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仕事と労働 アーレントの指摘

『仕事の人類学』より 仕事への人類学的アプローチ 仕事と仕事でないもの 活動の多義性、連続性 広義の労働、狭義の労働 ⇒ ハンナ・アーレントが出現

仕事と労働

 これまでの記述では仕事と労働という二つの語をとりわけ区別せずに使ってきたが、その併存自体が、こうした仕事に対する評価の序列化や変遷ともかかわっている。

 ハンナ・アーレントは、ヨーロッパの諸言語において「仕事」と「労働」に相当する語彙には、同義語でありながら異なる語源を持つ二種類の言葉がそのまま残っていると指摘する(アーレント 一九九四)。たとえば英語にはworkとlaborという語があり、日本語ではそれぞれ仕事と労働と訳し分けられることが多い。アーレントによれば、そのうち労働(英語ではlabor、ギリシア語ではponos、フランス語ではtravailなど)を意味する語だけが「苦痛・困難」といった意味合いを持つ。しかも、その語源はいわゆる「生みの苦しみ」に限らず、「孤独」「拷問」などさまざまである(アーレント)。

 こうした「仕事」と「労働」の区別を重視したアーレントは、前者が自然に働きかけ、そこから素材を取り出して加工し、物としての耐久性を備えた使用対象物を作り出す行為であるのに対し、後者は人間の生命を維持するために必要な消費財を生む反復行為であると述べる。アーレントによれば、近代世界において、仕事は労働の性格を帯び、「生命の必要物を確保し、それを豊富に提供する」労働が特権化したという。そして労働に直接かかわらないすべての活動は。

 「遊び」「趣味」とみなされることになった(アーレント ー九九四)。

 この状況は、社会思想史家の今村仁司が、古代ギリシアや中世ヨーロッパ、さらに南太平洋社会の民族誌的事例を振り返りつつ、近代的労働観の批判的検討を試みるなかで「労働主義の過剰展開」と呼んだものと重なる。たとえ言葉の上で「仕事」「労働」(そして「行為」)という区別が残っていても、実際には「労働だけが突出し」、「あらゆる活動が労働のなかに融解し」てきた。そしてすべての労働の生産物は商品化され、消費の対象となる。この結果、アーレントの用法に従えば「仕事」の成果であったはずの使用対象物も、もはやその永続性、耐久性を失い、次々と新しいものに置き換えられ、「いわば貪り食って」しまわれるようなものとなる(アーレント ー九九四)。もはや労働者と消費者の間に区別はない。このように労働の価値が、回りまわって、何をどれだけ消費できるかという能力によって測られるような事態は、二一世紀に入ってますます加速しているといえるだろう。

 もはや仕事や労働は、その生産品よりも労働力という量で測られ、その報酬で評価されるようになっている。それゆえ、報酬の高い仕事をすることが高い社会的評価を得るようになるとともに、報酬のある仕事こそが「本当の」仕事とされ、家事のように稼ぎにつながらない仕事は次第に「見えなく」なっていった。さらには、他のさまざまな活動と比べても労働や仕事の比重は高まり、私たちの生活全体の中でより支配的な概念の一つとして析出されるようになっていったと考えられるのである。

 しかしすでに素描したように、こうした労働中心的な見方は、世界的に見ると、あらゆる社会の実態を反映しているとはいいがたい。このような労働観が支配的である私たちの社会においてさえ、実状はそう単純ではない。冒頭で述べたように、家事もボランティア活動も無償とはいえ、その営みの当事者にとってはりっぱな仕事と考えられる場合も少なくない。だからこそ、私たちはあまりにも労働中心主義に染まってしまった仕事観を今も絶えず問い返そうとしているのである。

 そこで本書では、仕事や労働という営為を通文化的により広く捕捉するための語彙として、とくに現代日本では経済報酬と結びついて理解されがちな「労働」(n狭義の労働)ではなく、「仕事」という語をメインタイトルに掲げた。ただしこの語用は、アーレントや今村が提示するような「仕事」と「労働」の区別を直接に踏襲するものではない。

 そもそも仕事と労働の二分論的な語法は、労働中心主義によって生まれた構図である。近代における労働の概念や表象の系譜的な研究を行ったドミニク・メーダは、いかなる労働論にも、その現状批判とともに、労働を社会的な絆や自己実現の場として回復・解放しようとする「労働のユートピア図式への信仰」があると指摘する。そうしたユートピア論こそ労働中心主義の最たるものであり、仕事という語も、単純に現状のアンチとして使用するならば同じ轍を踏むことになってしまう。

 また、近代的労働観と一口にいっても、英語を含むいずれかのヨーロッパ言語と日本語では、語彙のニュアンスは異なるし、ましてや人類学が扱ってきた多様な社会の言語体系において、いわゆる「仕事」と「労働」にあたる概念が常に峻別されているとも限らない。ヨーロッパ言語の中にも、イタリアのように、日本語に訳した場合の「労働」のほうが「仕事」よりも包括的意味を持ち、日常的に多用される場合もある。

 サーリンズも指摘しているように、仕事や労働という語にこだわるのは、労働中心主義的な社会に住む研究者の側であろう。したがって個々の論考においては、いたずらに用語の統一をすることはせず、それぞれの社会における仕事や労働などの語を、関連する語彙も含め、その文脈などに配慮しながら用いることにする。新たな仕事・労働論を開拓していくためには、そうした個々具体的で詳細な議論の蓄積こそが必要と考えるからである。

人類学というアプローチ

 さて、以上の議論をもとに、本書のめざすところをまとめておこう。それは、世界のさまざまな地域に暮らす人々の生活世界を対象に、当事者の経験や視点、いわば働くことのリアリティに寄り添いながら、私たち現代日本人が持つ仕事概念からはこぼれ落ちがちな諸活動にも目を向け、そうした活動が人々の生活総体や社会全体にとって持つ意味を理解することである。さらにその作業を通じて、現代世界における労働中心主義の問題点を、他分野とは異なる角度から照射することを志す。

 本書が提示する人類学的アプローチの利点とは、一つには、これまで世界各地で調査研究をしてきた成果をふまえ、多種多様な働き方についての事例を豊富に有していることにある。それらの比較検討が、仕事研究全般にとって有益な示唆となると私たちは考えるが、人類学的アプローチの意義はそれだけではない。

 人類学のフィールドワークは、参与観察という言葉も使われているように、人々の日常にできるだけ密着しながら、長期にわたって調査する手法である。その際、研究者の中心的な関心は何であれ、それ以外の側面についても積極的に目を向け、総合的な調査研究を行っていくという特徴がある。そしてそうした現場での、当事者との直接的なかかわりは、研究者自らが当然視していた概念や枠組みをあらためて意識化し、問い直していくきっかけにもなる。この手法が、それぞれの社会の働き方、仕事のあり方について、狭義の労働概念にとらわれない考察を進めていくために有効なことはいうまでもない。

 ただし、人類学そのものについていえば、仕事や労働をめぐるトピックは、主に経済人類学と呼ばれる分野で取り上げられてきた一方で、それ自体が主要な研究テーマとはなりえていない問題もある。もちろん、人類学的調査の成果である民族誌の記述において、多様な社会に生きる人々の仕事ぶりは必須項目の一つではあった。しかしその多くは、その社会の生業として、あるいは、それを通して親族や地域社会などの社会関係を明らかにするものとして考察の対象となってきたのであり、それらを真正面から仕事や労働という問題として扱うことはむしろ稀だったといえる。

 たしかに近年は、工場やプランテーション、さらにはオフィスなどでの就労状況や労働者たちが直面する問題に焦点を絞った民族誌が増え、仕事や労働は人類学の重要なトピックになりつつぁぴ。ことに貧困や搾取といった問題への関心に基づく研究はかなりの蓄積があり、移民・移動労働という観点からの研究も増えている。ただ、これらの研究群の場合も、主たる関心が個別の労働の現場に向けられる傾向が強いため、個々の働く人々がそれぞれの生活総体の中で、他にも存在しているはずのさまざまなタイプの仕事をどう考え、それにどう取り組んでいるかという視点からの分析は必ずしも多くない。

 そしてすでに述べたように、現在、賃金労働は世界のいたるところに浸透するとともに、さらに変容し、どの地域においても働く場をめぐる状況は複雑化の度合いを深めている。とくに労働の不安定性・流動性の高まりは深刻であり、安定的な労働を軸としてきた「労働社会」は、今や「リスク社会」化しているともいわれている。他方、こうした状況に対処するため、ウルリヒ・ベックが「市民労働」という語で表現しているようなボランティア活動や社会福祉分野での活動も増え、この側面からも仕事や労働という概念の再編が始まっている。こうした変化についての考察や議論は、これまで社会学や経済学を中心に重ねられてきた。しかし人類学も、その総合的なアプローチを生かし、変化し続ける現実により積極的に寄り添っていくならば、これら現代社会における仕事・労働の実態と概念の検討といった作業に大きな貢献をしていくことができるにちがいない。
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ヒュパティアの死は古代の終焉を象徴

『星の名前のはじまり』より アラブ世界に伝承されたギリシア天文学 ⇒ 思いがけず、大好きなヒュパティアが出てきた。本は発見!

ヘレニズム時代から古代ローマヘ

 私たちが現在よく使う言葉には、アルカリ、アルコール、コットン(綿:クトゥン、英語の cotton)、シャーベット、キャッスル(城:カスル、英語の castle、キャット(猫:キット、英語の cat)などアラビア語に由来する多くの単語があります。そうしたアラビア語由来の言葉が世界各地にある背景には、七世紀に誕生した「イスラーム」の拡大とともにアラビア語が急速に多くの地域で使われていったことが大きな要因としてあります。

 私たちが、現在使っている星の名前にも、ベガ(こと座α星)、リゲル(オリオン座β星)、ベテルギウス(オリオン座α星)、アルタイル(わし座α星)、アルデバラン(おうし座a星)、フォーマルハウト(みなみのうお座a星)、デネブ(はくちょう座a星)などの一等星の名前をはじめ、数多くの星の名前が、アラビア語に起源があります。それでは、どのような経緯で、アラビア語に起源を持つ星の名前を、現在の我われも使うようになっていったのでしょうか。その背景について考えていきたいと思います。

 紀元前四世紀にギリシア北方のマケドニアの出身であったアレクサンドロス大王(紀元前三五六~前三二三年)の東方遠征の結果、東は西北インドから西はギリシアにいたる広大な地域を含む一大帝国が出現しました。アレクサンドロス大王が紀元前三二三年に急死すると、部下の将軍たちによって後継者(ディアドコイ)争いが起こり、帝国は分割されました。

 古代メソポタミアを含む広大な領域を支配したセレウコス朝シリアと古代エジプトの領域を支配したプトレマイオス朝エジプトの二国においては、ヘレニズム時代になっても、天文学は大いに発達していました。とくにプトレマイオス朝エジプトの王都であったアレクサンドリアは、当時の天文学を含む学芸の中心都市でした。また、エジプトのデンデラー(トホル神殿にある「天体図」は古代エジプト固有の星座や古代メソポタミアで考案された黄道一二宮の星座などが描かれたものですが、この天体図もプトレマイオス朝時代末期に作られたものです。

 また、セレウコス朝シリアにおいても、バビロンを中心として、天体観測が継続して行われており、観測記録を記した多くの粘土板文書が残されています。楔形文字で粘土板に刻された天文観測記録には、日食や月食、惑星や彗星などの記録が含まれていました。

 このように、古代メソポタミア地域に残されている楔形粘土板文書の天文記録には、古代のシュメール、アッカド、バビロニアやアッシリアなどのものばかりではなく、数多くのアケメネス((カマーニシュ)朝ペルシアや、セレウコス朝シリア時代のものが存在しています。

 紀元前三〇年に、プトレマイオス朝最後の女王であるクレオパトラ七世(在位‥紀元前五一~前三〇年)が、自殺したことで、プトレマイオス朝エジプトが滅亡し、エジプトはローマ帝国の支配下に置かれるようになります。プトレマイオス朝エジプトの滅亡後も、ローマ帝国支配の下で、天文学や地理学は引き続き盛んに研究されていました。そうした研究をしていた人物の代表がクラウディオス・プトレマイオス(紀元後九〇年ごろ~一六八年ごろ)です。彼の著書「天文学大全」あるいは「数学集大成」とよばれた一三巻の大著は、「アルマゲスト」(天文学大全)の名で知られています。

 クラウディオス・プトレマイオスと同時代の医学の研究者にガレイノス(紀元後一二九~二〇一年ごろ)がいます。小アジアのペルガモンの出身で、解剖学を学び、その後、アレクサンドリアで九年間、医学一般の知識を広く学んだ人物です。その後、ローマに四年滞在後、ペルガモンにもどりました。ガレイノスは、数多くの書物をあらわしています。その中には、解剖学や生理学、病理学、基礎医学ばかりでなく、数学、哲学などの分野も含まれていました。

 クラウディオス・プトレマイオスやガレイノスらに代表されるように、ローマ帝国支配下においてもギリシア人(ギリシア植民地の出身者やヘレニズム時代のもとでギリシア語を母国語として使用していた人びと)は、ヘレニズム時代以来の科学・技術研究を継続していたことが判明しています。

古代ギリシア科学の終焉

 ローマ帝国は、紀元後三九五年になって東西に分裂し、エジプトは東ローマ(ビザンツ)帝国の領域に組みこまれていきました。そうした時期にアレクサンドリアで活躍していた人物にヒュパティア(紀元後三七〇?~四一五年)がいます。彼女は、有名なギリシアの天文学者で数学者、哲学者でアレクサンドリア大図書館の最後の館長でもあったテオン(紀元後三三五~四〇五年ごろ)の娘でした。

 テオンは、紀元前三〇〇年ごろのプトレマイオス一世時代にアレクサンドリアで活躍した、有名な幾何学者エウクレイデス(ユークリッド)の「原論」や紀元後二世紀のローマ支配時代のクラウディオス・プトレマイオスが著した「天文学大全(アルマゲスト)」などの著作に注釈を加えています。

 彼の娘であるヒュパティアは、ギリシア哲学や天文学、数学に精通していましたが、彼女はキリスト教徒ではなく異教徒でした。非常に優秀で美しいヒュパティアは、紀元後四一五年にアレクサンドリアでキリスト教徒の暴漢に襲われ虐殺されました。ヒュパティアの死は、古代ギリシア科学の終わりを示すできごとであるばかりではなく、古代の終焉を象徴する事件でした。

 古代の人物がギリシア人なのか、あるいはローマ人なのかを厳密に区別することはむずかしいことです。一般に、その人物が著した書物がギリシア語であれば、ギリシア人と表現し、ラテン語であればローマ人として表現され、出身地や居住している場所で判断したものではありませんでした。そのため、ギリシア人であっても必ずしもギリシアの都市国家が繁栄した時代の人物を指すばかりではなく、ヘレニズム時代やローマ帝国が支配していた時代の人びとも含まれています。

 一般に、古代ギリシアと古代ローマとの関係は、古代ローマは、古代ギリシアの継承者であると考えられていました。たしかに、古代ローマの彫刻などの芸術活動は、古代ギリシア彫刻を模倣したものです。しかし、哲学や科学の分野では、必ずしも古代ローマは、古代ギリシアを継承していませんでした。その大きな要因として、キリスト教の影響があります。

 紀元前後、ローマ帝国が地中海全域をその支配下に組み入れようとしていたちょうど同じ時期に、イスラエルのイェルサレムで誕生したキリスト教は、イエスの死後、弟子である使徒たちによってローマの地域内に広がっていきました。初めはローマ帝国の皇帝たちによってキリスト教は弾圧、禁止され、数多くのキリスト教徒たちが虐殺されました。紀元後三世紀になり、デキウス帝(在位:二四九~二五一年)やディオクレティアヌス帝(在位:二八四圭二〇〇年)による大規模なキリスト教徒への迫害は、よく知られています。

 しかしながら、三一三年には、コンスタンティヌス帝(在位:三〇六上二三七年)によって、キリスト教は公認され、ついには三九二年になってテオドシウス帝(在位‥三七九~三九五年)のもとでキリスト教はローマ帝国の国教となりました。こうしたローマ帝国におけるキリスト教の普及は、皮肉なことに古代ギリシア哲学や科学思想の衰退を招くことになっていきました。

 キリスト教教会は、古代の宗教を異端であるとして、すべて一掃するように積極的に運動していきました。その結果、古代ギリシアの哲学や科学思想は、異教のものとして排斥されていったのです。キリスト教の教えのもとでは、古代ギリシア人の世界観や、真理や法則を求めていく科学的な考え方は否定されたのです。

 ヘレニズム時代以降に発展した古代ギリシアの科学思想を否定したことで、より古い時代の稚拙な段階にもどることになりました。キリスト教会によって支配されたヨーロッパでは、古代口ーマ帝国の時代とその後の中世において、キリスト教的倫理観や世界観、道徳などの影響のために、科学哲学・思想はヘレニズム以前の停滞した稚拙な水準のまま残されました。
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1年で聖書を読破 最初と最期の説明

『1年で聖書を読破する。』より

マタイの福音書(マタイによる福音書)

 今週は、新約聖書の最初にある「マタイの福音書」を毎日二章読みます。今週と来週の二週間(十四日間)で全二十八章をすべて読み終えましよう。

 聖書は、旧約聖書と新約聖書を合わせて『聖書』と言います。筆者はプロテスタント教会の牧師です。どうぞよろしく。カトリック教会でもプロテスタント教会でも『聖書』と言えば旧約聖書と新約聖書を合わせています。カトリック教会の聖書のほうが少し分量が多いですが、気にするほどのものではなく、ほとんど同じと思ってください。

 旧約聖書はイエス・キリスト以前のことが書かれています。新約聖書はイエス・キリスト以降のことが書かれています。両書の基本的な違いは、それだけです。カトリック教会とプロテスタント教会の違いは、この本では扱いません。それはずっと後に出てきたキリスト教会の内部の問題ですから。

 キリスト教というのは、旧約聖書に書いてある神がイエスという人になって、この世に遣わされてきたことを信じる宗教です。それに対して、『神が人になって現れるはずがない。もしそうならイエスという『人』を拝む偶像信仰になってしまう゜それは絶対にありえない」というのがユダヤ教です。ですから、ユダヤ教は、旧約聖書だけが経典で、「神を信じるが、イエスを信じない」という立場です。この手引書は、キリスト教の本ですから、まず新約聖書のイエス・キリストのことを少し読んで知ったうえで、旧約聖書を順に最初から終わりまで全部読み、再び新約聖書の残りの部分にもどり聖書を完読します。

 新約聖書の最初には、福音書が四つ並んでいます。四つともユダヤ人の男性の名前が付いた「読み切り本」です。「マタイの福音書」は、マタイという名の人が書き残してくれたイエス・キリストに関する記録です。マタイはごく普通の人で、今で言えばサラリーマンか公務員といったところです。ユダヤ教徒でしたが、イエスを信じてユダヤ教イエス派の人になりました。このユダヤ教イエス派のことを今では「キリスト教」というわけですが、まったく同じ神を信じていますから、ユダヤ教とキリスト教は兄弟あるいは親子のような関係と言えます。

 今から約二千年前のことで、現在の日本のように苗字(家の名)はありませんでしたから、著者は「マタイ」という名前だけで呼ばれていた若い男性のユダヤ教徒でした。イエスという名もごく普通の名前でした。日本でいえば、「いちろう」とか「あきら」と言ったところです。ユダヤ人というのは、非常に古くはヘブル人(ヘブライ人)と呼ばれましたので、言語は「ヘブル語」(ヘブライ語)と言います。彼らは途中で「イスラエル人」と呼ばれるようになり、さらに後に「ユダヤ人」と呼ばれるようにもなりました。マタイもイエスもヘブル人であり、イスラエル人であり、ユダヤ人です。どの呼び方も通用し、失礼に当たりません。

 イエス・キリストが生まれたのは、大ローマ帝国の時代で、その帝国の中では小さなユダヤ地方と呼ばれた所です。今のイスラエル国のある地域の一部です。日本の四国くらいの大きさです。住人のほとんどがユダヤ教徒というユダヤ人社会でした。イエスもユダヤ教徒でした。しかし、イエスは、突然、神が人になったような活動を始めました。マタイはイエスの弟子になり、イエスが死んでから「イエスこそ本当に神から遣わされた神の子だった」と信じて、イエスのことを書きました。それがこの福音書です。

 「キリスト」という言葉の意味は日本人にはわかりにくいのですが、神から遣わされて、神の代理としての働きをする人というような意味です。キリスト教徒が「キリスト」という言葉を使う場合、それは「神でありながら人になって遣わされた神の子」という意味です。マタイはユダヤ教を信じていた自分と同じユダヤ人たちに、イエスがキリストであることを伝えたかったので、この福音書を書きました。ですからユダヤ教の信者が読めば、賛成・反対は別にして、実によくわかる内容ですが、ユダヤ人以外の人にとっては、わかりにくい部分がたくさんあります。日本人にとっては、わかりにくいはずです。今後あなたがユダヤ教徒の経典である旧約聖書がわかるようになれば、「マタイの福音書」も聖書全体もよくわかるようになります。楽しみにしていてください。

 マタイは当然自分の民族の言葉ヘブル語で福音書を書けばよかったのですが、その時代、ローマ帝国内ではギリシャ語が今の英語以上に通用していた国際語でした。マタイはギリシャ語を書くことができなかったかもしれませんが、だれかに自分の言うことをギリシャ語で書いてもらった可能性もあります。新約聖書はすべてギリシャ語で書かれています。それをだれかが書き写し、書き写したものをまただれかが書き写し……、途中で十五世紀にドイツ人グーテンベルクによって印刷技術が発明されて、現在あなたの手にあるというわけです。お‥きびしの技術は、正確でしたから、誤写は非常に少ないので、「マタイの福音書」は、マタイが書いたそのままを翻訳したものと信じていただいて大丈夫です。

 「マタイの福音書」の冒頭には、旧約聖沓に登場する歴史上の人物の系図が出てきますが、あなたにとっては初めての名前ですから、目で追うだけにしてください。先祖の系図を示すことによって、イエス・キリストは先祖がはっきりした「人間」になってこの世に来たのだ、と言おうとしています。次に「バプテスマのヨハネ」という人が出てきます。人々に「悔い改めよ、悔い改めよ」と説いて洗礼(バプテスマ)を授けていた、日本で言えば、みすぼらしい僧服をまといながらも、人々から尊敬されていたユダヤ教の高僧のような人と思ってください。イエスの誕生に関する箇所は短いです。三十歳くらいになって突然人間にはできない奇跡を行い、人間では考えられないような説教を始めました。無学の人イエスが、突然、孔子や孟子や弘法大師のような話を始めたわけですから、親兄弟も世間の人も驚いたことでしょう。このような張りつめた書き方が、最後の二八章まで続きます。わからない言葉や内容があっても、少しも気にしないで読み進めてください。

ヨハネの黙示録

 ようやく最後の週になりました。「ヨハネの黙示録」の残りを一日二章の割ご読み、『聖書』の完読を達成しましよう。

 ヨハネが見た人類の未来の歴史の幻は、第一五章以下も続きます。ヨハネは「七つの鉢」の幻を見ます。それぞれの鉢を傾けて中のものを注ぐと、前にも読んだような天変地異の恐ろしい現象が起こります。神との戦いに備えて、悪魔も自分の配下の悪霊どもを(ルマゲドンという所に集結させます。

 次に、突然、宝石で身を飾った女が現れます(一七章)。この派手な女はローマ皇帝かその政治を表しているようです。次に、この帝国(バビロンとありますが実はローマ帝国を指しているように思われます)が滅ぼされる幻が現れます。この幻は、ヨハネの時代にクリスチャンを迫害していたローマ帝国の滅亡を預言しているようです。

 第一九章では、再び、天の美しい礼拝のようすが出現します。

 次に、白い馬に乗った騎手が現れます。これはキリストの再臨を指しているようです。悪魔(サタン)は千年間、底なしの淵に投げ込まれます。悪魔のいなくなった地上は、千年間、神を信じる者や迫害のために殉教した人々が生き返ってきて、この地上にすばらしい国をつくります。これをある人々は「千年王国」と呼んでいます。

 「ヨハネの黙示録」の終わりのほうは、幻のテンポが早くなります。千年後に、悪魔が閉じ込められていた所から出てきて、神との最後の戦いに入るのですが、偉大な神の前に悪魔の力は微弱なもので、悪魔と手下は天から下ってきた火で、あっさり焼き滅ぼされてしまいます。悪魔の最期は実にあっけないものです。そして、最後の審判が神によってなされます。

 そして、ついに現在のこの地上は終末を迎え、新しい天地が出現してきます。そこは神と人とが共に住む国で、地上で迫害を受けた人々がキリストによって涙をぬぐわれます。

 最後の幻は、七つの鉢を持っていた御使いの一人によってもたらされました。ヨハネは地上のエルサレムではなく、まったく新しい天のエルサレム、すなわち「神の都」を見せてもらいます。そこには太陽はないのですが、主と小羊(キリスト)が中央におられて、光を発しておられるので、夜も昼もなく、影ができないほど常に明るいのです。その都には一つの川が流れていて、川のほとりにはいのちの木があって毎月実をならせます。「創世記」に書かれている「エデンの園」がよみがえってくるように感じられます。

 御使いは、最後に、ヨハネに「(これらの幻は)信ずべきものであり、真実なのです」と言って終わります。聖書は「初めに、神が天と地を創造した」という言葉で始まり、アダムの罪が人類に及び、選ばれたイスラエル民族が罪の歴史を続け、その国は亡びました。しかし、神はイエス・キリストを人類に遣わし、そのいのちによって(血によって)罪をあがないました。しかし、現実の人間は、キリストを信じることなく、かえってクリスチャンを迫害しています。迫害されてパトモス島に流刑の身となっているヨハネに、神は一つの幻を見せました。それが「ヨハネの黙示録」の内容でした。

 「ヨハネの黙示録」のメッセージは、終末を迎えるまでの間の人類に対する神の恐ろしい裁きを伝えようとするものではなく、信じる者への最終的な救いを明らかにするものであることがおわかりいただけたと思います。「ヨハネよ、迫害はまだしばらく続くけれど、あなたに、これから後、神がどのようにすべてを終わらせるかを見せましょう。勇気を出しなさい」と言っているような幻だったわけです。

 この「ヨハネの黙示録」が人類に与えている偉大な貢献は、神が人類の歴史を導いていることを教えているところです。人類の未来に対して悲観的にならないで、希望を持つことを教えています。どれほど悪魔が猛威を振るうような時代が来ても、悪魔の手におびえるのではなく、戦い続け、正義を求めていかなければならないことを教えています。なぜなら神はキリストの復活によって、悪魔の最大の武器である「死」をすでに力のないものにして、悪魔に対して勝利しているから、これから後に起こることはもはや恐れるに足りません。しかも「ヨハネの黙示録」に示されているように、最終的な神の勝利に向かって歴史は進んでいるのですから、最悪の事態に陥っても恐れるに足りないことを伝えようとしています。第二次世界大戦という暗黒の時代でも、世界中でキリスト教徒は独裁者たちから迫害を受け、幟いました。その背後には、このような「ヨハネの黙示録」から来る「終末的な希望」があったからだと。dわれます。現代でも匹界の多くの政治家が、国際紛争、気候変動、IT革命など、未曽有の問題に対して、希望を持ってチャレンジしようとする力をこの預言から受けていると言えます。

 神が天地を創造された以前には、どのような世界があったのでしょうか。もちろんそれはわかりません。そこには永遠の過去という神の世界があったはずです。では、キリストが再臨したならば、その後には人類にどのような世界が待っているのでしょうか。そこには永遠の未来という神の世界があることでしょう。それが神からヨハネに啓示されたことでした。聖書はこの物質世界が永遠の昔から存在していたのではなく、天地創造のときに、つまり神の目から見ればつい最近に造られた有限なものに過ぎないと教えています。形あるものは、いつか必ず終わりを迎えます。そして、その後、永遠の未来に続く神の国が来ます。それは愛に満ちた国です。なぜならば、神はキリストの十字架によって示された愛をその本性としておられるからです。
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欅坂と乃木坂の違い

握手会というコンテンツ

 全国握手会3秒、個別握手会5秒。そのためにCDを何枚も買って、幕張まで行く、名古屋まで行く、京都へ行く。連続の日程だから、泊まりになる。

欅坂と乃木坂の違い

 欅坂が受けている。大人たちの思惑から外れたところにいる。それが乃木坂。3年でメンバーが分化し、コミュニティを作り上げる。そのコミュニティが動き出す。

 そこでのメディアの使い方も自分たちの創造そのもの。46時間TVのコンテンツを自前でできること、腎瘻の中継というコンテンツを見いだしたこと。そして、生田のフィンランド民謡。

「いつかは死ぬ」というCM

 「いつかはクラウン」よりも確実なのは「いつかは死ぬ」。それでクルマに対応しないといけない。
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