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OCR化した14冊

『福井地域学』

 非製造業

 地域間競争の中での商業・サービス業(特に観光業に絞って)

 域内需要に恵まれた建設業

 転換期の原子力産業

『3.11 震災は日本を変えたのか』

 地方自治体の再活用

 窓は開かれた

 地方自治体における変化のナラティブ

 結論--学んだ教訓とつかんだ機会

『メディアは社会を変えるのか』

 マスメディアは世論にいかなる影響を及ぽすのか

 メディアは貧困を再生産するのか

『歴史のなかの消費者』

 甘味と帝国--帝国日本における砂糖消費

 はじめに

 明治時代以前の砂糖とその消費の基盤

 明治時代の砂糖消費の発展

 帝国主義と砂糖

 二〇世紀初期の菓子ブーム

 菓子と戦争

 戦後の砂糖消費ブーム

『ナミビアを知るための53章』

 携帯電話の普及 ★ナミビアの通信事情★

 ナミビアの出版事情 ★新しい流れで活気づく出版業界★

 感染症と戦う医療現場 ★HIV/エイズの蔓延と経済格差★

 ドンキーカートに乗って ★ナミビアの道路事情と農村部の交通★

『アイスランド・グリーンランド・北極を知るための65章』

 アイスランドの都市 ★レイキャヴィークとアークレイリ★

 人々の生活を貧困から守るための仕組み ★アイスランドの住民と働く人への給付★

 アイスランドの教育制度 ★人それぞれの学生生活★

 植村さんの生き方に学ぶ ★迷わず進め正直の道★

『東大教授が新入生にすすめる本』

 学問の軌跡を読む 数学

 前史(一九〇〇-一九五〇)

 アメリカの影(一九五一-一九六五)

 新しい数学スタイル(一九六〇-一九七五)

 代数解析の発展(一九五九-一九九〇)

 国際交流の発展(一九五五-一九九〇)

『いまがわかる 世界史の教科書』

 熱狂を生んだ「アラブの春」が残したものは何だったのか?

 ギリシャ危機はなぜ欧州全体を揺るがしたのか?

 南北戦争で北軍だった共和党の地盤がなぜいまは南部なのか?

『中高年がキレる理由』

 衝動と不安のもつ意味

 衝動的行動の意味

 中年期の抵抗

 衝動に身を任せる

 二重人格の症例が示唆するもの

 生きてこなかった「もうひとりの自分」

 心のなかの異性的なもの

 淋しい人生になってきたと気づくとき

 中年期におけるアイデンティティの問い直し

 時代に取り残される不安

 成熟より若さに価値を置く、いまの日本社会

 「若さ」と「老い」の葛藤

 中高年男性の自殺の多さ

『世界の名前』

 原風景を抱く フィンランド語

 父祖のルーツを物語る名字 アイルランド

 さすが、職人の国 ドイツ

 名は歴史を表す ギリシア

『デジタル環境と図書館の未来』

 情報技術の動向と新たな動き--公共図書館

 図書館を介した利用者サービスヘの情報技術の影響

『新西洋経済史講義』

 ギリシャの民主制とローマの共和制

 ローマ帝国と古代ゲルマン社会

 ナチス史

 アメリカの時代

『国際法』

 国際刑事法

『禅の教室』

 今夜、坐禅をする前に

 比呂美は出家中?

 非僧非俗という生き方

 詩人は私度僧である

 引っ越しモデルと穴掘りモデル

 一度すべて落とし、拾って使う

 つまり坐禅とは
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つまり坐禅とは

『禅の教室』より 今夜、坐禅をする前に

比呂美 坐禅をやるたびに、小さな出家、プチ自殺を繰り返している感じなんですね。

一照 そう、そう。ぶっちゃけ坐禅が出家ですよ。僕が日本語に翻訳した講話集の中で鈴木俊隆老師は「坐禅はトイレに行くようなものだ」と言っている。あなたかたはいろいろたくさん食べてもトイレに行かなかったら病気になるでしょうって。うんこしてすっきりするようなものだという感じ。

比呂美 えっ、坐禅が?

一照 そういうニュアンスですね。The Zen of Going to the Rest Room という章にそういうことが書いてある。

比呂美 すごく生理的な快感で説明しちゃうんだ。いいですねえ。

一照 比呂美さんは、昔、出産とは大便であるみたいなこと書いていたじゃない。胎児はうんちだ、だったかな。伊藤比呂美は出産を大便にたとえたか、鈴木老師は坐禅を大便にたとえた(笑)。

比呂美 坐禅は、うんこである……?

一照 いや、坐禅は出てくる方の「うんこ」じゃなくて「うんこをすること」だよ。それは違うでしょ。

比呂美 全然違うわね(笑)。じゃあ、坐禅とは、結局、うんこをすることだった、と。

一照 そう。頭の中にいっぱい溜まって詰まっている思考というウンチの排泄、脳のクレンジングでもあるってことじゃないかな。坐禅のはたらきって、awakening(目覚め)、cleansing(浄化)、growing(成長・成熟)の少なくとも三つかあると思うんですよ。カルマというのは、要するにうんこだよ。ずっと溜め込んだもの、あるいは手にいっぱい握りしめたものをいったん手放す。それをもったままでは他のものを掴めないからいったん放して下に置く。

比呂美 そのクレンジング、浄化ですかね、すごく感じたんですよ。以前に坐禅したときに、温泉に入ったみたいな感じというのか、それだった。でも目覚めとか成長かあったわけじゃなくて、だって私、その後も悩んで生臭いままだしね、ただあの一瞬、ああさっぱりしたっていう気持ちだけかあった。

一照 やはり必要性のあることか、まず起こるんじゃないかな(笑)。というか、実際は目覚めも成長も同時に起きていたんだけれど、その時は浄化か二番意識の上にのぼってきて気がっきやすかったということでしょう、

比呂美 そうかも。でも、すごく幸せで、気持ちよかったんですよ。

一照 坐禅というとどうも目覚めだけか強調されている感じですよね。でも目覚めたらそれで終わりかというと、そんなことはないんです。人間だから常に浄化か必要だし、やはり成長、成熟もしていかないと。だってシ^ダ1ルタは、悟ってブッダになってからも四〇年、たゆまず修行を続けた人だよ。死ぬときの遺言も「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」でしたからね。まさにそのように日々修行に生きた人だったんでしょうね。それを手本にしようというのか仏教徒だと思うけど。

比呂美 シッダールタだけじゃなくてブッダ全般に呼びかけるとき、「目覚めた人よ」というじゃないですか。

一照 そう、目覚めたら、定義によって僕らでもブ″ダだから。目覚めて、ブ″ダになった。でもそれで終わりじゃなくてブッダになってから本当の修行か始まって、いよいよ本格的な浄化と成長・成熟か起きるんですよ。

比呂美 じゃあ私たちはブッダに呼びかけるときに「目覚めて、浄化して、いまなお成長を続ける人よ」とか言わなくちゃいけないわけですね。

一照 そうだね。ブッダも常に途上の人ですよ。ブSsダがますますブッダになっていく。ブッダが最終目的なんじゃなくて、ブ″ダになって初めてホソトの目覚めた生き方が始まるわけでしょう。与えられた生をブ^ダとして精いっぱい生きている人ですよ。その道は僕にも比呂美さんにも誰にでも開かれている。そのひとつか坐禅なんです。道元さんは「仏道の正門」と言ってます。そこから堂々と入りましょう。

比呂美 うん。私も出家するのはもう諦めたけれど、坐禅はこれからも続げてみようと思います。

一照 坐禅したら、即出家しているんですよ。

比呂美 そうでしたね。坐禅とは、出家することであり、人間をやめることである。

一照 でもなんだか過激だな。伊藤比呂美か言うならいいけど、僕は怖くて言えない(笑)。

比呂美 あ、そこで人に責任を押しつける?

一照 僕が言うとしたら、「一番純粋に仏教をするんだったら、坐禅をどうぞ」ということだね。

比呂美 シンプルですね、すごく。

一照 僕のやっている仏教塾のキーワードは「仏教を学ぶ」ではなくて「仏教する」なんです。「Let's Do It」で、仏教は身心をフルに使って実地にするものなんですよ。身心を調える正しい理屈を知って、正しい調え方を稽古しようということなんです。だから仏教を知りたかったら、坐禅がもっとも直接的だし、自分を調えたかったら、坐禅か最適なんですよ。

比呂美 まずは坐ってみると。

一照 そう、まず坐禅に身を置いて、それを感じて、そこで起こることを深く考えていく。坐禅はその都度新しい自分に会いに行くようなものだから、「こういう坐禅にならないと失敗だ」とか、「こういう坐禅をしたから良かった」と先入観をもたないほうかいい。うまくいかないのもいい経験だし、うまくいくのもいい経験。みんな自分に出会う糧になる。それに、自分か意識できる範囲の坐禅なんて、坐禅という無限大の氷山の一角よりももっと小さいことなんですよ。坐禅の全体像は絶対に僕らには見えない。だって、見るという働きがすでに坐禅なんだから。右手か右手自身をつかめないように、坐禅は坐禅を見ることかできない。だから何か起きても心配しなくてもいい。起きたことは起きたこととしてそれで完結。文句を言う筋合いはない。

比呂美 すごいですね。ものすごく適当(笑)。

一照 こんなおおらかな話は坐禅以外じゃありえないでしょ。だから出来不出来はともかく一定の時間「坐禅した」という、そのことか一番大事で尊いことなんです。

比呂美 うーむ、納得です。まだまだ聞きたいことがたくさんあるけど、今回はここまで。長い時間、ほんとにありがとうございました。これからも対話をつづけていきたいです。

一照 いえ、こちらこそ。偉そうなことばかり言っちゃって恥ずかしい限りです。ここだけの話にしといてください。

比呂美 ははは、本になるんですけど(笑)。
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諸国の共通利益を害する犯罪

『国際法』より 国際刑事法 ⇒ 個人と超国家との関係

諸国の共通利益を害する犯罪に対する刑事管轄権の拡大と処罰

 これまで述べてきたような犯罪行為に関する国際法の規則は、基本的に国内秩序を害するような行為が国際性を持つ場合に対応するためのものであった。しかし、犯罪行為の中には、一国の国内秩序を害するにとどまらず、国際社会全体、あるいは複数の関係国の社会に影響を与えるものがある。そのような犯罪行為の訴追や処罰を確保し、防止するために、国際法が規則を持つことが求められるようになっている。

 国際法が個人の犯罪行為に関する規則を設ける場合、諸国の共通利益を害する犯罪と個人の国際犯罪の2つの類型がある。この2つの区別は、国際法の規律のあり方によるものである。諸国の共通利益を害する犯罪については、犯罪行為の定義は国際法によるが、その訴追や処罰は各国の国内法に委ねられている。必要な場合は、犯罪の行為地国以外の国に訴追や処罰の権限が認められる。1960年代以降は、条約によってこのような犯罪行為についての制度が作られる例が増えている。

海賊、奴隷取引、麻薬取引

 伝統的な国際法で、諸国の共通利益を害する犯罪と考えられたのは、海賊、奴隷取引、麻薬取引であった。これらの行為は、特定の国家の国内秩序を害するだけでなく、国際社会全体の秩序を害する行為と考えられたのである。

 これらのうち、海賊については、これを人類共通の敵とみなす国際法が伝統的に確立している。公海条約や国連海洋法条約でも、公海上、あるいはいずれの国家の管轄権にも属さない領域で行われた海賊行為について、世界のすべての国が拿捕、訴追、処罰の権利を持つとし、普遍主義に基づく管轄権の行使が認められている(公海条約19条、国連海洋法条約100条~107条)。ただし、今日では、国連海洋法条約が定義する海賊行為ではカバーできないタイプの海上の暴力行為が見られるようになっており、それらの行為への対応には国際的な協力が不可欠といえる。

 奴隷取引と麻薬、向精神薬の取引については、海賊行為とは異な、慣習国際法上確立した原則として、普遍主義が妥当すると考えられているわけではない。しかし、奴隷取引については、1815年のウィーン会議の宣言で奴隷売買を禁止すべきであるとされて以来、さまざまな条約が奴隷売買を禁止する規定を置くようになった。

 1926年の国際奴隷条約では、奴隷制度廃止のための国際連盟の監督が規定されており、締約国はあらゆる形態の奴隷制の完全撤廃と奴隷売買の防止を約束している。こうした動きは第2次大戦後、いっそう強くなり、1949年に「人身売買及び売春搾取禁止条約」が採択され、それ以降も、債務の担保としての人の支配や女性、子供の人身売買を禁止するための条約制度が拡充されている。また海洋法の分野でも、旗国に奴隷貿易の防止と処罰に関する義務を課している(公海条約13条、国連海洋法条約99条)。

 麻薬、向精神薬については、20世紀初め以降、その生産と取引を規制する努力が行われてきた。特に第2次大戦以降は、国連を中心として、麻薬単一条約(1961年)や麻薬・向精神薬国連条約(1988年)などが締結され、薬物の生産と取引を規制するための国際的な制度が設けられ、各締約国にもこれに関連する国内法制度の強化が義務とされている。国連海洋法条約108条では、公海上の船舶での麻薬取引の防止のための国際協力義務が規定されている。

 諸国の共通利益を害する犯罪に関する条約の多様化

 諸国の共通利益を害する犯罪に関する条約の最初の例は、1960年代以降しばしば起こったハイジャックをきっかけに締結されたハイジャックや航空機に対する不法な行為を防止し、訴追や処罰を確実にするための条約である。

 ハイジャックに関連する条約以降、諸国の共通利益を害する犯罪は多様化の一途をたどっている。国家代表等に対する犯罪防止条約(1973年)、人質をとる行為に関する国際条約(1979年)、核物質の防護に関する条約(1980年)、拷同等禁止条約(1984年)、空港での暴力行為に関する議定書(1988年)、海洋航行の安全に対する不法な行為の防止に関する条約(1988年)、大陸棚に所在する固定プラットフオームの安全に対する不法な行為の防止に関する議定書(1988年)、国連要員及び関連要員の安全に関する条約(1994年)、テロリストによる爆弾使用の防止に関する国際条約(1997年)、テロリズムに対する資金供与の防止に関する国際条約(1999年)、欧州評議会が採択したサイバー犯罪に関する条約(2001年)、核によるテロリズムの行為の防止に関する国際条約(2005年)などの条約は、特定の行為を諸国の共通利益を害する犯罪とし、その訴追や処罰、防止の確保のために締結された。

 これらの条約には以下のような共通点がある。第1に、国際法によって犯罪行為を定義すること、第2に、締約国にそのような犯罪行為の訴追や処罰を行うための国内法の整備義務を課すこと、第3に、刑事法の属地的な適用を緩和し、犯罪行為の訴追や処罰を行う権限を行為地以外の国家にも拡大すること、第4に、被疑者が存在する領域国に対し、「引渡しか訴追か(aut dedere aut judicare)」の義務を課し、被疑者の所在国が当該容疑者を恣意的に保護することを防止していること、第5に、条約で定義されるような犯罪を政治犯罪とみなさないことあるいは引渡犯罪とみなすこと、すなわち、不引渡しの対象となる犯罪としないことなどが国家の義務とされている。

 テロリズムと諸国の共通利益を害する犯罪現在の国際社会の共通の関心事項となっている問題の1つにテロリズムの防止とテロリストの訴追や処罰の確保がある。国連ではテロリズムを包括的に防止するための条約が策定されている。しかし、テロリズム問題の性質や背景の複雑さのためにこれはいまだ実現しておらず、現状ではテロリズムに関連する代表的な犯罪行為の訴追や処罰、防止を確保するための条約が個別に締結されているにすぎない。航空機に関連する犯罪をはじめとして、諸国の共通利益を害する犯罪に関する条約の多くは対テロリズムの性格を持っており、このような条約が規律の対象とする犯罪行為は急速に拡充されつつある。しかし、こうした個別の条約ではテロリズムの防止や撲滅のために十分ではない。 2001年9月11日のニューヨークとワシントンでのテロ攻撃は、国際社会の一層の取組みが求められていることをより強く印象付けた。このテロ攻撃について出された、国連安保理決議1368 (2001年)は、テロリズムと闘うための協力を国際共同体に求めており、決議1373 (2001年)や1390 (2002年)は、そのために各国がとるべき措置を具体的に示している。

戦争犯罪

 戦争犯罪とは、武力紛争中に行われた国際人道法に違反する行為を意味する。戦争法規については、1899年のハーグ平和会議以降、条約による明確化と拡充のための努力が進められてきた。これらの規則には、武力紛争中に行われる人の行為についての規範が多く含まれている。

 伝統的な国際法の下では、戦争犯罪は、武力紛争の当事国がそのような行為を行った者を捕らえた場合、自国の国内法(軍事刑法や通常の刑法)に基づき、訴追と処罰を行うことができるとされてきた。しかし、国際人道法の履行確保という観点から、戦争犯罪の訴追や処罰に国際法が関与することの必要性が論じられてきた。次節で検討する個人の国際犯罪について訴追や処罰を行うための国際刑事裁判所に関する議論でも戦争犯罪をその対象とすることが論じられてきたし、ニュルンベルク国際軍事裁判所と極東国際軍事裁判所が戦争犯罪をその管轄権の対象としたのもその現れである。こうした議論を受けて、ジュネーヴ諸条約では、この条約の重大な違反を行った者の訴追や処罰のために、戦争犯罪人を捕らえた国だけでなく、すべての締約国が必要な立法を行うこととされ、また、訴追か引渡しかの義務が課されている(ジュネーヴ第1条約49条)。
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