたように、「世界共和国」の成立には消極的であった。むしろ彼は、主権国家の自由な連合によって、世界市民主義の精神に基づいてゆるやかな連邦的秩序をつくることを目指していた。それに対して、ヘルドはより積極的に、民主主義の理念を基礎とした「世界共和国」のようなコミュニティを構築することを希求する。「こうした形での世界市民主義への関与は、自分たちの国境の内外で民主公法を支持する、民主的国家や社会からなる国際共同体、すなわち、世界市民的民主共同体の設立に向けて努力する義務を課す」。明らかにヘルドは、カントの永遠平和論を実現可能な政治的なプログラムとして、それをさらに拡充したかたちで実践することを希求している。
このように、二一世紀になるとかつてのカントの夢が、現実の世界秩序の構想として学者たちによって論じられるようになった。カソトからウッドロー・ウィルソン、入江昭に至るまで、彼らは勢力均衡に基づいた国際秩序を時代錯誤なものとして拒絶した。新しい時代には、新しい秩序が可能だと考えた。カントが、共和的体制の諸国による自由な連合を想定していたのに対して、入江やヘルドはより積極的にグローバルなコミュニティが可能だと考えた。
このように、近代的な国際社会が成立してから、思想家たちはさまざまな国際秩序の構想を思い描いてきた。それを本書では、「均衡の体系」、「協調の体系」、そして「共同体の体系」という三つの系譜に分けて考えた。それでは、これらの国際秩序の原理は、実際の歴史のなかでどのように実践されたのだろうか。それぞれの時代に、いったいどのような国際秩序が存在していたのか。次章では、歴史のなかの国際秩序を見ることにしたい。
カントの考えた「世界市民主義」、そして「平和連合」の理念は、その形式を変えながらも二一世紀に受け継がれている。とりわけ、グローバル化が進む世界のなかで諸国間の繋がりがよりいっそう緊密になることで、地球全体が一つのコミュニティになったと論じられるようになった。
その代表的な論者が、入江昭である。ハーバード大学で長らく外交史を教えてきた入江昭は、『グローバル・コミュニティ』と題する著書のなかで、コスモポリタニズムの思想に基づいて現代世界における人々のネットワークを描いた。入江は、「グローバルーコミュニティという概念を、『グローバル意識』を土台として作り出された国家を超えたネットワークの形成を示すもの」と位置づけている。それでは、その「グローバル意識」とは何か。それは、「国という社会を一歩踏み出した外部には遥かなる世界が広がり、個人や集団が、どこに帰属するものであれ、その広い世界の中では一定の利益や関心を共有するという思想」である。
入江はその著書のなかで、一九世紀以来の国際行政機構の広がり、そして「国際主義」という理念の浸透によって、人々の繋がりが緊密になっていく歴史を描いている。入江は、勢力均衡の秩序原理を拒絶して、またメッテルニヒが求めたような大国間の協調からも距離を置いて、むしろ市民やNGOがかたちづくるリベラルなネットワークに基づいた秩序を構築するよう提唱した。それは、カントが論じる世界市民主義の伝統を部分的に受け継ぐものであった。カントが、「自由な諸国家の連合」を重視していたように、入江もまたリベラリズムに基づいた国際主義的なグローバル・コミュニティを主唱する。それは、「共同体の体系」としての国際秩序観といえるものであった。
ロンドン大学(LSE)教授であったデヴィズなコミュニティの形成に目を向けて、新しい世界秩序を論じた。ヘルドは次のように述べる。「換言すれば、国家第一主義の政治やリアリズムないし『国家の理性』は、人々のあいだの、また、コミュニティ間の網の目が密になっている時代の政治を展望するには適切とは言えないし、不十分なものともなっていることになる。これに替わる方向は相互の承認を基礎とした政治であり、各人が、また、万人が同様に重視されるとともに、国境にかかおりなく大きなインパクトを受ける公的決定設定が透明で、説明責任に耐え得る政治が求められている」。ヘルドはこれを「コスモポリタニズム」と呼ぶ。
ニルドの世界秩序論は、明らかに、カントの世界市民主義の系譜を受け継いでいる。他方でヘルドは、カソトの「世界市民主義」に民主主義的な条件を加えることによって、「世界市民的民主主義」を提唱している。カソト自らは実際には、すでに見てきたように、「世界共和国」の成立には消極的であった。むしろ彼は、主権国家の自由な連合によって、世界市民主義の精神に基づいてゆるやかな連邦的秩序をつくることを目指していた。それに対して、ヘルドはより積極的に、民主主義の理念を基礎とした「世界共和国」のようなコミュニティを構築することを希求する。「こうした形での世界市民主義への関与は、自分たちの国境の内外で民主公法を支持する、民主的国家や社会からなる国際共同体、すなわち、世界市民的民主共同体の設立に向けて努力する義務を課す」。明らかにヘルドは、カントの永遠平和論を実現可能な政治的なプログラムとして、それをさらに拡充したかたちで実践することを希求している。
このように、二一世紀になるとかつてのカントの夢が、現実の世界秩序の構想として学者たちによって論じられるようになった。カソトからウッドロー・ウィルソン、入江昭に至るまで、彼らは勢力均衡に基づいた国際秩序を時代錯誤なものとして拒絶した。新しい時代には、新しい秩序が可能だと考えた。カントが、共和的体制の諸国による自由な連合を想定していたのに対して、入江やヘルドはより積極的にグローバルなコミュニティが可能だと考えた。
このように、近代的な国際社会が成立してから、思想家たちはさまざまな国際秩序の構想を思い描いてきた。それを本書では、「均衡の体系」、「協調の体系」、そして「共同体の体系」という三つの系譜に分けて考えた。それでは、これらの国際秩序の原理は、実際の歴史のなかでどのように実践されたのだろうか。それぞれの時代に、いったいどのような国際秩序が存在していたのか。次章では、歴史のなかの国際秩序を見ることにしたい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
人はいかに生くべきか
『働く女性が知っておくべきこと』より あなたたちが新しい時代を作る
●メンターとロールモデルを見つけよう
「メンター? ロールモデル? 聞いたことがないわ」
メンターというのは、ギリシャ神話のオデッセウスが留守中息子の後見を頼んだ親友メントールから来た言葉だが、つまり若い青年に対して教え導きアドバイスをする存在とされている。1980年代から、アメリカのビジネス界で成功する男性たちはそうしたメンターがいるのに女性にはいない。また自分が目標とするロールモデルも女性は持ちにくい。
それが女性がビジネスで成功するのを妨げているのでメンターやロールモデルをもとうと強調されるようになった。
最近では男女を問わず、職業人、社会人として成長するためにメンターやロールモデルが必要とされ、特に女性の管理職養成のために社内メンターを設けている企業、昭和女子大のように学生に対する社会人メンターを設置している大学もある。
メンターは直属上司や指導教官ではなく、すこし離れた位置から、大所高所に立ったアドバイスをしてくれる人である。そういうメンターがいると、目先の狭い問題にとらわれることなくより高い目線を持って判断できるようになる効果がある。メンティー(メンターから指導を受ける側)も相手を尊敬し、指導に従う。メンターは本来自然発生的にめぐりあうもので、仕事をしている過程で、「頑張っているな」とすでにエスタブリッシュしている幹部に目をかけられるべきなのだが、自然にまかせるとなかなか運次第で出会えない。
●人はいかに生くべきか
結局人間の社会は世話をできる人、他人の支援をできる人たちによって支えられている。一生世話だけされていきたい、自分だけいい思いをしたい、得をしたいと思う人が多い社会は力を失っていくし、世話をしよう、自分だけでなくほかの人も幸せにしよう、よくなってもらいたいと考える人が多い社会は豊かになっていく。日本も戦後のある時期、おそらく1980年代の半ばまではみんなで力を合わせて平和で豊かな社会を作るというコンセンサスがあった。良いものを作ることで企業は成長し、便利で清潔な暮らしを実現することができる、仕事に真剣に取り組むことによって家族を幸せにすることができる手ごたえがあった。悲惨な戦争やみじめな貧しさを記憶している人も多かったので、それと比較して平和のありがたさがわかった。問題はその『豊かな社会』が実現した後どういう社会を作るかが見えなくなったことね。私たちが社会に出たころはバブルで、自分の生活を楽しむのにみんな忙しがっていた。
自分の企業だけ成長する、自分や家族だけ豊かな生活ができれば幸せになると短絡的に考えたのがまちがっていた。日本国内が飽和したなら、まだまだそれが行きわたっていない途上国に進出して援助するとか、文化基金を作るとか、優良な住環境を作る、社会資本を整備する、エネルギー開発を進めるとか、いろいろなすべきことは多かったのに。
でも今更それを言ってもしょうがない。これからも私たちがまだまだやるべきこと、やれることがたくさんある。他人、企業、国をあてにして任せるのではなく、自分自身が考え抜き、最善を尽くすこと。グローバル化が進み競争の激しい時代になり、生き残るために自分のことだけ考えて、競争に負けないでということばかり目指すと、万人の万人に対する戦いになってしまう。個人を尊重した結果、視点が狭く小さく短くなった人が増えているのは悲しいこと。
●メンターとロールモデルを見つけよう
「メンター? ロールモデル? 聞いたことがないわ」
メンターというのは、ギリシャ神話のオデッセウスが留守中息子の後見を頼んだ親友メントールから来た言葉だが、つまり若い青年に対して教え導きアドバイスをする存在とされている。1980年代から、アメリカのビジネス界で成功する男性たちはそうしたメンターがいるのに女性にはいない。また自分が目標とするロールモデルも女性は持ちにくい。
それが女性がビジネスで成功するのを妨げているのでメンターやロールモデルをもとうと強調されるようになった。
最近では男女を問わず、職業人、社会人として成長するためにメンターやロールモデルが必要とされ、特に女性の管理職養成のために社内メンターを設けている企業、昭和女子大のように学生に対する社会人メンターを設置している大学もある。
メンターは直属上司や指導教官ではなく、すこし離れた位置から、大所高所に立ったアドバイスをしてくれる人である。そういうメンターがいると、目先の狭い問題にとらわれることなくより高い目線を持って判断できるようになる効果がある。メンティー(メンターから指導を受ける側)も相手を尊敬し、指導に従う。メンターは本来自然発生的にめぐりあうもので、仕事をしている過程で、「頑張っているな」とすでにエスタブリッシュしている幹部に目をかけられるべきなのだが、自然にまかせるとなかなか運次第で出会えない。
●人はいかに生くべきか
結局人間の社会は世話をできる人、他人の支援をできる人たちによって支えられている。一生世話だけされていきたい、自分だけいい思いをしたい、得をしたいと思う人が多い社会は力を失っていくし、世話をしよう、自分だけでなくほかの人も幸せにしよう、よくなってもらいたいと考える人が多い社会は豊かになっていく。日本も戦後のある時期、おそらく1980年代の半ばまではみんなで力を合わせて平和で豊かな社会を作るというコンセンサスがあった。良いものを作ることで企業は成長し、便利で清潔な暮らしを実現することができる、仕事に真剣に取り組むことによって家族を幸せにすることができる手ごたえがあった。悲惨な戦争やみじめな貧しさを記憶している人も多かったので、それと比較して平和のありがたさがわかった。問題はその『豊かな社会』が実現した後どういう社会を作るかが見えなくなったことね。私たちが社会に出たころはバブルで、自分の生活を楽しむのにみんな忙しがっていた。
自分の企業だけ成長する、自分や家族だけ豊かな生活ができれば幸せになると短絡的に考えたのがまちがっていた。日本国内が飽和したなら、まだまだそれが行きわたっていない途上国に進出して援助するとか、文化基金を作るとか、優良な住環境を作る、社会資本を整備する、エネルギー開発を進めるとか、いろいろなすべきことは多かったのに。
でも今更それを言ってもしょうがない。これからも私たちがまだまだやるべきこと、やれることがたくさんある。他人、企業、国をあてにして任せるのではなく、自分自身が考え抜き、最善を尽くすこと。グローバル化が進み競争の激しい時代になり、生き残るために自分のことだけ考えて、競争に負けないでということばかり目指すと、万人の万人に対する戦いになってしまう。個人を尊重した結果、視点が狭く小さく短くなった人が増えているのは悲しいこと。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )