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AKB総選挙と宗教

『前田敦子はキリストを超えた』より

「誰かのために」生きること。しかしAKBの宗教としてのステージはそこにとどまらない。総選挙があるからだ。そして総選挙を通じて、あっちゃんはアンチからの攻撃に耐え、ある種の自己犠牲をAKBのために果たした。その姿はあたかもキリストのごとき「超越者」であった。「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」。AKBというものがもし宗教であるとすれば、それはこのあっちゃんという超越的特異点がそれを完成させたといってもよい。たとえあっちゃんを推しメンにしていないとしても、あっちゃんのこの自己犠牲あふれる言葉に、私たちはひざまずくしかないからだ。

「推す」よりもさらに強い信仰の力。あっちゃんにはそれがある。それはたとえあっちゃんが卒業し、「夢の河」をわたり、いまはAKBにいないとしても、おそらく今後AKBが続く限り、何度でも繰り返し参照され続ける言葉となるだろう。この世界から、アンチというものがいなくならない限り。

総選挙。それは本当に不思議な、宗教的としかいいようのない空間である。私は二〇一二年、はじめて武道館で総選挙を観覧した。まさに武道館がひとつになった約三時間半だった。

メンバーが登壇すると、会場全体がその名を叫ぶ声で包まれる。筆者も推しメンの島崎遥香が二三位で呼ばれステージに立ったときは、思わず自然に「ぱるる!」と叫び声をあげていた。歓声の大きさだけではない。スピーチの途中に涙で声につまるメンバーがいると、即座に「がんばれ!」と声援が飛び交った。「私は可愛くないですし……」というメンバーがいると、すぐさま「そんなことないよ!」と励ます声がかけられる。

まるでひとつの生き物のように、武道館の空気はシンクロした。高城亜樹や松井玲奈の順位が発表された瞬間、「ありえない」と会場全体が凍りついた。篠田麻里子が「席を譲らないと上にあがれないメンバーは、AKBでは勝てないと思います」と後輩たちに挑戦状を突きつけた瞬間、「おお!」と会場全体がどよめいた。最後に、一位の大島優子がセンターの椅子に座ると、会場は「優子! 優子!」のコールでまさに一体となった。そこでは、日本中の何万人ものAKBファンの投票でこう決まったなら、どんな結果であっても受け入れねばならないという感覚が共有されている。しかも自分がそこに参加したというたしかな手応えがあるから、納得できる。この手応えたるや、すさまじい。

こうした一体感に満ちた描写は、どこかファッショな、「気持ちの悪い」印象を与えてしまうかもしれない。しかし興味深いことに、武道館はたしかに一体感に満ちていたが、観客たちの「推しメン」はみなばらばらなのである。今回の総選挙に参加したメンバーは総勢二三七名。客層を見ても、いかにも「アイドルオタク」という風貌の人は完全に少数派であり、老若男女に子連れにカップルと実に多彩であった。メンバーもファンも多様でありながら、AKBの総選挙は圧倒的なまでの一体感を生み出すのである。

だから私は、いまはまだ〈世界宗教〉という観点から見れば大変に規模の小さなAKBの総選挙も、今後も続いていけば、世界を一つにする可能性があると信じている。劇場公演を見て、握手会に足を運び、総選挙で投票する。こうしたメンとヲタの間の「関係の絶対性」のゲームを回し続けることで、あっちゃんのような小さきキリスト的存在をリザレクション(転生)させるシステムとして、AKBはキリスト教を超える可能性がある。

それはいってみれば、一神教への信仰による世界平和とはまったく違う道である。AKBのファンにとって、あくまで信仰/推しの対象は一人一人のメンバーであり、それは異なっている。しかし総選挙の場を通じて、年に一度超越者を、センターを選ぶ。その瞬間、AKBという共同体はまさに一つになる。いうなれば民主的に超越者を決める多神教。それがAKBという〈宗教〉なのである。

こう言い換えてもいい。「推しメン」は偶然性で決まるが、「センター」は必然性で決まる、と。人の趣味は多種多様だ。だからAKBの数多くいる少女たちの中からどれを選び推すのかというのは、それこそ主観的で偶然の問題でしかない。いいかえれば「どうでもいい(どうとでもなる)」問題である。しかしAKBには特異点としてのセンターが必要だ。それはセンターである「べき」存在、つまりAKBの巨大な共同体に認められた存在でなければならない。
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チョムスキー 民主主義の限界について

『知の逆転』より

--ある意味、市場原理を政治に当てはめたのが民主主義ではないかと思うのですが、さまざまな問題が出てきている。ソクラテスは人間の幸福のためには慈悲深い君主による君主制がベストで、次が寡頭政治、そして民主政治、専制政治の順になると、プラトンの『国家』の中で言っているわけですが

チョムスキー それはプラトンの見解です。アリストテレスは同意していません。プラトンは権威主義的でしたから。でも、かなり人口に檜灸している考え方です。

--同意されないということですね。

チョムスキー それはたまたま慈悲深い専制君主に行き当たる場合だってあるでしょう。民主主義はそれ自体に価値がありますが、実際には、なんらかの権利を求める場合、人々はその権利獲得のためにたいへんな努力を払う必要があります。単に与えられた権利の場合、ありがたみがないので、結局十分に使わずじまいになってしまう。獲得のために努力した場合には、それを使うことになるからです。

--一九世紀のイギリスの思想家、アクトン卿は「過激な民主主義というものは、国外では帝国主義的であり、国内では独裁的である。古代アテネの民主主義は、「個人の良心」というものが「多数派の意志」というものに従属させられてしまっていた。これは全く理不尽である」と言ったわけですが、アメリカの過激なトークショー司会者たちや、極端な原理主義者の台頭を目のあたりにすると、この先現在のような民主主義の形態が、そのまま続いていけるのだろうかという疑問を持つわけですが。

チョムスキー いまの話でガンジーの指導書のことを思い出しました。西欧文明についてどう思うかと聞かれて彼は、「おそらくいい考えでしょう」と答えています。「民主主義」についても「おそらくいい考え」だと言えるでしょう。西欧社会における民主主義はこれまでほぼポジティブであったでしょう。アテネの民主主義も、女性と奴隷を別にすれば、自由人というものを基盤とした、おそらく最も純粋な民主主義であったと思います。

問題は民主主義の限界ということです。人類にとって、核の脅威や環境崩壊よりも大きな問題かもしれません。

アメリカは世界中で最も自由な国のはずですが、国内で力の不均衡がある。情報システム、メディア、広告などが、ほんの一部の手に集中しているのです。アメリカは自由ですが、情報へのアクセスという点では、局在している。

巨大な力を持つアメリカの企業は、地球温暖化というのは根拠のない仮説にすぎないと、やっきになって大衆の説得を試みていて、しかも成功しつつある。人為的な理由による地球温暖化を信じているのは、人口の三分の一にすぎないわけですから。

先の(二○一〇年の)中間選挙を見てください。当選した共和党議員の大部分が、地球温暖化を否定しています。主要委員会の若い共和党リーダーは、「そんなことが起こるわけがない。神が許すわけがないから」と言ったのです。

自由国家では、国内の支配がごくわずかの巨大なパワープレーヤーに集中してしまいがちになる。しかもアメリカでは三分の一が聖書に書いてあることを文字どおり信じている。この二つが一緒になると、たいへん危険なことになります。

組織というものに対する民衆の態度を見てみるといい。政府、共和党、民主党、銀行など、人々はそれらを嫌悪しているか、猪疑心をもって見ています。共和党は民主党より嫌われているくらい。議会に対する支持率は一桁台です。民衆はこれらの組織を信用していないし、組織が彼らの意見を反映しているとも、彼らのために働いているとも思っていません。形式上は民主主義であり、人々は選挙に行くわけですが、実質上は違っています。
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「次の世界」の整理 5/5

生まれて、死ぬ

 10.8章は自分に対する総括です。意思がある、私の存在として、総括します。今までの自分のキータームを持ってきました。それを集めると、一つのものになります。

 疎外感ではないけど、この世界がどうなっているかわからない。自分という意識に対して、だれも応えてくれない。だから、自分で考えるしかない。

 そこで出てきた、色々な答え、キャッチフレーズが自分なりにピッタリはまっています。

 だけど、サラリーマンであることは間違っているかもしれない。生きていくためには正しいけど。生きていく必要もないけど。まあ、社会との接点にはなってくれた。社会というものがあるかどうかは分かりません。

 本当は哲学と数学で留めておきたかった。だけど、未唯空間ができてしまった以上は、どうしようもないです。突き進むしかない。でも、外なる世界はあまりにも邪魔者が多すぎる。行動を起こすのは面倒くさい。だから、内なる世界で留めておくつもりだった。

 この先、どうなるかわからない。誰も認めてないけど、外へ押し出すのも一つの手です。最低でも、反応は分かります。すべてを知ることの一つです。ただ、すぐ、内へ戻ってくるでしょう。まあ、それもいいです。

 なぜ、社会を変えるとか、歴史を変えると言っているのか。それは自己肯定しながら、死ぬためです。自分に還るためです。私のわがままです。付き合ってもらう人がいないから、まあ、いいでしょう。まあ、いいでしょう。

 池田晶子さんの「宇宙の旅人」に出会うまでは色々な束縛のもとにいた。池田さんはソクラテスをベースに、自分の中の束縛、特に父親との関係を解いていった。哲学者として、社会的にも認められて、「14歳の君へ」という本も書きました。それは、多感な中学生に対して、束縛から脱して、自分の世界を作るようにしたメッセージです。

 偶々、ここにいるということは存在を軽くします。やりたいことをやって、出ていけばいいんです。やらなくてもいいんです。そこから、内なる世界を作りました。

 社会に対抗するために、というよりも、仕事の中でサファイア循環を見つけて、未唯空間を作りました。その数学モデルの究極の形として、LL=GGを作りました。これをどうするかです。まあ、これをどうするかです。これをベースにすべてを知ることにします。

 最後は考えることでおしまいにします。空間で考えることを与えてくれた数学があり、全てを知ることは偶然に頼ることを教えてくれた偶然があった。

 全てを知ることで、先のことが見えてくる。それを言うことも、言わないことも自由であること。個人の分化から始めて、歴史を変えることまでのシナリオができた。まあ、この辺でいいでしょう。

 明日から、カウントダウンしていきます。第9章・第8章・…です。
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「次の世界」の整理 4/5

歴史を変える

 唐突に、2050年に終わるというのが、歴史の到達点です。今まで、137億年来たのに、なぜ、急激に終わるのか? これは歴史のコード化という、相対性からです。

 人が増えれば、それの総和、または相乗で時間の密度が高まります。今までの一億年、一万年がこれからの一年に当たります。これは仮説だけど、実感です。その割には、変化を無視しています。従来通りの一年・二年として扱っています。

 だから、2050年に歴史の区切りをつけます。そのために、変えるためのインフラを2030年までに作らないといけない。

 ここまで来ると、皆からは荒唐無稽に見えるでしょう。だけど、私が1950年に生まれてきたのはそういう意味です。私以外、どんな愛する人に対しても意識は感じません。。これが真実なんです。皆は幻想を描いています。

 2050年以降どうなるのか。それが次の一歩であり、ビックバーン仮説です。もう少し、イメージを膨らませないといけません。終わりになるのではなく、LL=GGになった時に、どう変わっていくかです。ならなかった時には破滅のシナリオです。

 では、歴史を変えるとは何か。LL=GGに持っていくことです。つまり、個人と全体がつながることです。個人が変われば、全体が変わる。全体が変われば、個人が変わる。それをカタチにすることです。

 個人にとって、生まれてきたことの意味にとっても、それが歴史の究極です。

 歴史を変える原動力は危機感です。その後ろにあるのが、さまざまなクライシスです。個人の意識が変わり、行動が変わり、コミュニティに集約することです。

 これらは自然に起こることです。起こらなければ、意図して変えるしかない。意図して変えるということは、個人と組織の意思を変えることです。そのベースは格差の社会です。

 大きな歴史を個人が変えられるかを過去のケースを見てみた。宗教家のムハンマド、キリスト、法然、彼らは歴史を変えています。カリスマというものは、革命家、宗教家は個人がやっているように見えるけど、グループであり、偶然であり、時代の流れです。

 偶然がカタチをとると、悲惨です。ナチスはヒットラーも含めて、ああいうカタチになると思っていなかったでしょう。だけど、事実は事実です。

 カリスマをカリスマで抑える。それも偶然です。結果としては全体主義を民主主義というもので、世の中を変えてしまった、ルーズベルト。彼は原爆をこのように出現させた。歴史のもとには個人がいるけど、裏には流れがあり、それを偶然が支配している。

 では、歴史を変えるモノは何か。それは数学です。数学はトポロジーということで、ローカル中心を社会に先行して作り上げてしまった。これを見習って、歴史を変えていく。そうなるとトポロジーの先がどうなるかで予測ができます。LL=GGの世界に入ります。

 これは自然の流れというよりも理念的な流れです。頭で考えています。皆は歴史は成り行きだと思っているけど、裏には道理が走ります。数学という、すべてのベースが変わっていきます。

 ソーシャルなどはなぜ作ったのか、パソコンをアラン・ケイはなぜ、構想したのか。その先の世界を夢見て、先人は作ってきた。先人の思いをまっとうに受け継いでいけば、社会が変わり、歴史が変わります。つまり、先人の武器を使って、世の中の考え方を変え、歴史を変えることができます。それが戻ることはたぶん、ないでしょう。
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次の世界」の整理 3/5

社会を変える

 社会を変える。最初は哲学のアプローチです。人間の歴史の中で、色々な考えがあり、その考えで作られてきたことを理解しないといけない。それがないと、今あることが当たり前になってしまう。変えることが常態であることを知る。

 特に、民主主義で我々の幸福をどう見ていくのか。社会の常識は支配階級の常識の押し付けです。

 大きいのは、存在をどう見ていくのか、生きている理由をどう見ていくのか。それがないと、人のことは構っていられないという世界です。取りあえず、従属しながら、生きていくという道しか、本当にないのか。

 といっても、支配する方にも論理がある。偶々、そこに生まれたからでは、矛盾になります。

 意識を変えるところの目的は、社会は変わるものだという自信に基づいて、見ていくことです。新しい民主主義といっても、そんな難しいものではない。新しい「われわれ」を作り出すことです。その前提は公共意識です。

 社会を変える目的は日本人を変えることです。これは逆説的です。日本人が変われば、社会は変わるけど、社会が変わらないと、日本人は変わらない、

 今の日本で考えると、枠から作っていくしかない。外部からの力も必要になってきます。何しろ、独立を自力で得た経験がない国だから。社会を変えるという難しいことを考えるよりも、日本人を変えるほうを考えた方がいい。

 資産を持ちながら、大きな錯覚の上に安穏としています、危機感は環境社会で圧迫されます。変わらないと、国債とか年金も含めて、つぶれます。この会社もそうです。組織を変えないと崩壊は避けられない。組織を分化させれば、マーケティング付いてきます。日本を先導する役割を持っているはずです。

 だから、枠組みから変えていけばいいです。日本は内から変わることはできない。外からの期待に対して、変えていく。

 その前に、日本人のよさから考えていくも必要です。モノつくりから世界のために何ができるかを考えていく。何しろ、世界から見ると一人ぼっちでやってきた。そうはいかない。世界を変えていく、役割を持っています。そこから、日本を変える意識を持っていくことです。

 すぐに思考停止に入ります。今も集団的浅慮です。それでどうにかなるというのが、日本人です、これは太平洋戦争開戦時の状況です。どうにもならないことになります。個人とか組織レベルでお金を貯めていることではすまない。どう使っていくかです。

 そのために、格差が広がってもいいけど、要するに問題を解決することです。

全てを知りたい

 第10章は本当に不思議な構成になっています。「社会を変える」のあとは、個人的に「すべてを知りたい」になっています。私の中ではしっくり来ます。他から見ると、次は「世界をかえる」だろう。

 全てを知りたいという思いは強いのは確かです。そのために生きているつもりです。生まれてきた理由そのものです。その結果として、社会が変わるか、世界が変わるかというのはたいしたことではない。全てを知ることです。

 全てというのは難しいです。全てなんて、あるはずがない。だから、偶然を使っていきます。偶然も意味合い一つです。今度の異動に関しても、どうでも取れます。自分のいいように取るのか、悪いように取るのかは自由です。

 意味を取ったら、それに従います。それが「意思」の力です。数学を得たことも偶然の賜物です。貧しい家庭で、数学に行けて、四方さんに会えるとは、どんな偶然なのか。そこで得たものを大企業に入って、大企業という、何でもやっていいところへ来て、実験できたこと、皆、偶然です。偶然が意味あるものとしたときに、どう意味を返すかです。

 全てを知りたいことから、作り上げたものは未唯宇宙です。この意味をハッキリさせましょう。未唯空間に世の中で起こっていることを全て、くっつけます。単にそれだけでなく、それを宇宙として見ていきます。当然、LL=GGも含まれます。

 だから、今どうなっているかということと、偶然で得たことを体系の中に入れていくことが何なのか。その体系が未唯宇宙です。まあ、無限次元を使っているから、いくらでも広がります。そこからいかにコンパクトに答えを出していくかです。

 我々の多重宇宙もそのようにして作られてきたのでしょう。そこに住んでいる私というもの、その他のものが何なのか。それを意識せずに、私を攻撃する人はどうでもいいです。自分が世界を作れば、それが私が知りたい理由でしょう。

 その結果として、知ることができたのか? まあ、無知の知は十分、わかりました。知ってどうするかというのは、単なる生まれてきた理由の意味です。

 知ったことから、体系はできたけど、それを表に出すことはない。聞かれたら応えるだけです。その意味は聞く人でないと、考えていない。考えていない人に説明しても無意味です。これは禅問答と同じです。考えている人が聞くから意味があるのです。だから、全存在を掛けて応えます。

 全てを知った後はどうするのか? ニーテェのように、次の頂きを目指します。そして、そこから、次の頂きが見えたら、山を下ります。紛れます。
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「次の世界」の整理 2/5

未来予測

 次は、グローバルのグローバル(GG)とローカルのローカル(LL)に向かいます。それはどんなイメージなのか? それが未来予測です。

 GGとLLが生まれたのは、数学からです。今のトポロジーの次にどうなるのか。そして、LLがGGと引っ付くことになります。そういう空間です。

 この空間そのものは私の中にあることに気づきました。それは存在と無です。究極のグローバルと究極のローカルが私の中で一緒になっている。かつ、宇宙もそうなっている。広大な宇宙の端と自分の中がつながっている。これは「あなたの心はどこにありますか」と聞かれたときに、直感で感じたことです。

 そう考えると、LL=GGは究極の姿であると同時に、原初の姿です。だから、循環します。

 未唯空間のジャンルに当てはめてみました。数学では、コンパクトに当たります。開であり、閉であり、集合であり、点であるコンパクトです。社会では、何のために存在するのかの説明しようとします。

 歴史では、民主主義とか国家とかの形態がどうなっていくかを示している。超国家と自分との関係からすると、LL=GGは自分が超国家であることになります。その間にある国というものの価値が極端に低くなる。歴史そのものから見ると、今までの歴史、137億年の歴史が到達する、究極の形である。

 仕事で言うと、ローカルのローカルのお客様とグローバルのグローバルである、メーカーの企画が、ローカルとグローバルを中継しながら、つながるという単純な形です。平和です。

LLとGGの世界

 未来予測については、コンパクト化とコミュニティ化を2050年までに作ることですが、それ以前の2030年までに社会インフラを変えていけるのかどうかです。準備期間を持ちます。

 LL=GGでの国の形態は分かります。国は軽い存在になって、つなぐだけの役割です。LL=GGの世界にとっては、地域が一番重要になります。エネルギーを含めて、色々なものを集約させます。

 つなげるのは、教育とか経済を含めたソーシャルという考え方です。地域の活力と個人の活力を使っていきます。

 何しろ、LL=GGなんですから、個人の思いが企画を動かします。そのためにはソーシャルとして、皆を解放させることです。

 ソーシャルの世界は複雑性が支配している。地方の変化が中核部分を変えていきます。一つのマーケティングから複数のマーケティングへ、原因から結果へ、結果から原因へ。

 個人にしても、まずは発言することです。それによって、何が起こるのか。複雑性の世界では、変化が変化を生み出します。個人の自信が次につながって、集団として、変革を起こします。個人が変われば、社会が変わる。その根本は複雑性です。

サファイア革命

 具体的な活動としては、サファイア革命を起こすことです。

 その核はサファイア事務局です。最終的には政治活動を行います。役割は仕事で言うと、ファシリテーターとインタープリターが中心になります。日本人の組織依存をどうするかも絡んできます。

 サファイア革命といっても暴力革命ではない。一つの概念のもとに、それぞれが自分の立場で、動けるようにしていけるようにする。何が正義なのか、生まれてきた理由は何なのか。当然、戒律はムハンマドのように求めます。
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「次の世界」の整理 1/5

未唯へ

 散歩しながら、ICレコーダに入力している。バス停の前を通ったら、1分後にバスが来る様なので、待って、バスに乗りました。いつものバス停です。

第10章「次の世界」のオーラルでの整理

 本当に俺は考えているのか。適当なことを言っているだけなのかもしれない。

 第10章「次の世界」で自分が考えているかを確認します。

分化させる

 まずは、分化から始まっています。

 これは空間ではない。まずは、ローカルとグローバルでの空間から始まります。それが組織のレベル、グループのレベル、そして個人のレベルにいきます。

 では、今の社会のそれぞれのレベルはどうなっているのか。

 日本の場合は個人と組織しかない。その間にグループを作らないといけない。そのためには、個人と組織が分化しないといけない。この順番がよく分からない。当然ながら、組織と個人だけでなく、グループがあるところもあります。偏在しています。それのアナロジーを活用する手です。元々、空間を一様で見ていない。多様で見ています。その中で次元を上げていこうという話です。

 分化の始まりは、サファイア循環におけるインタープリテーションです。つまり、ローカルから発言することです。そのループを多様なところでつなげていくことで、多様な大きなループになっていく。

 個人の分化の例として、グーグルでの20%ルールのように、色々な所に関与してくる。一人の分化することは、参加するNPOからすると、それはNPO全体の色を変えることです。一人が10人の人にもなり得ます。

 人間はそういう多面的なものを持っています。仕事という面だけではない。教会のメンバーなら、メンバー間のポータルを作ればいいです。オープンソースという手があります。

 その目的は何かというと、仕事のメジャーだけでは全体が生きていけないけど、多くの人が役割分担できれば、何らかの形で全体が生きてくる。それによって、一つの組織に依存しなくてもよくなります。

 次は組織の分化です。本来、組織は強固でないと思われているけど、今はそれでは成り立ちません。多くの目的を持ってやっていく事です。社会との融合です。儲けるだけのことでは、成り立ちません。

 組織の中で、変わらないといけないのは、会社というものと宗教というものと、あとは政治でしょうね。企業は目的は分かりやすい。宗教の目的は何か。人と救済することが表向きです。個人を団結させることは本来の目的ではなく、個人の救済です。

 キリスト教の目的は団結させることです。それが西洋のコミュニティにつながっている。そのメリットは大きい。イスラムの場合は、個人への戒律です。強い関係を仲間に求めます。

 政治の目的は生活なんでしょう。政治・経済となった途端に、目的が変わります。そこから分化させないといけない。

 次に来るのは、グループの分化です。その前に、グループを作らないといけない。アメリカのように、下から作り上げたところは、自然にグループができている。日本の場合は個人がバラバラにされて、組織に支配されている。

 コミュニティが存在することで、社会を変えるための原動力を作ることです。組織と個人に対する分化を促す。そのために、知識と意識をココに集めることです。

 では、分化したあとはどうなっていくのか。ローカルとグローバルの間にコミュニティに作って、そこに力を集約して、ローカルを力づける。
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