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出来事としての歴史/記述としての歴史

ドイツ語にだけは、ギリシア語起源の“Historie"という言葉のほかに、同じ「歴史」を意味する“Geschichte”という言葉が存在します。後者の「ゲシヒテ」のほうはもともと「生起する」を意味するゲルマン系の動詞“geschehen”から派生した言葉で「生起した出来事」を表します。それに対して「ヒストーリエ」の方は、その出自からも「出来事の記述」を意味します。もちろん、現在ではどちらの言葉もこれら二つの意味を共にもっていますが、歴史哲学の上では両者を区別し、ゲシヒテは「出来事としての歴史」を、ヒストーリエは「記述としての歴史」を表すものとして対比的に用いられています。これは「客観的出来事」と「主観的記述」の対比とも言い換えることができますが、両者の区別を立てる際に必ずと言ってよいほど引かれるのは、ヘーゲルの『歴史哲学講義』の中の一節です。読み上げてみますので、昨日お渡しした参考資料をご覧ください。ドイツ語で歴史というと、そこには客観的な面と主観的な面が統一されていて、「歴史」は「なされたこと」を意味するとともに、「なされたことの物語」をも意味します。二つの意味が統一されていることは、たんに外面的で偶然のむすびつきといってすますわけにはいかない。そこには、歴史物語が本来の歴史的な行為や事件と同時にあらわれることが示唆されていて、しかも、たしかに、歴史物語と歴史とをともどもうみだす同一の内面的基礎が存在するのです。(へーゲル『歴史哲学講義』(上) 長谷川宏訳、岩波文庫、一九九四年)

ここに述べられている「なされたこと」と「なされたことの物語」との区別に言及しながら、三木清は『歴史哲学』(一九三二年)の中で、それを「存在としての歴史」と「ロゴスとしての歴史」の二重性という形で捉え直しています。さらに三木は、これら両者の根底に「事実としての歴史」という第三のカテゴリーを置き、「行為」と「もの」の統一体としての「事実」に定位しながら歴史の基礎経験を解明しようと試みています。これはきわめて興味深い問題提起なのですが、それに立ち入ることは三木の歴史哲学そのものを論ずることになりますので、ここではみなさんの注意を喚起しておくだけにとどめます。

さて、ヘーゲルにせよ三木清にせよ、歴史を考察するに当たって、「出来事としての歴史」と「記述としての歴史」の区別が根本的であることから出発しているのですが、この両者の関係は一筋縄でいくような単純なものではありません。さすがにへーゲルは、「歴史」という言葉の中に二つの意味が統一されていることに目をつけ、歴史的出来事と歴史記述が「同時に」現れるものであり、それらを生み出す「同一の内面的基礎」が存在することを指摘しています。その内面的基礎をヘーゲルは「国家ができて法律が意識されるときはじめて、明瞭な行為が、さらには、行為にかんする明瞭な意識が、あらわれ、ここに、歴史を保存しようとする能力があたえられ、保存の必要も感じられるようになります」(同前)というように、「国家の登場」に求めているわけですが、ここでは歴史的出来事と歴史記述との関係を別の角度から、すなわち認識論的観点から考えてみたいと思います。

当然のことですが、「歴史的出来事」は「歴史記述」に時間的に先行します。ある出来事が生起したからこそ、われわれはそれを後から記述することができるわけです。その意味で、歴史記述は常に「事後的」ないしは「回顧的」という性格を免れることはできません。これを歴史的出来事の歴史記述に対する存在論的先行性と呼んでおきましょう。ここまでは誰でも納得のいくことです。しかし、歴史的出来事と歴史記述との関係は、そう簡単なものではなく、ときにパラドキシカルな様相を呈します。と言いますのも、「事後的」ということは、記述の対象である出来事がすでに現実には「存在しない」ということを意味しているからです。ですから、歴史記述は目の前で起こっている知覚可能な出来事をリアルタイムで「記述」したり「描写」したりすることとは、その性格を根本的に異にしています。他方で「事後的」という制約がありますので、歴史記述は想像をほしいままにして対象や出来事を描写できるフィクションとはやはり性格を異にしています。つまり、ノンフィクション(知覚描写)ともフィクション(文学的虚構)とも異なる第三のジャンルを形作っているところに、歴史記述の特異性があり、それが「探究」の手続きを必要とする理由でもあるのです。

そのことをもう少し詳しく見るために、画家がアトリエで肖像画を描いている場面を思い浮かべてみましょう。もちろん肖像画ですから、描かれた絵はできるだけ本人と似ていることが要求されます。もし本人がモデルとして目の前に坐っていれば、画家はその対象を忠実に描写することを心がけるでしょう。また、われわれは完成した絵を本人と見比べて、その良し悪しを「客観的」に判定することができます。他方、光源氏やシャーロック・ホームズなど虚構の人物の肖像画ならば、小説の挿絵を描くときのように、画家はかなり自由に想像力を羽ばたかせることができますし、本人と似ているかどうかはほとんど問題にはなりません。源氏物語を素材にした『千年の恋』という映画がありましたが、光源氏の役は宝塚出身の女優が演じておりました。つまり、フィクションの場合は、事実の正確な描写よりは、芸術的効果が優先されるわけです。

それに対して、画家が死んだ父親の肖像画を描くような場合はどうでしょうか。むろん、モデルにしたくとも本人はすでに存在しておりません。おそらく画家は、自分の記憶の中にある生前の父親の姿を思い浮かべ、残された写真などを手がかりにし、さらには家族の証言などをもとにしながら、できるだけ本物に近づくように肖像画を描き進めていくことでしょう。写真映りが良い人も悪い人もいるでしょうし、また若い頃の写真しか残されていない場合もありますので、写真といえども決定的証拠とはなりえません。たとえデスマスクが残されていたとしても、それは「死後」の顔であって「生前」の顔ではありません。また、自分の記憶と家族の印象とが微妙に食い違ったり、ときには矛盾することもあるでしょう。ですから画家は、こうした証拠や証言を突き合わせ、それらを総合的に判断しながら絵筆を動かしていく必要があります。この一筋縄ではいかないプロセスこそが、まさに歴史的事実を確定する「探究」の営みにほかなりません。

以上のことから、「探究」としての歴史記述が、いわば「モデルのいない肖像画」を描くことに類比的であることがおわかりになると思います。その意味で、歴史記述は証拠や証言をもとにして歴史的出来事を「復元」する作業にほかなりません。しかし、この「復元」は、時計を分解して復元するような作業とは類を異にしています。そもそも原物がもはや存在しないのですから、歴史記述は「オリジナルなき復元」という奇妙な性格をもつことになります。だからと言って歴史記述は、焼失した城郭のレプリカを建造するような「復元」作業とも類を異にしています。レプリカはオリジナルとは別物であり、それの「模造品」にすぎません。ところが、歴史記述を通じてわれわれが知るのは、当然ながら歴史的出来事のレプリカではなく、あくまでも歴史的出来事そのもの、すなわちオリジナルにほかならないのです。
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人間が解き明かした宇宙の歴史

『14歳からの宇宙論』より 宇宙は「無」から生まれた!? 量子重力理論が語る宇宙の始まり 「無から宇宙を創る」というアイデア 宇宙は「果てのない場所」で生まれた?

では、第1章から第4章までの話を整理しつつ、現代宇宙論が語る宇宙の歴史をたどってみましょう。

まず、最初の宇宙は、量子論の無の状態において、生成と消滅をくり返していたと思われます。それがある時、トンネル効果によって、素粒子よりもはるかに小さな存在として、この世にポロッと出現します。これが宇宙の誕生の瞬間です。それは今からおよそ一三八億年前のことだと考えられています。

生まれてすぐに、宇宙は真空の子不ルギーによって一瞬のうちに倍々ゲームのような加速膨張(インフレーション膨張)を行います。真空の于不ルギーは空間そのものが持つエネルギーなので、空間が広がれば于不ルギーもみるみる増えます。こうして宇宙の内部に膨大なエネルギーが生まれ、それが星や私たちの体など全物質を生み出すもととなったのです。

インフレーション膨張は真空の相転移の終了とともに終わり、同時に真空のエネルギーが熱エネルギーに変わります。宇宙は超高温に熱せられて、小さな火の玉宇宙になったのです。これがビッグバンです。インフレーションが終わって火の玉になった宇宙の大きさは、せいぜい数十センチメートル程度だったと想像されています。インフレーションを起こす前の宇宙は素粒子よりもはるかに小さなサイズだったので、それが一瞬にして数十センチメートルにまで大きくなるというのは、とてつもない急膨張なのです。(※インフレーション膨張終了後の宇宙の温度は、モデルによって大きく異なります。私やグースが提唱したオリジナルのモデルでは、一〇の二八乗Kという値を示しましたが、その後に提唱された改良型モデルなどではそれより低い温度と考えるのが一般的です。)

急膨張を終えた超高温のミニ宇宙は、その後は減速膨張に転じます。宇宙が誕生して一万分の一秒後には陽子や中性子が作られ、三分後には陽子や中性子が結合してヘリウムなどの軽い元素の原子核が作られます。いわば「元素の三分クッキング」ですね。ちなみに炭素や酸素、窒素、鉄など、私たちの体を作るおもな元素は、恒星が核融合反応によって燃える際に燃えかすとして作られます。また、鉄よりも重い元素(金、銀、ウランなど)は、超新星爆発の際に爆発的に作られます。

さらに時間が経って三八万年くらいすると、膨張を続けた宇宙の大きさは現在の一〇〇〇分の一ほどになり、温度は約三〇〇〇Kに下がっています。すると、それまで自由に飛び回っていた電子が原子核に引きつけられて、原子を構成します。これによって、それまで宇宙空間を飛び回る電子に進路をじゃまされていた光が、まっすぐに進めるようになります(宇宙の晴れ上がり)。この直進できるようになった光が、宇宙背景放射のもととなった光であり、現在の宇宙では波長を一〇〇〇倍に引き伸ばされて、三Kの電波となって宇宙を満たしているのです。

ここまでのことを本書で説明しましたが、このあとの宇宙の歴史にも簡単にふれましょう。宇宙の中では、水素を主成分とした薄いガスが重力によって集まり、次第に密度と温度を上げていきます。温度が一〇〇〇万度くらいになると、核融合反応が起きて恒星が誕生します。最初の星が生まれたのは、宇宙が誕生して約二億年後のことだと考えられています。

広大な宇宙の片隅で、太陽と地球、そして太陽系の惑星たちが生まれたのは、今から約四六億年前のことです。そして約四〇億年前、地球上に最初の原始生命が生まれます。生命は何度も絶滅の危機にみまわれながら、長い時間をかけて進化し、ついに今から約五〇〇万年前、人類の祖先が現れます。その人類が約四〇〇年前に近代科学を生み出し、一〇〇年前に一般相対性理論を手にします。それからわずかI〇〇年で、私たちは宇宙一三八億年の歴史のあらすじを描き出すことに成功したのです。

一般相対性理論の生みの親・アインシュタインは、次のような言葉を残しました。

「宇宙についてもっとも理解できないのは、宇宙が理解できるということだ」

宇宙一三八億年の歴史の果てに生まれた人間の、たった一四〇〇グラム程度の脳が、広大な宇宙の全容と歴史を理解できるのは、まさに不思議であり、奇跡的なことであり、すばらしいことだと思います。もちろん、おごり高ぶってはいけませんが、ここは素直に、私たち人間のすばらしさを賞賛してよいのではないでしょうか。
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二一世紀アフリカの人口予測

『アフリカの老人』より 〈老いの力〉の未来を左右する少子高齢化 ⇒ 今のアフリカから将来を懸念する発想にすごさを感じる

二〇一〇年時点で、世界人口七〇億人のうち一〇億人(一四パーセント)がアフリカに居住する。国連の予測ではその九〇年後、二一○○年の世界の人口はおよそ一〇〇億人、そのうち三五億人がアフリカに居住するとされる。世界全体の人口増加率(九〇年間に一・四倍)と比較すると、アフリカにおける増加の速度(三・五倍)は際立つ。

早瀬はアフリカにおける人口急増の背景を次のように説明する。アジアやラテンアメリカ諸国の多くが、多産多死から多産少死を経て、現在では多くが少産少死となり人口転換をほぼ達成したのに対し、アフリカ諸国は未だ人口転換過程の初期から中期の段階でもっとも増加率が高まる多産少死の状況にあることが人口急増の直接的な要因である。

ここにある人口転換とは、多産多死から多産少死の段階を経て少産少死に至るプロセスのことである。その最初の転換(多死から少死への転換)には、疫学転換が関わっている。疫学転換とは感染症による死亡が減少し、非感染症(生活習慣病など)による死亡が増加するという、死亡原因の転換のことである。日本では一九五〇年頃を境に感染症で死ぬ人の割合が低下し、かわりに癌や循環器系疾患といった非感染症が死因別死亡割合の上位に現れてきた。これが日本の疫学転換であるが、その他の面、たとえば栄養の面からも全体的に健康状態が改善されたこと(健康転換)、また医療技術や制度が整備されたことなどにより、平均寿命が急激に伸びた。すなわち「長寿化」である。

だが、長寿化と人口高齢化は異なる概念である。人口高齢化は、人口に占める高齢者の割合の増加のことであるが、日本の場合は、長寿化とあわせて少子化も一気に進んだことから、急速に高齢化が進んだと言える。

現在のアフリカは、疫学転換が進んだ一方で人口転換が進まないという段階にある。アフリカの場合はもともと、他の地域と比べて出生率、死亡率いずれも数値が高かったことがあり、出生率、死亡率ともに一九七〇年代以降四〇年間の低下幅が大きい。しかしながら、二〇一三年の普通死亡率が千人あたり一一、普通出生率が三七・八という数字が示すのは、現在進行中の急激な人口増加である。

では今世紀中にその人口の構成はどう変わるのであろうか。年齢層別人口の推移予測によれば、二〇一〇年から二一OO年に向かって時代が下るにつれて長寿化が進むこと、そして生産年齢人口の膨らみかたが急激であることが確実視される。東アフリカでは一九五〇年に六七〇〇万人だった人口が二〇〇〇年には二億六千万人に急激に増えた。それが二〇五〇年には八億七千万人、二一○○年には一五億五千万人と、その人口増加に歯止めがかからない。

六五歳以上の高齢者の比率は二〇三〇年頃までは三パーセント台で推移するが、それ以降急激に高くなり、二I○○年には平均して一五パーセントになる。いうまでもなく高齢化の進行は国によって異なる。たとえば二I○○年のエチオピアでは東アフリカの平均を大きく上回り、六五歳以上の人口比率は二三パーセントにのぼると試算される。これは今世紀末のエチオピアが今の日本と同じ「超高齢社会」になることを意味する。

ここで東アフリカ諸国のなかから、エチオピアとケニアに焦点を合わせて詳しく見てみよう。

一九五〇年から二一○○年までのエチオピアとケニアの人ロピラミッドを見ると、裾野が広がる「富士山型」から始まり、時代が下るにつれて壷型あるいはペンシル型に変わっていくことがはっきりと見てとれる。これは、若い世代の人口が増えなくなり、高齢者の人口比率が高まることを意味している。だが、この人ロピラミッドが示してくれるのはあくまでも国ごとの様子であり、それぞれの国内における地域差などは分からない。

人口動態や保健指標を確認するためには、まず各国における人口保健サーペイが参照されることが多い。これは少数のサンプル調査をもとにそれぞれの国における人口の増減や健康状況の推移を明らかにするもので、日本の国勢調査のようには精度が高くないものの、全般的な傾向を知るのには役に立つ。残念ながら現在の人口保健サーベイには高齢者に関する数値が掲載されていないため、これを見ても高齢者の分布の地域差は分からない。だが、合計特殊出生率二人の女性が生涯に生む子どもの数の平均)を見れば地域ごとの人口の増え方や保健状況が間接的にではあれ見えてくるだろう。

エチオピアとケニアにおける合計特殊出生率と女性たちの教育歴および経済階層の関係を表Iに示した。農村部に先行して都市部から出生率が下がりはじめること、そして、女性の教育歴と経済階層が高くなるほど妊娠と出産の回数が低下することが、ここで確認できる。これらは人々の保健状況に関してはよく指摘される傾向である。

一般には出生率の低下は女性たちへの教育の普及に影響されると言われている。村落部における現時点での出生率の数値は高いままであるものの、じつはこれでも低下している。アフリカの農村部ではファミリープランニングの普及が進んでいて、教育歴だけが出生率の低下をもたらすわけではない。

先進国の例からは、子どもの死亡率の低下と出生率の低下に関連があることが示唆される。エチオピアの乳児死亡率(生後一年以内の死亡率、千分)は、二〇〇〇年サーベイでは九七であったのが、二〇一一年には五九に半減している。だが一九六〇年の日本における乳児死亡率が約三〇であったことと比べると、この数値ではまだ高い。

合計特殊出生率を州ごとに図示すると図2のようになる。全般的な傾向としては、首都において数値が最も低く、エチオピアの首都アディスアベバに至っては「一・五」と、にわかには信じがたい数値を示している。これは教育や保健・医療の状況が首都において高いということと関連しているだろう。州単位のデータから言えることは、少子高齢化は都市部から始まり、時間をおいて地方においても波及するだろうということである。

注目すべきは、エチオピアのソマリ州において高い数値が出ていることと、ケニアにおいてソマリ民族が多く居住する北東州がもっとも高い値を示していることだ。イスラーム信者の多いソマリ民族の地域において出生率が高いということをどのように理解すればよいだろうか。宗教と人口の関わりについて林は、ナイジェリアにおける州ごとの乳幼児死亡率の違いが、キリスト教とイスラームとの人口割合と関わりを持つことを示している。だが同時に、インドやインドネシアとの比較をしてみると、宗教の教義そのものの影響力もさることながら、教育水準や貧困水準との関連において考えるべきであると述べている。図2ではソマリ民族が国境を越えて高い出生率を示しているように見える。これがソマリ的な規範によるものであるか、あるいは、イスラームという宗教の影響によるものなのか、それとも遠隔地ゆえの保健・医療の浸透の難しさを示しているのかという点については検討が必要である。
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終わりの始まりを感じている

入力されていないのは

 また、入力されていない日々。大きなことが起こる前のけだるさかもしれない。

終わりの始まりを感じている

 熊本は福島とは異なる感覚です。始まりみたいな感じで、まだ、騒ぐには早すぎる。

 メーカーも今までの生産システムは維持できなくなるでしょう。効率は追求できない。氷河期が始まるときにネアンデルタール人は生き残ることが目的であった。大きな動物が居なくなったときに、ネアンデルタール人は絶滅した。小動物相手の原人類が生き残ったとおなじことが起こっていく。

 それが売ることから使うことへの移行を示唆している。
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