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赤ちゃんの誕生 受精

『赤ちゃんの誕生』より 7月に出産する未唯に見せたが、興味がなかった。すごい精密な写真です。

新しい生命の誕生のためには、複雑なパズルを完璧に解く必要がある。卵巣の表面から排卵した卵子は卵管膨大部に到達し数日間はそこで待機する。この時期が精子による受精のチャンスである。精子が女性の腔内に入ると、可動性の尻尾を使って前進し、子宮頚管、子宮内を通過して30分以内には卵管に到達する。精子の運動エネルギーとなる糖分は、精子の体部のミトコンドリアの部分に貯蔵されている。女性が直前に排卵していれば、卵管で1個の卵子が受精を待っている状態であるが、卵管内での精子の寿命は数日あるので、精子が卵子の到着を待つ可能性も存在する。

この時点では、卵子は放射冠と呼ばれる栄養膜の外殻で完全に覆われている。複数の精子が到達すると、この外殻を突き破って卵子の表面に向かって一斉に突き進む。卵子の表面に到達すると、細胞ではなくて固く結合した材質でできた強固な壁に突き当たる。精子はこの強固な卵子の壁に穴をあけて細胞内に侵入して初めて卵子の核にある遺伝情報と融合することができる。卵子に比べて精子は小粒であるが、頭部に保存されている遺伝情報は、卵子と同量であり、同様に重要な情報である。

精子の機能には機械のドリルのようなものがある。ドリルの穂先のように精子の頭部を尻尾で連続回転させて壁に穴をあけて進むことができる。複数の精子が、卵子の表面のあらゆる場所に穴をあけ、卵子の外殻の中を進んで行く。しかし、最初に卵子の表面に到達して細胞内に侵入することができた精子のみが勝者で、侵入後1~2分には、他の精子の侵入を防ぐために化学的に壁の構造を変化させる。唯一の勝者となった精子の頭部は膨張し、体部および尻尾はその任務が終わったので脱落して消滅する。

精子の頭部が膨張して核に変化するとほぼ同時に、もう一つの核が卵子内で形成される。それは女性側の遺伝情報を含んだ核で、今まさに二つの核が出会う時である。二つの核はチュブリンと呼ばれる線維で互いに引き寄せられる。そして、強固に接続して融合を開始する。

融合後は核の外膜は消滅し、遺伝情報を含む粒子は細胞質内に拡散して見えなくなり受精の過程は終了する。したがって、受精卵は今やたった一つの細胞となり、今後はヒトの体を形成する何十億個もの細胞へと増殖することとなる。事実、数時間後には細胞は分裂を開始し、二つの同じ細胞が形成される。

受精卵はその後も数日間は卵管膨大部に留まり、休止期をはさみ12~15時間の間隔で細胞分裂を始める。したがって、受精後48時間には4個の、さらに24時間後には8個の細胞となる。さらに、受精後4日には、受精卵は桑の実に似た形態となる。この時期を桑実期という。さらにまる1日経つと、受精卵のなかに明らかな中空が形成され胚盤胞と呼ばれる細胞の塊となる。また同時に胚盤胞のなかに明らかに二つの機能分化が認められ、一つはヒトの胎芽(妊娠10週未満の胎児のこと)となる内部細胞塊、もう一方は胎盤となる部分である。

卵管の内壁には数百万本の繊毛があり、絶えず子宮の方角に向けて協調運動し、受精卵が腹腔内に落ち込むのを防いでいる。また内壁には内腔を拡張および収縮できる筋肉も存在する。卵管の膨大部から狭窄部に受精卵が移動するまでは、この筋肉は強く収縮してその移動を阻止している。そして、排卵後5~6日には筋肉は弛緩し胚盤胞が移動可能となる。筋肉の収縮と拡張による受精卵の移動を調節するのは、排卵後に多量に分泌されるプロゲステロンの効果である。数時間後には、受精卵は卵管狭窄部に移動する。

5日間の移動行程の後、胚盤胞は広大な子宮内腔に到達する。そこで胚盤胞は最低3~4回膨張と収縮を繰り返すが、これが卵子の孵化の最初のステップと考えられている。最初に子宮内膜に穴が作られ、そこに内部の胎芽となる細胞塊と胎盤になる細胞が注入される。そして、空になった胚盤胞の殻は消滅する。胎芽の外側は比較的平らで固い壁で覆われるが、新しい子宮内面側はより波型で粘着性に富んでおり、あたかも胎芽が砂糖液に浸された状態である。実は着床前には、糖に似た分子の突起が子宮内膜表面に形成され、その突起に適合する突起を持つものが強く結合できる構造となっている。そこで、胎芽は化学的な信号を外部に発信し、その信号に呼応して反応した部位が、将来の増殖と成長に最も適していると判断して着床すると考えられている。

子宮はその役割を果たす準備が十分に整っている。排卵後1週間で子宮内膜は胎芽の育成に必要な状態となる。免疫学的には胎芽は母親にとって異質蛋白であり異物となる。しかし一般には、精巧な仕組みにより、胎芽は拒絶されるのではなく、母体にむしろ歓迎される。着床の最初の段階は胚盤胞の中にある内部細胞塊が司るが、むしろその後は胎盤になる細胞がその高い組織への侵入能力を活かして重要となる。着床直後にこの細胞は胎盤を形成して細い血管を子宮内膜に侵入させる。そして、ホルモンを介した信号を子宮内膜および母体全体に送ることができる。

胎芽に含まれる遺伝情報が、完全なヒトとして成長するためには重要であることが以前にも増して知られてきた。ヒトの全ての細胞には核があり、そこに遺伝情報が格納されている。ヒトの染色体は46個からなり、正確に配置されている。 46個の染色体と約5万個の遺伝子を持つこの仕組みは、全ての人類に共通である。しかし、個人レベルでは小さな差が遺伝子の構造上にあり、この結果、外見上も、行動上も、さらに能力上もお互い異なることとなる。ただし、一個人の全ての細胞は同じ遺伝情報を持っているので、どの細胞を検査しても、その個人の遺伝情報の詳細を知ることができる。

遺伝情報は、A、C、G、Tと異なった四つの記号で表される塩基の窒素結合によって形成された2重ラセン構造のDNAで構成されている。この化学物質の異なった組み合わせが大きな遺伝情報の差を生む。このDNA鎖を1本の紐として延ばすと約1.8mの長さとなる。 DNA鎖のなかには、約30億の遺伝情報が符号として保存されており、この情報は一人の個人では全ての細胞の核で同じである。

ヒトの細胞は分裂して増殖し、1回の細胞分裂で全く同じ遺伝情報を持った二つの新たな細胞が誕生する。ヒトの一生の間、体のどこかで毎秒数千個の新しい細胞が生成されている。しかも、新しい細胞の遺伝情報は古い細胞と全く同じである。

臓器細胞が古くなるとアポトーシスと呼ばれる過程を経て死滅し、新たな細胞に置き換わる。ヒトは約240種の異なった細胞から構成されており、一部の細胞は他の細胞より寿命が長い場合がある。

性腺の細胞である卵子と精子は他の細胞と異なり、受精の時には23個の染色体しか持っていない。卵子と精子の核が融合すると、両者の遺伝情報が混合され、男女おのおの持っている23個の染色体が合わさり、23の対をなす46個の染色体が形成される。1番目の対から22番目の対までの染色体は男女で同じであるが、23番目の対は特別で、女性では二つのX染色体、男性ではXとYの染色体をそれぞれ1個持っている。

成熟前の卵子は46個の染色体を持ち、23番目の対は二つのX染色体である。そして、排卵の数時間前に染色体は半減して23個となる。成熟前の精子も同様で、46個の染色体を持っているが、成熟過程で半分の数になる。しかし、精子では二つに分かれる時に、一方はX染色体を、他方はY染色体を持つことになる。したがって、受精の時に性別を決めるのは、卵子ではなくて精子の役割である。
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現代哲学の終焉

『現代思想史入門』より

哲学の終焉のはじまり

 考えてみよう。歴史は、普遍的ないし超越的なものではなく、やはり人間の作りだしたものである。歴史はかつて人間が作りだしたものについての記述であり、歴史それ自体も人間が作りだしたものである。それが宇宙の起源にまで拡張されたにしても、その拡張された歴史も、やはり人間が作りだしたものである。

 しかし、歴史それ自体についてまで思考してきた哲学すらも、歴史のなかに書き込まれる。そしてぴとびとは、哲学者の考えた原理や論理や新たなテーマの設定を聞こうとするのではなく、概念の歴史的影響関係を知りたがり、それが「使えるかどうか」しか関心をもたなくなる。

 歴史は、出来事を解明するためというよりは、もはやただ整理編集されるためのるのであって、ひとびとは相互に自分の捉えた歴史の方が正しいといって論争する--歴史について語るぴとは、普遍的登記簿としての歴史に書き込む権利を獲得しようとして歴史について語っているのだが、だれもその特権をもつわけではなく、それもまた歴史上のひとつの思考と表現の実践にほかならない。

 メルロHポンティは、歴史はみずからが歴史の外にいて全貌を把握しなければ絶対的なものとはならないが、他方ではまた、歴史のなかにみずからが属していなければ、歴史を解明しようとする動機すらもつことができないと述べた。歴史のなかにありながら歴史について語るのは、ぴとつの根本的矛盾である。歴史について捉えることも歴史のなかで行われるにすぎないとしたら、歴史のなかでいまを説明しようとすることに、--それも歴史的出来事なのだから--、どのような意味があるだろうか。

 その上うなところから、哲学の終焉がはじまったのではなかったか。現代哲学は歴史のなかにみずからの真理を書き込もうとしていたのであるが、しかしそうしながら、それ自身が歴史のなかに書き込まれていき、そのことを通じて真理を語る力を徐々に奪われていった。歴史に書き込まれたことの方が、それぞれの哲学者が語ろうとすることよりも優先されるようになって、何を書こうと、歴史のなかでその哲学者の言葉がどんな役割を果たしたがしか問題にされなくなるとしたら、哲学者は、どうやって普遍的な真理を求めようとすることができるだろうか。

 メルロ=ポンティは、その出発点にあるヘーゲル哲学を評して、「哲学を美術館に展示されたようなものにしてしまった」と述べている。哲学よりも歴史が先立つということ、それが現代哲学の抱えている最大の問題である。どんなに個々の問題を探究しようとする哲学者も、その思考自体が歴史のなかに書き込まれてしまう。哲学が歴史のなかでのみ意義を与えられるようになつだそのあとには、一体どんな哲学が可能だったというのであろうか。

時間性

 意識のほかに、現代哲学においてもうぴとつ主題となったのは、時間とは何かということであった。

 ありとあらゆるものを主題とするのが哲学だから時間についても論じたということではない。四世紀のアウグスティヌスは、時間を問題にして、「だれもが知っているがだれも説明できない」と述べている。忘れられていたこの中世の問いを、現代において最初に哲学の中心に据えたのはベルクソンであった。そしてその後、時間は、現象学においても実存主義においても、現代哲学の基本的テーマとなった。

 古代ギリシア哲学では、永遠のもとに知識を捉えることが主題であって、時間はそれを損なうものとして否定的に扱われる傾向があった。生成消滅するものを学問的対象にすることはできないとされた。近代哲学においても、カントが整理したように、時間はせいぜい経験の形式として人間に与えられた条件にすぎなかった。そこでは、事物は空間のもとにあって時間に従って運動し、変化するものとされていた。

 しかし、運動や変化ではなく、発生や歴史を考慮に入れようとするとき、時間とは何かが避けて通れない問題として現われてくる。経験の根底には意識の流れ、「体験流」なるものがあると説明するにしても、「流れ」とは何のことであろうか。河の流れのようなものは比喩にすぎない。流れるということの実質は、何であろうか。

 こうした流れる時間のもとで、意識が客観性にどうやつて到達することができるかをあきらかにすれば、そのことで、科学によって客観の側からのみ説明されようとしている精神の真の意義を再獲得することができるであろうし、科学が発見する知識の真の意義をあきらかにすることができるであろう--この意味で、時間についての考察は、デカルト主義の二元論に対決するための「挺子の支点」(デカルト)のようなものなのであった。

 そもそも従来の時間の捉え方には奇妙なところがあった。時間とは、過去と現在と未来からなるが、アウグスティヌスが述べているように、過去とは「もはや存在しないもの」、未来とは「いまだ存在しないもの」である。過去は記憶や記録によってかつて存在したとされ、未来は予測や運命によって存在するにいたるとされる。とすれば、真に存在しているのは現在だけということになる。現在といっても、瞬間として捉えるか、ある種の連続性をもって捉えるかはばはあるが、現在だけしか存在しないということになるのである。すでに説明したように、歴史的存在者が存在するのは、過去や未来においてではなく、永遠においてでしかない。そのようなものしか「存在する」といってはならないのである。

 他方、近代の物理学において確立された時間のイメージは、物を投げ上げたときの軌跡を描く際の座標の時間軸のようにして、直線を描いて中央に点を打って現在とし、左を過去、右に未来を割りあてるようなものであった。た、む、むとされる座標上のむの点を追って行くとき、それぞれの位置にそれぞれの現在むがありながら、むもむも同時に出現している。それにしても、同時であるなら、こちらもやはりみな現在である。物理学的運動は、時間を表現しているのではなく、現在のなかに見いだされる位置の変化を表現しているだけなのに、--しばしばぴとが錯覚するように--、これを延長して、すべての過去と未来をこれとおなじ矢印のもとで捉えるなら、すべての時間が現在と同等なものということになってしまうであろう。過去から未来へ向かふて「時間が経つ」ということが、理解できないものとなってしまうであろう。

 「時間が経つ」ということは経験にとって本質的であり、座標に書くような他の種の経験には解消され得ない。ベルクソンがいろいろな例を挙げているが、たとえばコーヒーに砂糖を入れたらそれが溶けるまで待っていなければならないし、ひとの足音も、カツ、カツ、カツと、まえの音が消えながらつぎの音が生じてくるというリズムを通じてでなければ聞こえてこない。同時であれば足音には聞こえなy-そのとき、足音は「存在しない」。

 時間が経つということは、一体何を意味しているのか。過去や未来は、存在としては無であるとしても、意識にとっては不可欠である。それは、何のことなのか。フッサールにも『内的時間意識の現象学』(一九二八年)があるのだが、ここではベルクソンの時間論を紹介していこう。

現代哲学の終焉

 現代哲学者たちは、新たに獲得された科学的知見を念頭に置きつつ、近代哲学の衣鉢を継ぐ大哲学を新規に展開しようとしていた。とはいえ、中世哲学やルネサンス期の哲学を復活させながら、近代哲学をやりなおそうとしていたと見える面ももっていた。ペルクソンの「直観」や、フッサールの「エポケー」や、ハイデガーの「存在」や、ホワイトへッドの「有機体」がその典型である。

 ベルクソンの「直観」は(古代ローマ時代に生まれてルネサンスで脚光を浴びた)新プラトン主義的であったし、フッサールの「エポケー」は(ルネサンス期に復活した懐疑主義の)ピュロン主義的、ハイデガーの「存在」は(中世スヲフ哲学での「存在の類比」、すなわち存在者一般の存在と神の存在とは質が違うと論じた卜マス・アクィナスの)トミズム的、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」は(ルネサンス期の自然哲学者プルーノの)物活論的であって、みなそれぞれにそれらをやりなおそうとしていたといえなくもない。

 かれらは、古代ギリシア・ローマの文明を再生しようとして世界と人間とを発見したルネサンスにならうかのように、それぞれに、もう一度「世界とは何か」、「人間とは何か」ということを問いにし、そこから近代とは異なった新たな哲学を生みだそうとしていた。その意味では、哲学の「ル・ルネサンス」、古代ギリシア・ローマの思想の「再生の再生」だったといってもいいかもしれない。はたしてかれらはそれに成功したのだろうか。

 現代哲学は一時期は熱狂的に受け容れられたが、しかし、かれらの著作にはひとつの問題があった。というのも、そこには、どんなに言葉がむずかしくてもよい、その方がありがたいという雰囲気がつきまとっていたからである。

 過去の哲学の栄光の残影もあるし、エリート知識人がまだ残存していた時代状況のもとにあったということもあるであろう。当時の哲学書を読んだのは大学生、まだ社会には少数しかいない知的エリートの若者たちだった。どの学部の学生であれ、哲学書を読めるということがその知性の証しであったが、哲学書とは、志の高いそうした初学者たちに対して、まず哲学諸概念の辛苦の勉学を要求する権威高い書物であった。

 哲学者たちの扱う哲学的諸概念とその論述は、「哲学は何らかの真理を語り得る」という前提のもとにあって、その点では、かれらの思想が、近代哲学に比べてどれだけ革新的であっても、過去の近代哲学の伝統の延長にあった。かれらの書き方は、哲学の過去の遺産と特権のうえにあった--かれらに引き続くどのような哲学書がありえたであろうか。

 「現代哲学」という名の現代思想は、いまや急速に忘れ去られつつあるように見える。現代哲学は時代に取り残されそうなぴとびとの救いとして、中世哲学や古代ギリシア哲学に関心を差しむけ、そうした現実を見ないですむようにさせる思潮でもあった。

 とすれば、かれらの議論は、自由平等な個人として理性的主体をめざすというような、近代的価値のもとに育ったタイプのひとにしか通用しないものだったのかもしれない。ポストモダンのぴとには、通用しないのかもしれない。近代哲学がなし遂げたような、その後の二〇〇年にわたってひとびとの心性を変え、社会制度を変える知を産みだすといった、思想の本来もつ決定的な威力を欠いていたようにも思われる。
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歴史の歴史

ヘーゲルの「歴史哲学」

 やがて、一八○○年前後のことであるが、「文明進歩」という人類の歴史的発展段階の観念が、フランスのコンドルセ、ドイツのヘーゲルによって唱えられるようになった。ヘーゲルにとって、歴史とは、一人ぴとりは時代の真理を超えられないが、世界精神という人類共通の知性が段階をおって、自己自身の意味を確認しながら自由になっていくという哲学的な過程なのであった。そこでは、哲学が「絶対知」に到達して歴史は終わるとされたのだが、知性の発展を歴史で説明するとき、その説明が正しいためには、かれのように自分の思想がその歴史の最終段階にあるというほかに、どんな論理が可能だったであろうか。

 従来は哲学にはいくつかの普遍的な主題があって、どの時代の哲学者も、それぞれ独自にその主題にアプローチしているとみなされていた。しかしへーゲル以降は、哲学とはひとつの知的伝統の引き受けであり、似たような主題に対する対決であり、おなじ方向で取りあげなおしをくり返してきた思考の歴史であると考えられるようになった。逆にいえば、それぞれの哲学者の思考は、それぞれの時代のなかの思考にすぎず、過去の哲学の全体をのり超えることなどできないというのである--ヘーゲルとその影響を受けたクーザンが、そのように哲学史を総括した。そのとき哲学は「歴史哲学」となり、それ以降、大学で講義されるぴとつの専門領域として、「哲学の歴史についての哲学」となったのであった--いわゆる「講壇哲学」である。

 それまでは哲学者と科学者とは区別されず、現実のさまざまな領域に関して、その領域の専門科学を創りだすことと、それを実証したり応用したりすることとは区別されなかった。哲学者は富裕階層に属しており、あるいはパトロンがついていたが、一九世紀になると、産業の発展と社会の大衆化のなかで、科学者という職業および社会階層が成立して、哲学者はエリート養成のために拡張されつつあった大学制度の枠内で、哲学史の教師として生計をたてるほかはなくなった。

 哲学と科学は狭を分かち、哲学を学びたいひとは、自由に思考するのではなく、大学で過去の哲学者たちの思想と概念とを学び、その歴史的系譜を辿らなければならないということになった。それが「キャリア」として学界から認知されるようになった--いまもそうであるが。

宇宙の歴史と歴史学

 進化を肯定していた哲学者たち、スペンサーやベルクソンやプラグマティストたちは、人間精神中心のヘーゲル歴史哲学を批判し、また精神を重視する新カント派の歴史観に反対して、宇宙と生物と人間の歴史の全体像を得ようとした。文明進歩の歴史というより、自然における人類の進化、人類社会の文明の「進化」を論じようとしたのであった。

 結局、人間にとってのものであった「世界史」は、ルネサンスのまえとうしろ、未来と過去に向かって拡張されていったのち、今日では、宇宙全体の諸事象が時間とともに展開してきた普遍的な歴史のなかに包摂されてしまっている。われわれも、いま、そのなかのひとつの瞬間に立ち会っているというようにして、それへと位置づけられる。歴史は、もはや人間の出来事の物語ではなく、直線的時間のうえに並べられる客観的事実の連鎖であるというように、その意味を変えたのである。

 専門科学としての歴史学も、歴史哲学とも歴史主義とも訣別して、一九世紀ころから、諸科学に並ぶ実証科学となるための多様な方法論を構想した。ランケが代表であるが、へーゲルを批判して「世界史学」を唱え、具体的事例から出発して歴史を捉えるべきだとしている。その後、アナール学派など、歴史学者たちは、歴史に価値評価が入り込むのを避けて、専門科学としての歴史学を整備しながら今日にいたっている。

 今日、世界史とは、世界をひとつとみなし、実存主義が主張した個人の独異のプロジェクト(実存主義でいう「投企」)などはあり得ないとして、その世界で起こった膨大な数の客観的事実を記述するために、すべてをクロノロジカルに(時系列にしたがって)並べなおそうとする試みである。とはいえ、何に焦点をあてるべきか、どんな論理が見いだきれるか、どんな意義があるか、どこまで客観的になるかなどについては、多くの議論がある。正しいとされる歴史観もまた歴史のなかにあって、将来は書きなおされるのであるとしたら、むしろどこかで歴史学自体が破綻しているということにはならないのだろうか。

 考えてもみてほしい、歴史にも歴史があるというパラドクシカルな事態を--つねに現在の最終段階の歴史観による歴史が正しい歴史であって、過去の歴史を全部その歴史観で書きなおしていけばすむという話だろうか。歴史学者たちが「現代史」を書くことができないでいるのは、単に係争中のことが多いからではないし、実証性に限界があるからでもない。それは、もしかすると「時代」がなくなってしまったから、そしてまた、時代を定義することのできる「歴史」、ないし超歴史があり得なかったからではないか。要するに、宇宙のはじめから、ありとあらゆることが係争中になってしまっているからではないのか・・・…。

存在したもの

 考えてみてほしい、人類が出現する以前の、宇宙と地球と生物たちが、ただだれも知らなかったけれども、そのようにして存在していたと述べるときの「存在」という言葉の意味。それは、いまのわれわれの経験とどのように「おなじもの」なのか。もっといえば、歴史上の存在者は本当に存在するのか--それはハイデガーが問題視した「事物的存在者」よりも、もっと切実な問題のような気がする。

 たとえば、祖父母が育っていたころの話を聞けば、第二次大戦であれ、高度成長期であれ、社会状況は違うものの、つぎつぎに成り変わっていく〈いま〉が、いまと同様にあったと信じられる。それならば、ずっと時代をさかのぼって、坂本竜馬でも織田信長でも、書物に書いてある歴史上のどんな人物についても、かれらがどう感じ、どう考えたろうと想像することができるだろう。

 だが、先史時代よりもまえ、あるいはだれも人間がいなかった世界での、気の遠くなるような長い時間、単細胞生物や動植物であれ、大地のもろもろの地形であれ、宇宙空間のもろもろの銀河であれ、「それらが存在していた」というときの、「存在する」ということの意味は何であろうか。

 ラッセルが、「宇宙が五分まえにすべての記憶とともに創造されたとしたら……」という問いかけをしている。「記憶も含めて」ということであるのだから、(過去をあったことのように回想できる以上)何も変わることはないのかもしれない、いや、何か馴されているような感じもする。第一に過去の記憶、これはぼんやりしたり思い違いしたりする。第二に現在に遺されたものからの過去の推理、これは状況証拠しかないので蓋然的にとどまる。それらと過去における実際の存在とはおなじものか?--それらは現在の事象とどのょうな関係になっているのであろうか。

 (ハイデガーが勧めるように)存在という概念について考え込むことのないぴとにとっては、答えはどちらでもいいことであろう。それにしても、ラッセルの問いかけのなかには「五分まえ」とある。「では、五分一秒まえはどうなのか」と聞き返すことはできる。ラッセルの問いかけには、前提において、時間が淡々と経っていく確固とした世界の存在が控えている。この信念がなければ、ラッセルの問いかけもひとを驚かすことはできないだろうし、その意味では、この問いかけは最初から破綻しているのである。

 一八世紀まで、西欧では、宇宙は神の創造から六〇〇〇年しか経っていないというのが常識だった。二五年で一世代とすると(たったの)二四〇世代であるから、まだ懐かしいと感じられる程度であろうか。とはいえ、もはや存在しない過去や、われわれのものとは異なった現在について考えるとき、そこにある膨大な量のデータは、はたして現在がこうであって、こうあるほかはなかったとするほど確固としたものなのか。それは、ただわれわれを安心させてくれる、単なる想像や妄想の産物にすぎないということはないのであろうか。
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組織運営体制の設計

『リーダーシップ構造論』より ⇒ 組織は「意思の力」で維持される。「存在の力」が発揮されると、組織は変わる。

同じリーダーとフォロワーの組み合わせであっても、どのようなタスク特性の業務に取り組むのか、またどのような活動と交流のスタイルをとるのかによって発生・発現するリーダーシップの強度が全く異なることについては、これまで解説してきた通りである。

前節でリーダーシップが発生・発現しやすいようなタスク特性を実現するための施策について説したのに続けて、本節では、リーダーシップが発生・発現しやすいようなリーダーとフォロワーの活動と交流のあり方を実現するための組織運営体制について説明する。どのように組織体制を設計し、どのような制度・ルールを制定すればリーダーシップが発生・発現しやすいのか、即ちリーダーシップ促進型の組織体制と運営ルールについて具体的施策を挙げて説明していく。

(1)組織サイズと階層構造

 リーダーシップの発生・発現は、リーダーとフォロワー間のコミュニケーションの豊かさと仕事におけるクリエイティピティースペースの大きさによって左右されるが、第H章第5節で示したように「組織ユニットの人数(組織サイズ)」と、組織全体の「階層構造」は、これら二つのファクターに密接に関係している。

 具体的には組織サイズが小さければ、リーダーとフォロワー間のコミュニケーション量は当然多くなり、豊かな交流が発生しやすくなる。また全体組織として階層が少なければ少ないほど一階層当たりの担当業務の抽象度の範囲、言い換えるならば組織図における〝タテの幅〟か大きくなるため、その担当者の受け持つ業務の創意工夫の範囲は大きくなる。全体組織の階層が少ない方が、そこで仕事をする者が担う業務の抽象度の幅(タテの幅)が拡がり、クリエイティビティースペースは大きくなるのである。

 このようにコミュニケーションの豊かさとクリエイティビティースベースの大きさというリーダーシップの発生・発現を左右する二つのファクターと、組織サイズと階層構造という二つの組織設計マターを突き合わせて考えてみると、基本的には答えはシンプルである。リーダーシップを発生・発現させやすくするためには、「一つひとつの組織ユニットのサイズ(人数)を小さくし、全体組織の階層を少なくすることが有効」なのである。

 ■小サイズ、少階層のジレンマ

  ただし、リーダーシップ型の組織運営を実現するためには組織サイズをより小さくし、階層をより少なくすればそれだけでよいかというと、単純には答えを出すことができない組織設計hの留意点も存在する。組織サイズ、階層構造と、そこで求められるリーダーシップの強度の関係である。

  論点を分かりやすくするために、総人数四〇人からなる組織を仮定して事例的に説明してみよう。

  組織サイズが小さければリーダーとメンバー間にリーダーシップ関係が成立しやすくなり、また同時に階層を少なくした方がリーダーシップ関係の成立に有効であるから階層も極力少なくするという、公式通りの組織設計をまず考えてみよう。組織成員の数を四〇人とすると、一チームの編成を三人という最小ユニットとし、階層構造については最少の二階層、つまり一人のトップと三人編成のチームが一三個という全体組織骨格が考えられる:ケース①(この編成は組織図的には万人のトップと一三個の末端組織ユニットという二階層構造であるが、ポジション数の観点からすると、一人のトップー一三人のチームリーダー--二六人のチームメンバーという三階層という見方もできる)。

  このケース①の場合、ここに示した組織体制はリーダーシップの観点から解釈すると、一体どのような特性を持つ組織であろうか。

  一三個の末端ユニットは三人という少人数の編成であるため、チームリーダーは特別に強力なリーダーシップコアを保有していなくとも、チームメンバーとの間にリーダーシップ関係を発生・発現させやすい。しかしその一方で、トップと一三人のチームリーダーとの間ではトップに余程強力なリーダーシップコアが備わっていなければ、リーダーシップ関係を構築するのが難しいのである。つまり、一つの組織ユニットのサイズを極力小さくして三人としたために総組織ユニット数が多くなってしまったこと、また同時に階層も可能な限り少なくして二階層としたためにトップと末端の組織ユニットを仲介する階層が存在しないために、組織全体を率いる一人のトップに強烈なリーダーシップコアを要求するタイプの組織構造となってしまっているのである。

  つまり、この状態は一三人のチームリーダーについては強いΥリーダーシップコアは必要とされないが、トップ一人にだけは極端に強力なリーダーシップコアが求められる組織構造になっており、組織全体としてリーダーシップ型の組織運営を実現させるための最適な組織構造になっているかというと疑問の残る形態である。極端に強力なリーダーシップコアを持ったトップが存在している場合にはこの形でもよいかもしれないが、そうしたカリスマ的なトップが存在しない場合には、スムーズなリーダーシップ型の組織運営が難しい形態なのである。

  では翻って、チーム編成は極力少人数とする一方で、トップのリーダーシップ上の負担を軽減するために中間階層を設ける組織としたらどうなるか。

  同じ総人数四〇人の組織でも一人のトップの下に三人の部長を置き、またその下に九人の課長を置き、その下の末端組織ユニットを一チーム三人で九個編成する形にすると、階層が先はどの例の二倍の四階層になってしまうがトップも部長も課長も直接の部下の数は三人となる:ケース②。こちらの組織体制であれば、トップは部長に対して、部長は課長に対して、課長は末端チームのチームリーダーに対してリーダーシップを発揮しやすくなり、一見すると組織全体においてスムーズにリーダーシップ型の組織運営を実現することができるように見えるかもしれない。

  しかしこのケース②でもまた別の問題が発生してしまうのである。このケース②で発生・発現するリーダーシップは決して強いものにはならないのである。階層を多くしたために各組織ユニットが担当する業務のクリエイティビティースベースが小さくなり、強いリーダーシップが発生・発現する余地が小さくなってしまっているのである。言い換えるならば、このケース②で実現する組織運営はリーダーシップ型というよりも、むしろマネジメント型の組織運営スタイルになってしまうのである。
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サイレントマジョリティ

OCR作業

 40冊の内、16冊をOCR化。週に40冊の内の1/3をOCR化していてはたまらないです。だけど、引っかかるんです。

サイレントマジョリティ

 欅坂のミュージックステーションでのサイレントマジョリティをネットで見ました。未唯空間での「意志の力」から「存在の力」への移行を正面から歌っている。雰囲気はヒットラーユーゲントみたいだけど。
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