未唯への手紙
未唯への手紙
異動内示後のメモ
なぜ、パソコンを作ったのか
考える武器を渡したい。考えるためのライブラリを渡したい。それが先人のメッセージです。
なぜ、パソコンを作ったのか。社会を変えるためです。
無視されてきた
無視される生き方をしてきたから、しょうがないかもしれない。それをあと、2年間、続けるだけのことです。
問いかけなければ、何も応えない。それは決めたことです。取りあえず、生きるのは止めましょう。今は、空中にふわふわと浮かんでいる感じです。
ポータルの開発をしよう
社会を変えるための練習問題をポータルで行いましょう。発想を変えて、開き直って。だから、パートナーの持っているすべての要件を出させます。
仕掛けられた偶然
仕掛けられた偶然も、逆に書きます。ポータルを使って、ゲーム化からコミュニティ化を具体的なものにします。あくまでもミッションはすべてを知る。だから、サファイアを貫徹させる。それだけです。
2015年の姿を想像します。そのためにも、Oに渡すわけにはいかないでしょう。
新しいGに期待しよう
パートナーは情報系の制約をハッキリさせることです。そうでないものは別に作っていく。情報系の新しいGならば、新しい物作ることに対してはどうにかできます。
ここのGは無能です。この半年でも、情報系を渡せたはずです。だけど、メールしかなかった。だからといって、ポータルをなくすことは彼らの負けです
オープンの世界
書簡とSNSとワークフローとスケジュールはオープンにくっつきます。
異動内示後のメモ
やはり、会社を辞めよう
2年半前に、この会社のていたらくに落胆して、辞めることを考えた。奥さんからは金銭的には、辞めてもいいと言われた。
の時も希望が持てなくなった。
Sごときのために、辞めるわけにはいかない。もう少し大きな存在ならば、やることも考えられるが、あまりにも小さすぎる。
崩壊するのを、観察することに徹することにした。
一年をめどに、パートナーを取り戻す。その時点ではSは存在しないだろう。
最低最悪の異動
個人の恣意での異動ですね。
パートナーの希望に沿って、他部署に異動させるのではなく、同一部署でメイン業務を奪い去った。
理由が仕事の枠から出ていない。
どうしようもない室、部、そして会社です。
唯一の希望をそんな理由でなくすのは信じられない
希望のない組織の行く末
方向がないと同時に、今までやってきたことを否定する。
次を考えられない。進んでいるといっても、ハードがあるだけです。社会の変化に対応していない。
ITツールは、仕事の仕方を変えて、個人レベルの武器になっていくことが信じられている。
社会を変えるのが、先端企業の考えることです。
分化の考察
仕事だけの個人が居ない。家族があり、コミュニティがある。そして、生まれてきた理由がある。
一人の人間の中にあるのではなく、各コミュニティの中にあると見る。仕事人間ではなく、多くの側面を持つカタチになる。
それによって、一人が10人くらいになれるし、仕事がない人間も存在理由がハッキリする。
多様な10倍の人間の社会が可能になる。
組織の分化は、より上位との関係と下位のグループとの関係がある。
社員、お客様との対応などを対等に見ることで、幅を広げる
考える武器を渡したい。考えるためのライブラリを渡したい。それが先人のメッセージです。
なぜ、パソコンを作ったのか。社会を変えるためです。
無視されてきた
無視される生き方をしてきたから、しょうがないかもしれない。それをあと、2年間、続けるだけのことです。
問いかけなければ、何も応えない。それは決めたことです。取りあえず、生きるのは止めましょう。今は、空中にふわふわと浮かんでいる感じです。
ポータルの開発をしよう
社会を変えるための練習問題をポータルで行いましょう。発想を変えて、開き直って。だから、パートナーの持っているすべての要件を出させます。
仕掛けられた偶然
仕掛けられた偶然も、逆に書きます。ポータルを使って、ゲーム化からコミュニティ化を具体的なものにします。あくまでもミッションはすべてを知る。だから、サファイアを貫徹させる。それだけです。
2015年の姿を想像します。そのためにも、Oに渡すわけにはいかないでしょう。
新しいGに期待しよう
パートナーは情報系の制約をハッキリさせることです。そうでないものは別に作っていく。情報系の新しいGならば、新しい物作ることに対してはどうにかできます。
ここのGは無能です。この半年でも、情報系を渡せたはずです。だけど、メールしかなかった。だからといって、ポータルをなくすことは彼らの負けです
オープンの世界
書簡とSNSとワークフローとスケジュールはオープンにくっつきます。
異動内示後のメモ
やはり、会社を辞めよう
2年半前に、この会社のていたらくに落胆して、辞めることを考えた。奥さんからは金銭的には、辞めてもいいと言われた。
の時も希望が持てなくなった。
Sごときのために、辞めるわけにはいかない。もう少し大きな存在ならば、やることも考えられるが、あまりにも小さすぎる。
崩壊するのを、観察することに徹することにした。
一年をめどに、パートナーを取り戻す。その時点ではSは存在しないだろう。
最低最悪の異動
個人の恣意での異動ですね。
パートナーの希望に沿って、他部署に異動させるのではなく、同一部署でメイン業務を奪い去った。
理由が仕事の枠から出ていない。
どうしようもない室、部、そして会社です。
唯一の希望をそんな理由でなくすのは信じられない
希望のない組織の行く末
方向がないと同時に、今までやってきたことを否定する。
次を考えられない。進んでいるといっても、ハードがあるだけです。社会の変化に対応していない。
ITツールは、仕事の仕方を変えて、個人レベルの武器になっていくことが信じられている。
社会を変えるのが、先端企業の考えることです。
分化の考察
仕事だけの個人が居ない。家族があり、コミュニティがある。そして、生まれてきた理由がある。
一人の人間の中にあるのではなく、各コミュニティの中にあると見る。仕事人間ではなく、多くの側面を持つカタチになる。
それによって、一人が10人くらいになれるし、仕事がない人間も存在理由がハッキリする。
多様な10倍の人間の社会が可能になる。
組織の分化は、より上位との関係と下位のグループとの関係がある。
社員、お客様との対応などを対等に見ることで、幅を広げる
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宗教改革者ルター
『宗教改革小史』より
一五二三年にニュールンベルクのマイスタージンガー、靴職人の詩人(ンスーザックスは「ヴィッテンベルクの朝告げ鳥」と題する七〇〇行の注目すべき詩を書いた。この詩はマルティンールターについてのものだった。サックスは朝告げ鳥であるルターがどのようにして新しい夜明けを告げ、偽りと嘘の酷い夜から神の純粋な真理の光へと目覚めさせたかを述べている。夜の生き物である獅子(教皇)や狼(聖職者)やふくろう(学者)がこぞってこの鳥を黙らせようと最善を尽くすが、鳥は勇敢に歌い続ける。サックスの詩はほかに例を見ない時代へと窓を開けている。詩人自身がこれを「終末的」、「終わりの時」と見ている。古い秩序は恐ろしく吠えながら、日が明け始めるとこっそり去っていく。詩全体を通してサックスの二元論は首尾一貫している。一方には人間の諸力があり、思いつきの教義や祭儀や教会法、堕落と不道徳と暴利を特徴とする。他方にはルターによって説かれる神のことばがある。ルターは羊を夜の獣から救い、これを(安全な)窪地へと連れ返すのである。
宗教改革をその場で経験した人の調子に合わせるのは、これまた不可能なことである。それでもサックスの「ヴィッテンベルクの朝告げ鳥」のような詩はこうした遥か昔の現実を垣問見せてくれる。サックスのような人によって感じ取られた、世の終わりの雲の向こうには、ルターの姿が見える。その時代の鼓動を鋭く感じていた詩人によって、英雄的な大きさに拡大されているのである。今日では、歴史上の人物を記述するのに、学者が「英雄」などというカテゴリーを用いるのは流行らないことであって、先の時代が余りにも見境のない言い方を使ったルターの場合には特に注意が必要である。他方では、ルターが非常に短い期間に多くの同時代人の思いをとらえたやり方には本当に注目すべきなにかがある。彼らの熱狂は力と名声をもつ典型的な人物に帰せられる熱狂よりも遥かに深かった。これらの人々は霊感を受けていたのである。彼らの耳には、ルターは「見えない天からの声」だったのである(Carlyle。 1993)°彼らの足下遥か下で、地の基は応えていた。ものごとが正されようとしていたのである。
一五〇〇年代初期の新しい技術である印刷術がルターの一件に広い公共の反響を与えるのに驚くべき役割を演じた。「西欧の最初の最大級メディアーキャンベーン」となったのである。ザックスの「ヴィッテンベルクの朝告げ鳥」はルターの話がどのように語られ得たのかを示すよい実例である。彼の神学的理念は、聴き手である大衆のための言葉へと濃縮された。もちろん、ザックスのような詩人や、ルカス・クラナッ(やアルブレヒトーデューラーのような画家は宗教改革に賛同して、こうした様々な表現に、世論に訴える鋭さを加えた。終わりの時とは、緊急の時、決断を下す時であり、こうした人々はこれが起こるようにするため自分の役割を果たしたのだった。
このような高いレベルのメディアに加えて、印刷所もまた安い値段で大量に生産した。ルターがローマと争い始めて後何年かの間に何千というパンフレットが印刷された。多くは信徒によって書かれたもので、秘かに印刷されたものもあったが、一緒になって衝撃を与えた。それらは、終わりの時の緊急事態に備えて心と思いとをこの一件に集中するために、武器を取れという訴えだった。そのスタイルや内容は、聖職者を鄙楡する皮肉や、教皇を反キリストと描く風刺や、神学的知識のある農民の演じる模擬討論や、短い教義的なトラクトなどを含んで、いろいろだったが、そうしたパンフレットやチラシの多くは聖書からの引用を用いていた。長い問信徒の手には届かなかった聖書が、権威としてばかりでなく、解放の源として登場した。いま一つの重要な特徴は、ルターと教皇との争いが圧倒的なテーマとして取り上げられた頻度である。ここでもまた、『九五箇条』に対する当初の応答の、教皇庁側での戦略的な誤算が明らかとなる。この争いそのものがパンフレット制作者のマスメディアにとって格好の材料だった。ひとりの男が巨大で暗黒の陰謀と英雄的に戦っているというのだからである。彼が戦っているのは自分たちのためだ、という点が重要だった。当時の非常に低い識字率の中でさえ、パンフレットの要望は驚くほど高かった(かなりの印刷所がこれからそれなりの利益も得ていた)。ルターは誇張された存在となった。
ルター自身の著作が印刷されたものの重要な部分を占めた。事実ルターは宗教改革の大部分の時期ドイツで抜きん出て最もポピュラーな著作家だった。印刷された彼の著作の大部分は、学問の言語であるラテン語であるよりもむしろドイツ語だった。彼が目指した相手は大学の壁の向こうにいた。プロパガンダは確かにルターの書いたものの中である役割を演じてはいたが、それはもっと大きな関心によって覆われていた。一五三〇年以前のルターのドイツ語著作の約四〇%は説教だった。その目的は明らかに信仰を強めるためである。けれども多くのパンフレットや他のメディアは初期の宗教改革をルターとローマの間の個人的な争いという型に嵌めていた。宗教改革者自身は神学的内容に焦点を当て続けた。彼の関心は魂の配慮であり、彼の使命は教えることであった。
一五二三年にニュールンベルクのマイスタージンガー、靴職人の詩人(ンスーザックスは「ヴィッテンベルクの朝告げ鳥」と題する七〇〇行の注目すべき詩を書いた。この詩はマルティンールターについてのものだった。サックスは朝告げ鳥であるルターがどのようにして新しい夜明けを告げ、偽りと嘘の酷い夜から神の純粋な真理の光へと目覚めさせたかを述べている。夜の生き物である獅子(教皇)や狼(聖職者)やふくろう(学者)がこぞってこの鳥を黙らせようと最善を尽くすが、鳥は勇敢に歌い続ける。サックスの詩はほかに例を見ない時代へと窓を開けている。詩人自身がこれを「終末的」、「終わりの時」と見ている。古い秩序は恐ろしく吠えながら、日が明け始めるとこっそり去っていく。詩全体を通してサックスの二元論は首尾一貫している。一方には人間の諸力があり、思いつきの教義や祭儀や教会法、堕落と不道徳と暴利を特徴とする。他方にはルターによって説かれる神のことばがある。ルターは羊を夜の獣から救い、これを(安全な)窪地へと連れ返すのである。
宗教改革をその場で経験した人の調子に合わせるのは、これまた不可能なことである。それでもサックスの「ヴィッテンベルクの朝告げ鳥」のような詩はこうした遥か昔の現実を垣問見せてくれる。サックスのような人によって感じ取られた、世の終わりの雲の向こうには、ルターの姿が見える。その時代の鼓動を鋭く感じていた詩人によって、英雄的な大きさに拡大されているのである。今日では、歴史上の人物を記述するのに、学者が「英雄」などというカテゴリーを用いるのは流行らないことであって、先の時代が余りにも見境のない言い方を使ったルターの場合には特に注意が必要である。他方では、ルターが非常に短い期間に多くの同時代人の思いをとらえたやり方には本当に注目すべきなにかがある。彼らの熱狂は力と名声をもつ典型的な人物に帰せられる熱狂よりも遥かに深かった。これらの人々は霊感を受けていたのである。彼らの耳には、ルターは「見えない天からの声」だったのである(Carlyle。 1993)°彼らの足下遥か下で、地の基は応えていた。ものごとが正されようとしていたのである。
一五〇〇年代初期の新しい技術である印刷術がルターの一件に広い公共の反響を与えるのに驚くべき役割を演じた。「西欧の最初の最大級メディアーキャンベーン」となったのである。ザックスの「ヴィッテンベルクの朝告げ鳥」はルターの話がどのように語られ得たのかを示すよい実例である。彼の神学的理念は、聴き手である大衆のための言葉へと濃縮された。もちろん、ザックスのような詩人や、ルカス・クラナッ(やアルブレヒトーデューラーのような画家は宗教改革に賛同して、こうした様々な表現に、世論に訴える鋭さを加えた。終わりの時とは、緊急の時、決断を下す時であり、こうした人々はこれが起こるようにするため自分の役割を果たしたのだった。
このような高いレベルのメディアに加えて、印刷所もまた安い値段で大量に生産した。ルターがローマと争い始めて後何年かの間に何千というパンフレットが印刷された。多くは信徒によって書かれたもので、秘かに印刷されたものもあったが、一緒になって衝撃を与えた。それらは、終わりの時の緊急事態に備えて心と思いとをこの一件に集中するために、武器を取れという訴えだった。そのスタイルや内容は、聖職者を鄙楡する皮肉や、教皇を反キリストと描く風刺や、神学的知識のある農民の演じる模擬討論や、短い教義的なトラクトなどを含んで、いろいろだったが、そうしたパンフレットやチラシの多くは聖書からの引用を用いていた。長い問信徒の手には届かなかった聖書が、権威としてばかりでなく、解放の源として登場した。いま一つの重要な特徴は、ルターと教皇との争いが圧倒的なテーマとして取り上げられた頻度である。ここでもまた、『九五箇条』に対する当初の応答の、教皇庁側での戦略的な誤算が明らかとなる。この争いそのものがパンフレット制作者のマスメディアにとって格好の材料だった。ひとりの男が巨大で暗黒の陰謀と英雄的に戦っているというのだからである。彼が戦っているのは自分たちのためだ、という点が重要だった。当時の非常に低い識字率の中でさえ、パンフレットの要望は驚くほど高かった(かなりの印刷所がこれからそれなりの利益も得ていた)。ルターは誇張された存在となった。
ルター自身の著作が印刷されたものの重要な部分を占めた。事実ルターは宗教改革の大部分の時期ドイツで抜きん出て最もポピュラーな著作家だった。印刷された彼の著作の大部分は、学問の言語であるラテン語であるよりもむしろドイツ語だった。彼が目指した相手は大学の壁の向こうにいた。プロパガンダは確かにルターの書いたものの中である役割を演じてはいたが、それはもっと大きな関心によって覆われていた。一五三〇年以前のルターのドイツ語著作の約四〇%は説教だった。その目的は明らかに信仰を強めるためである。けれども多くのパンフレットや他のメディアは初期の宗教改革をルターとローマの間の個人的な争いという型に嵌めていた。宗教改革者自身は神学的内容に焦点を当て続けた。彼の関心は魂の配慮であり、彼の使命は教えることであった。
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間食で食べていい食品はナッツとチーズ
『主食を抜けば糖尿病は良くなる!』より
糖質制限食では空腹感の強いときの間食は禁止していまぜん。食品が豊富に出回っている現代に生きている人に、間食を禁止しても実行は難しいでしょう。食事療法は続かなければ意味がありませんから、間食を禁じていないのです。
ただし、間食で口にしていい食品については制限しています。
まず避けてほしいのは、甘いお菓子です。 ケーキやクッキーなどの洋菓子、あるいは大福、ようかんなどの和菓子には、大量の砂糖が含まれているだけでなく、小麦や米などのでんぷんが大量に使われています。また、ゼリーやアイスクリームなどもその味から想像できるように、砂糖が多く使用されているため不可です。
甘くないお菓子の場合でも、糖質の多く含まれているものがあります。 最近の若者が日常的に口にしているスナック菓子の類は、砂糖が使われている甘いものはもちろん、甘くないものも好ましくありません。甘くないスナック菓子といっても、原材料のほとんどは小麦やとうもろこし、米などであり、大量のでんぷんを含んでいるからです。ポテトチップスなども、原料はじやがいもであり、でんぷんと油の塊です。
ですから、スナック菓子は極力避けるべきだと考えてください。
同じ理由で、せんべいやおかき、あられなどの米菓子も不可です。
次に果物についてですが、これは形態によって区別してください。
一般的にいって、生の果物の場合、少量ならば時々口にしてもいいでしょう。
果物には糖分が含まれているのですが、これは果糖といって比較的GIの低いものですし、果物のほとんどは水分であり、糖質の総量としては大したことはありません。ですから、例えばいちごI〇粒、りんご半分といった通常の一食分に含まれている糖質の量は多くなく、この程度ならばあまり問題にしなくてもいいでしょう。
ただし、同じ果物の場合でもドライフルーツはダメです。
例えば干しぶどうや干しプルーンなどの場合、水分が抜けていますから、全体量の中で糖質の占める割合は非常に高いのです。また、ドライフルーツになったものを口にすると、どうしても大量に食べることになりますから、これは避けてください。
果物の缶詰も不可です。これはすぐにおわかりのように、ほとんどがシロップ漬けになっていて、非常に糖質が多いためです。
ここまでが間食でできるだけ避けてほしい食品についてですが、これとは逆に、間食のときにお勧めできるのは一部の種実類です。カボチャの種、まつの実、くるみは、脂質が多く、糖質の少ない食品です。こうした種実類は、空腹感を感じたときの食品として適しているでしょう(そのほか、糖質制限食向けの市販おやつについては、『主食を抜けば糖尿病は良くなる! 実践編』をご参照ください)。
また、チーズも糖質が少ないので間食に適していますし、天日干しの貝柱やうるめなどの干物もお勧めです。これらは晩酌の焼酎のおつまみにもいいようです。
以上が間食についての食品の選び方です。
ただ、お菓子類については、完全にやめるのが難しい人もいるでしょう。そんな人は、どうしても我慢できない日だけ、昼食時にデザートとして、ごく少量を口にするようにしてください。
糖質制限食では昼食だけは主食を摂っていますから、昼食後にお菓子を摂るのならば、血糖値上昇の時間を増やすリスクが小さくなるからです。
とはいえ、お菓子を口にすることは基本的には不可なのですから、我慢できないからといって毎日食べるようなことは厳禁です。
糖質制限食では空腹感の強いときの間食は禁止していまぜん。食品が豊富に出回っている現代に生きている人に、間食を禁止しても実行は難しいでしょう。食事療法は続かなければ意味がありませんから、間食を禁じていないのです。
ただし、間食で口にしていい食品については制限しています。
まず避けてほしいのは、甘いお菓子です。 ケーキやクッキーなどの洋菓子、あるいは大福、ようかんなどの和菓子には、大量の砂糖が含まれているだけでなく、小麦や米などのでんぷんが大量に使われています。また、ゼリーやアイスクリームなどもその味から想像できるように、砂糖が多く使用されているため不可です。
甘くないお菓子の場合でも、糖質の多く含まれているものがあります。 最近の若者が日常的に口にしているスナック菓子の類は、砂糖が使われている甘いものはもちろん、甘くないものも好ましくありません。甘くないスナック菓子といっても、原材料のほとんどは小麦やとうもろこし、米などであり、大量のでんぷんを含んでいるからです。ポテトチップスなども、原料はじやがいもであり、でんぷんと油の塊です。
ですから、スナック菓子は極力避けるべきだと考えてください。
同じ理由で、せんべいやおかき、あられなどの米菓子も不可です。
次に果物についてですが、これは形態によって区別してください。
一般的にいって、生の果物の場合、少量ならば時々口にしてもいいでしょう。
果物には糖分が含まれているのですが、これは果糖といって比較的GIの低いものですし、果物のほとんどは水分であり、糖質の総量としては大したことはありません。ですから、例えばいちごI〇粒、りんご半分といった通常の一食分に含まれている糖質の量は多くなく、この程度ならばあまり問題にしなくてもいいでしょう。
ただし、同じ果物の場合でもドライフルーツはダメです。
例えば干しぶどうや干しプルーンなどの場合、水分が抜けていますから、全体量の中で糖質の占める割合は非常に高いのです。また、ドライフルーツになったものを口にすると、どうしても大量に食べることになりますから、これは避けてください。
果物の缶詰も不可です。これはすぐにおわかりのように、ほとんどがシロップ漬けになっていて、非常に糖質が多いためです。
ここまでが間食でできるだけ避けてほしい食品についてですが、これとは逆に、間食のときにお勧めできるのは一部の種実類です。カボチャの種、まつの実、くるみは、脂質が多く、糖質の少ない食品です。こうした種実類は、空腹感を感じたときの食品として適しているでしょう(そのほか、糖質制限食向けの市販おやつについては、『主食を抜けば糖尿病は良くなる! 実践編』をご参照ください)。
また、チーズも糖質が少ないので間食に適していますし、天日干しの貝柱やうるめなどの干物もお勧めです。これらは晩酌の焼酎のおつまみにもいいようです。
以上が間食についての食品の選び方です。
ただ、お菓子類については、完全にやめるのが難しい人もいるでしょう。そんな人は、どうしても我慢できない日だけ、昼食時にデザートとして、ごく少量を口にするようにしてください。
糖質制限食では昼食だけは主食を摂っていますから、昼食後にお菓子を摂るのならば、血糖値上昇の時間を増やすリスクが小さくなるからです。
とはいえ、お菓子を口にすることは基本的には不可なのですから、我慢できないからといって毎日食べるようなことは厳禁です。
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