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マスウードは「パンジシェールの獅子」

『中央アジア』より アフガニスタン 冷戦の代理戦争

カールマルは、1980年1月に半人道的、反民主的な政策の撤廃や政治犯の釈放を発表し、少数民族やムスリムを含んだ民主国家の設立を目指すとして反政府勢力の懐柔に臨んだが、各地での反政府ゲリラ活動は頻発した。一方国際社会はソ連軍侵攻を非難した。カーター米大統領が「カーター・ドクトリン」を発表し、対ソ連穀物追加輸出を停止したほか、モスクワオリンピックヘの不参加を発表、多くの西側諸国がこれに協調した。さらにルーマニアやユーゴスラビアなどの東欧諸国や、西側諸国の共産党、中国もソ連の軍事侵攻を非難した。これに対しブレジネフ書記長は、外国勢力による軍事干渉がアフガニスタンの独立を損ない、ソ連南部地域に帝国主義的前線基地がっくられる危険性があった,と軍事侵攻の理由を説明した。だが1月14日、国連ではソ連軍の「アフガニスタンからの外国軍隊の撤退要求決議案」が賛成多数で採択された。

ソ連軍侵攻に伴い,ムスリムの6グループは「イスラーム擁護同盟」を結成した。これにはラッバーニーの「イスラーム協会」、ラッバーニーと快を分かったヘクマティヤールの「イスラーム党」、1979年にヘクマティヤールのイスラーム党と離れたユーノス・ハーリスの「イスラーム党ハーリス派」、スィブガトゥッラー・ムジャッディディーの「民族救国戦線」、ナビー・ムハンマディの「イスラーム革命運動」,サイイド・アフマド・ギーラーニーの「イスラーム革命民族戦線」が参加した。彼らはアフガニスタンにおけるイスラーム体制の確立を主張することで一致したが、ヘクマティヤールはイラン革命に強く影響を受けたため、武力行使を辞さないイスラーム革命を主張して、国王復権も認めた穏健派と対立した。彼はまたイランやパキスタンとイスラーム国家としての連帯を主張し、これらの国々からの支援も認めた。だがラッバーニー派の司令官マスウードは武力行使を時期尚早と認識し、さらに外国、特に非イスラーム諸国からの援助を嫌ったため、あらゆる援助を受けたヘクマティヤールと対立した。こうしたムスリム勢力は、ジハードを実践する者、という意味の「ムジャ・ヒディーン」、あるいはその戦法から「アフガンゲリラ」とも呼ばれた。彼らは意見の対立を繰り返し、けっして一枚岩にならなかった。

ムジャ・ヒディーンは主導権争いの結果、発足後1ヵ月余でヘクマティヤールが連盟を脱退、5グループが「アフガニスタン解放イスラーム擁護連盟を結成した。ムジャ・ヒディーン勢力の対立の要因には民族や部族、宗派の違い、指導者の政治的方向性や社会基盤の相違、覇権をめぐる個人的な対立を挙げられるが、この対立を通して各グループが民族的な基盤を強調し,周辺諸国との密接な関係を築くことになり、現在の軍閥形成につながった。またこの時期、ムジャ・ヒディーンはカーブルとジャラーラーバードの間など主要道路を支配下とし、通行料を徴収し始めた。このような資金獲得活動もまた、地方の軍閥を形成する一因となった。

上記のグループがスンナ派であるのに対し、シーア派はイラン国内でグループを編成した。1979年にサイイド・アリー・ビヒシュティーが結成した、ハザーラ人による「アフガニスタン・イスラーム・統一革命評議会」は、シーア派による最初の団体であったが、1982年頃に内部分裂した。その最大勢力はアースィフ・モーセニーが率いるイスラーム運動党だった。そのほかにイラン革命の影響を受けた急進派の若者で構成される「イスラームの勝利青年団」や、親イラン派の「防衛兵士団」「救済党」「イスラーム青年団」「祖国党」などがあった。これらシーア派9団体は1990年にテヘランで「イスラーム統一党」を結成し、シーア派、ハザーラ人の権益保護を主張した。

国軍の兵力が不足する中、革命評議会は1981年に徴兵法を公布して20歳以上の男子に対し徴兵の義務を課した。また労働賃金の引き上げや農民の土地税免除、政治犯釈放などでの懐柔案を提案した。さらに、この年の5月にアリー・ケシュトマンド革命評議会副議長を閣僚会議議長兼首相とする内閣が発足すると、宗教的・部族的伝統を尊重する土地改革法の改正を発表し,モスク所有地や宗教学者、あるいは部族長や近代農法での農家を対象外と定めた。こうして政府は、反政府運動を展開中のグループのうち、イデオローグではない、地主や一般の市民を懐柔して,反政府運動の分解を試みた。だが戦争は収まらず、泥沼化する一方だった。

戦争の泥沼化の要因に反政府勢力による「ゲリラ戦」があげられたが、当時200近く存在した反政府グループは、ソ連と政府への敵意以外に共通点はないどころか、イスラームの信仰さえも共有していなかった。反政府勢力は、ラッバーニ-やヘクマティヤールなどのインテリ層のみならず,マドラサ(イスラーム学院)に学んだムスリム、地元の聖者崇拝を尊重するムスリム、あるいは農地改革に反対する農民など、多様なグループが連携をとらぬまま別々に蜂起したのだった。したがって反政府勢力は相互で「あまり相談せずに効果的な戦闘を展開」した。これが「ゲリラ」的戦闘を導いたのである。ムジャーヒディーンが戦術を知らず、場当たり的な戦闘しかできなかったのに対し、ソ連軍は典型的な上意下達の戦略をとり、臨機応変な戦術をとらなかったことも指摘された。また激戦地となった北東部パンジシェール渓谷は、険しく起伏の激しい山岳地帯で、平野での戦闘に慣れていたソ連軍兵士が苦戦を強いられたの対し、この山岳部を故郷とするマスウード率いるムジャ・ヒディーンは、山岳部を抜けて奇襲を繰り返すことで、「ゲリラ」的戦闘を可能とした。1985年にソ連軍はパンジシェール渓谷への総攻撃を仕掛け、死者数は2000人超となったが、ムジャ・ヒディーンは屈服しなかった。この戦闘はソ連軍撤退を導いた象徴的なものといわれ,マスウードは「パンジシェールの獅子」と英雄視された。さらに戦争の膠着化の要因には、ソ連軍兵士の中にウズベク系など民族的同胞意識からムジャ・ヒディーンに加わる者やさまざまな疾病に罹る兵士が続出したり、麻薬に溺れる者も出て,士気が低下したこともあげられた。さらに、1987年にはアメリカが熱追尾方式のスティンガーミサイルをムジャ・ヒディーンに供与したことで、ソ連軍用機撃墜を可能としたことや、パキスタンやアラブ諸国、東南アジア諸国からムジャ・ヒディーンとして多くのムスリムが戦闘に参加したことで、ムジャーヒディーンの戦闘能力は高まった。戦争の継続とともに難民問題も深刻化した。1985年末の時点で、パキスタンヘの難民数は270万人、イランヘの難民数は78万人と発表された。

1986年5月に、カールマルが書記長を辞任すると、後任には秘密警察局長だった強硬派のナジ・ブッラーが選出された。だが一方で、ゴルバチョフ書記長はソ連軍の早期撤退を検討していると発言し、一部での撤退も実施された。翌1987年、ナジ・ブッラー書記長は新憲法制定のローヤ・ジルガを開催、イスラームを国教に制定し、国名を「アフガニスタン共和国」に変更して「民主」の語句を取り、共産主義の印象を拭った国民和解路線を掲げたが、ムジャーヒディーンはナジーブッラー政権がソ連の傀儡だとして,その打倒を掲げ、ソ連軍には無条件撤退を求めた。
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コメント
 
 
 
マスードへの思い (μ)
2012-12-24 18:27:01
9.11後に、マスードを知ったよね。アフガニスタンも知らなかったけど、戦いながら、本を読んで、平和をねがっていた。
それゆえに、前日にあんさつされた。
知らないことを知った。それから読書量が倍になった。
 
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