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どこへも連れて行かないだって

どこへも連れて行かないだって

 占いはよかったけど、何もなかった。未唯の相手方の実家のお祭りに行くとか言っていたけど、昨日の夕方、奥さんに聞いたら、一言「行かないよ」だけだった。

 夕食の時に、食べるのに散らかすから、どこへも連れて行かないと言っていた.そんなことが理由なの。
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衝動と不安のもつ意味 心のなかの異性的なもの

『中高年がキレる理由』より 衝動と不安のもつ意味 生きてこなかった「もうひとりの自分」

得体の知れない衝動に駆られて、なぜか不似合いな女性に夢中になる。女遊びをしたり、浮気をしたりするようなタイプではなく、生真面目で、物事を理詰めで考えるタイプの堅物で知られる人が、中年期になって突如として女性に狂う。それも、真面目につきあうような相手ではなく、娼婦のような妖しい魅力を発する相手に夢中になる。これも人生の折り返し点である中年期にありかちなことと言える。

本人は、もちろん本気なのだが、その道にかけては、はるかに上手の女性に手玉に取られているのか周りでみている人にはよくわかる。周囲の人は、あんなバカなことをする人じゃなかったのにと、あまりに意外な展開に驚く。

結局、そのような女性に狂うことによって、自分も家族も苦しむことになり、地道に築いてきたキャリアを失ったり、家庭を失ったりして、人生の坂道を転げ落ちていくこともある。

娼婦的な女性でなくても、いつも冷静沈着なタイプである本人とは正反対の性格で、感情豊かな女性に夢中になったりする。感情というものに慣れ親しんでいないため、その女性か何を思っているのかかわからず振り回される。

中年期の恋というのは、往々にして、このように周囲からみてあまりに意外な相手に夢中になるということになりがちである。

このようなことが起こるのも、人生の後半には、それまでに未開発なままに生きてきた自分の内面を開発することか重要な課題になるからである。自分のなかに眠っている性質、ある意味では意外な側面を開発し、自分の潜在的な性質や能力を現実化していくのか、いわゆる自己実現である。

ユングは、これを個性化の過程と呼ぶが、自分の影を認識することと並んで、心のなかのアニマを認識することも、生き方の偏りを正し、バランスのよい人生にしていくために必要となる。

アニマというのは、男性の無意識のなかの女性像のことである。現実を生き抜くために意識面を理詰めで固め、感情的なものを抑圧していると、無意識のなかには感情豊かなアニマが形成されていく。そのアニマは、意識面の偏りに対して補償的に作用する。つまり、よりバランスの取れた生き方へと導く働きをする。

 「アニマは、男性の心のすべての女性的心理傾向か人格化されたもので、それは漠然とした感じやムード、予見的な勘、非合理的なものへの感受性、個人にたいする愛の能力、自然物への感情、そして--最後に、といっても重要でないわけではないが--無意識との関係などである」(C・G・ユング他、河合隼雄監訳『人間と象徴--無意識の世界[下]』河出書房新社)

男性がある女性と出会ったとたんに一目惚れしてしまい、恋に落ちるとき、そこにはアニマの力が働いている。初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っていたような気持ちになる。不思議と身近に感じる。そして、周囲からみれば恋に狂ったと心配せざるを得ないほどにその女性に夢中になり、恋に溺れていく。

そのような場合、男性は自分の心のなかに潜むアニマを目の前の女性に投影している、つまり自分か求めているものをその女性のなかにみたつもりになってしまうのである。その女性そのものをみているのではない。

 「このように、突然で、情熱的な恋愛としてのアニマの投影は、結婚問題に大きい障害を与え、いわゆる三角関係とそれにともなう困難さをひき出してくる。このような人生劇における解決は、アニマか内的な力であることを認識することによってのみ見いだすことかできる。そのようなもつれを生ぜしめる無意識内の秘密の目的は、その人を発展せしめ、無意識の人格をより統合し、それを実際生活の上にもたらすことによってその人自身の存在を成熟せしめることにある。(中略)アニマが演する、より大切な役割は、男性の心を真の内的価値と調和せしめ、深遠な内的な深みへと導いてゆくことである」(同書)

人生の前半では、感情面を抑えて、理詰めで、ある意味冷徹に生きることが必要だった。そうでないと厳しい職業生活を乗り切ることができなかった。だが、人生の折り返し点を過ぎると、

 「このままでいいんだろうか」

という心の声が聞こえるようになってくる。アニマ的な女性に惹かれるのも、そうした補償的な心の声を象徴するものと言える。

目の前の感情豊かな女性に惹かれるのは、その女性そのものか魅力的だというのではなく、自分のなかの感情的な面をもっと意識面に取り込むときがきたことをほのめかすシグナルと考えることができる。

アニマの投影による突然の恋は、自分が抑圧し、未発達のままに押し込めてきた性質を開発し、よりバランスの取れた大きな人格、安定感のある人格へと発達していく、つまり自己実現の道を歩むきっかけを与えているのである。

ゆえに、その女性とくっつくというよりも、その女性に象徴される自分の感情面を無視せずにもっと大事にして生きるようにすべきなのである。
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南北戦争で北軍だった共和党の地盤がなぜいまは南部なのか?

『いまがわかる 世界史の教科書』より

共和党の南下を生んだ第37代ニクソン大統領

 大統領選挙を迎えると、アメリカは「赤い州」と「青い州」に分裂します。選挙結果の報道で、そのような図を見たことのある方も多いのではないでしょうか? 「赤い州」は保守的な共和党を支持する人々が多い地域であり、「青い州」はリペラルな民主党を支持する人々が多い地域。現在のアメリカでは、だいたい「赤い州」=共和党が南部・中西部などを占め、「青い州」=民主党がニューヨークなどの北部を占めています。

 しかし、これはアメリカ建国以来の構図ではありません。元来は「奴隷解放宣言」で有名なリンカーンが共和党出身だったように、北部が共和党の地盤で、南部が民主党の地盤でした。その構図が入れ替わったのは、リチャード・ニクソン大統領の登場からです。

 ニクソンは1913年、カリフォルニア州に生まれました。大学卒業後、弁護士を経て、共和党の政治家に転身。下院議員、上院議員を経て、53年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領政権の副大統領を務めます。

 1960年に大統領選挙に出馬しますが、民主党のジョン・F・ケネディに敗北。62年にはカリフォルニア州知事選挙に出ますが、これも大差で落選してしまいます。ニクソンが有能であるのはたしかなのですが、アメリカ人が好む人間的魅力や、上流階級出身者特有の華麗さに欠けるのが大きな要因でした。

 しかし、1968年の大統領選挙ではみごとに勝利し、第37代大統領となるのです。ニクソンの勝利を解明するためのキーワードは「ディキシークラット」「南部戦略」「サイレント・マジョリティ」の3つです。

 まず、ディキシークラット。元来、南部の農場主などの権益を擁護する政党だった民主党は、フランクリン・ルーズベルト大統領のとき(第32代、1933~45年)、北部を地盤とするリペラル政党に変貌します。これにより南部の保守的な民主党支持層は、自らの声をあげる術を失ってしまいます。この民主党支持でありながら保守派に属する層がディキシークラットと呼ばれました。ちなみにこれは、「南部(Dixieland)の民主党「Democrat」という意味をもつ造語です。

 そこで南部戦略の登場です。ニクソン陣営は、民主党右派に属する南部の人々を共和党支持に取り込むことができれば勝利は確実とみて、彼らの琴線にふれる選挙戦を展開するのです。

 そして、サイレント・マジョリティ。これは「声なき多数派」という意味です。ここでいう多数派とは、伝統的なアメリカ社会、「古きよきアメリカ」 への回帰を求める人たちであって、日本でいう無党派層とはやや異なります。

 というのも、当時のアメリカでは、革新的立場から政府や社会への糾弾が声高に叫ばれていました。中心となったのは新左翼反戦運動家、公民権運動家、フェミニストといった人々。実際、この時期にはマイノリティや貧困層優遇のため、税金から莫大な補助金が使われました。またヒッピーのように、アメリカの伝統的生活様式から好んで逸脱する人も増えました。

 南部ばかりでなく、全アメリカの潜在的な保守層がこの状況を嫌悪していました。ここで登場したのがニクソンでした。ニクソンはこうした保守層をサイレントーマジョリティと呼んで支持を訴えかけたのです。

 保守層の多くは、勤勉でコツコツと努力を重ねて現在の地位を築いた人たちです。二クソンも裕福とはいえない家庭に生まれ、努力一筋でやってきました。つまり、サイレント・マジョリティの代弁者としては最適だったのです。

道徳が争点になる大統領選挙に終わりはあるか?

 ところで、ニクソンの大統領就任は、これ以後の「文化戦争」のきっかけとなりました。これは文化や道徳をめぐる価値観が政治争点となることで、その苛烈さから「第二の南北戦争」とも呼ばれるものです。

 文化や道徳が選挙の争点になるのは違和感があります。しかし、これはニクソン陣営が保守層に訴えるため、政策のほかに文化や道徳も争点とした結果、生じたのです。保守の玖和党が「人に中絶反対、同性婚反対、マリファナ合法化など言語道断・・・・・・」と張すれば、民主党は対抗上、反対のことを主張するという具合に、文化や道徳をめぐる両党の論争が、大統領選挙の定番となったのです。

 事実、1972年の大統領選挙では、ニクソンの対抗馬となった民主党のジョージ・マクガバンが、マリファナ合法化容認や人工中絶に対する姿勢を問われて劣勢を強いられています。また、第42代大統領だった民主党出身のクリントンは、共和党のレーガン大統領(第40代)が禁止した診療所での中絶相談を解禁しました。

 共和党のジョージ・W・ブッシュ (第43代大統領)と、民主党のアル・ゴアが戦った2000年の大統領選挙では、同性愛者の問題や人工中絶に対して、前者は反対か曖昧、後者はどちらかといえば賛成という態度をとっていました。

 ちなみに同性婚問題は、2015年6月に、最高裁がアメリカ全土で容認する判断を下しました。ですから今後は争点になることはないでしょう。しかし、ほかの案件は大統領選挙があるかぎり蒸し返されるはずです。

 ニクソンの当選が生み出した文化戦争。表層的にはみえづらいこの戦争が、今後もアメリカのゆくえを決める一因であることは間違いないようです。

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学問の軌跡を読む 数学

『東大教授が新入生にすすめる本』より ⇒ ブルバキの『数学史』3500円は段ボール工場のアルバイトを三日行って、購入した。

1.前史(一九〇〇-一九五〇)

 日本数学における本格的研究成果は、高木類体論として知られる『相対アーベル数体について』(一九二〇)を嚆矢とし、やや間を置いて一九三六年から岡潔が多変数関数論の独創的連作を断続的に発表する。しかしながら、第二次世界大戦勃発以前に得られた数学的成果は、本質的には高木・岡に尽きるのであって、日本数学が全体として国際レベルに到達するのは太平洋戦争期のことであった(そうなるのには皮肉な条件が、あるいは作用したかもしれない。つまり、開戦による海外文献情報の途絶のため、数学者が自己の研究に集中せざるをえなくなったという事情である)。

 一九四一年、大阪大学の角谷静内が「不動点定理」を発表した。経済やゲームにおける一般均衡の存在の根拠として、あまりにも有名な結果である。翌四二年には統計局に勤務する伊藤清が確率微分方程式理論の和文速報を発表。後に「伊藤の公式」に発展し、さらに金融工学に応用されて、伊藤は「ウォール街で最も有名な日本人」と称されることになる。戦争末期の四四年には東京大学の小平邦彦がフィールズ賞受賞へとつながる「調和解析理論」の速報を出版した。まさしく太平洋戦争期こそ、日本の数学研究が飛躍的発展を開始した時期だったといえる。

2.アメリカの影(一九五一-一九六五)

 戦争が終結すると、日本の数学研究、より正確に言って日本人による数学研究は、にわかに百花繚乱の様相を呈すこととなるが、しばらくの間、その中心地は日本国内というより、むしろ米国であった。

 東京大学出版会が発足した五一年時点の日本から見れば、米国はまるで別天地だったろう。よりよい生活と研究環境を求めて、俊秀たちは続々と米国に渡り長く留まることとなった。いわゆる頭脳流出である。数学においては四八年の角谷静夫に始まり、小平邦彦、岩渾健吉、伊藤清、佐武一郎、広中平祐、志村五郎と続く。高度成長期に入ると頭脳流出ぱ次第に止むことになるものの、その後も有力大学の数学教室では、修士修了をもって採用された助手が、通常二年間、時には三年間、ハーバード大学、シカゴ大学など米国研究機関に客員研究員・助手として在籍し、もしくはブルシエとしてフランスに留学するのが慣行となっていた。七〇年代後半からは、米仏に加えてドイツや英国に行く者も増加する。しかし戦後を通じて最も重要な留学先といえば、プリンストンの高等研究所および大学であり、目本の有力大学から選ばれた英才たちの聖地となった。戦後日本の数学は、一時期プリンストン大学を中心に展開していたのである。

 プリンストン大学に在籍した日本数学者の代表として、小平邦彦の場合を見てみょう。一九四九年八月、三四歳の小平は、横浜港から米国へ旅立つ。文理大学物理教室の同僚、朝永振一郎も同船である。戦中に構想を得た調和解析論は、速報こそ帝国学士院紀要から出版したものの、紙不足の日本では長大な本論文を出版できない。そこで米国の雑誌に投稿することにし、渡米する角谷に原稿を託した。この原稿を一読驚嘆したワイルが、小平を高等研究所に招聘したのである。シカゴ大学で朝永と別れてプリンストン大学に到着したのはいいが、当惑したのは英会話に全然ついていけないことだった。みんなか笑っているから冗談を言っているらしいか、何についての話題か見当もつかない、という始末である。それでも、黒板を使って数学の講義やセミナー発表を始めれば問題なかった。数学の中身さえきちんとしていれば、会話能力など大した問題ではないのである。当時小平の連続講義に出席していた数学者の回想によると、小平の声は小さくて、最前列に陣取らないかぎりまず聞き取れない。そのかわり黒板には大きい文字を書き、それを書き写すと完璧なレクチャーノートができたそうである。

 高等研究所には米国のみならず、フランス、ドイツ、英国から、綺羅星のごとき研究者が集まっていた。小平はそこでフランス産の新手法であるコホモロジー理論を知る。この方法と自らが開発した解析的手法との出会いによって、小平は『複素多様体論』という沃野に巨輪の花々を咲かせることになった。まず博士論文の発展として「消滅定理」および「埋め込み定理」という画期的成果を挙げ、五四年フィールズ賞を受賞する。「複素構造の変形理論」の長大な連作がこれに続き、さらに「複素解析曲面の分類理論」関連論文十篇に至る。これらの仕事は代数幾何学、大域解析学の相貌を変えてしまったのみならず、超弦理論など数理物理にも影響をおよぼしている。小平は結局四九年から六七年までの一八年間米国に留まり、三巻一六〇〇ページの論文集に収められる膨大な業績を残した。

3.新しい数学スタイル(一九六〇-一九七五)

 数学大国として戦後登場したのは、米国とソ連、そしてフランスである。中東欧からユダヤ系など多数の数学者が亡命し定住した米国が、その経済力とあいまって数学研究の中心地となったことは、自然である。またソ連も、米国に対抗する一勢力として独自の学派を形成した。政治弾圧を受けにくい数学は、反体制的知識人が逃げ道として選んだ分野でもあった。そして第三の極はフランスであり、現代数学のスタイルを規定したという点で、フランスは米ソ以上の影響をふるった。新しいスタイルを主導したのは匿名数学者集団ブルバキであった。

 ポアンカレを代表とする戦前のフランスの数学は、明晰を旨としつつ直感をも重んじた。旧世代に反発した気鋭の数学者たちが、ドイツ数学の感化を受け、厳格な論理に基づく数学体系を書きあげようと結成したのが、ブルバキである。一一巻六八冊からなる『数学原論』で彼らか打出したのは、対象そのものよりも、それらの間の相互の関係のあり方、すなわち構造が基本であるという思想だった。その端的表現として、具体的数式ぱ最小限にとどめ、構造を表現する図式が多用される。叙述のスタイルとしては、論理的一貫性を重んじ、定義・命題・証明は能う限り一般化するかわりに、問題の意義・背景や自然科学への応用は論じない。よく言えばユニバーサルかつ明晰判明、悪く言えば抽象的かつ無味乾燥である。物理学者など数学を応用する立場の者からは使いにくいと評判か悪いけれども、ブルバキは代数や幾何の記述を決定的に変えた。今日、大学学部初年次数学の標準コースは微積分と線形代数から成る。しかし戦前の数学教育には「線形代数」というものはなかった。線形構造の重要性を発見し強調したのはブルバキである。数学科の「集合・位相」という必修科目があるが、距離を捨象した抽象的位相空間なども、ブルバキが広めたものである。

 ブルバキの数学は六〇年代から七〇年代前半、世界を席巻し、六八年からは『原論』の邦訳が順次刊行される。ちょうど筆者が東京大学に入学したころで、集合論や位相空間論、代数など、何冊かを読んだ記憶がある。日本でも構造の考え方を取り入れた教科書が現れた。その代表格が現在も定番となっている斎藤正彦『線型代数入門』(東京大学出版会)である。今あらためてこの本を読み返してみると、当時完成したばかりだったり、群理論への入門書という性格もはっきり見えて、六〇年代の匂いが漂う本である。

 ブルバキのスタイルをさらに先鋭かつ大規模に突き詰めたのは無国籍ユダヤ系数学者グロタンディークである。彼はブルバキが拠った集合論・位相空間論・代数学をさらに一般化して圏論・トポス理論・コホモロジー理論に替え、代数幾何の巨大な体系を築きあげた。その機能性と汎用性のゆえに、グロタンディークの用語は現代代数幾何の標準言語となっている。
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