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本はあきらめの集まり

憲法での「平等」

 憲法で言うところの「平等」の概念を超えないといけない。憲法は国のものではない。国を超えるものです。だから、国の象徴もおかしいし、戦争する条件もおかしい。

 人権とか自由と平等をどう規定するのか。それが市民との契約になります。

本はあきらめの集まり

 よく、本というものが書けるものです。その時点で思い切れるのか。まだまだ続くのに。その断面でOKとすることができない。常に未完成なのに。

 出したものを、いつでも変えられるのであれば、状況は変わってきます。全部を網羅しようとするからでしょう。一部と言ってもそれが全部なんです。死ぬみたいな強制力がなければ、本は無理です。

 そうなると、死後出版しかない。

存在はたまらない

 考えるしかない。そこに戻るしかない。

 本当に存在というのはたまらないですね。寝ながら、考えよう。いつものように。
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「平等」という概念

『憲法学教室』より 平等原則 「差別」と「合理的区別」

(1)近代憲法原理としての平等の観念は、人間平等の思想を前提に、国家はすべての人を平等に取り扱わなければならないとする規範的要請を内容とするものである。

平等という観念は、自由とならび、近代市民革命の旗印とされたものである。それは、生まれによって人を差別する封建的身分制を否定するものであり、人はみなその価値において等しい存在であるという人間平等の思想に立脚するものであった。

それぞれの人がもっているそれぞれの価値を等しく尊重しようという人間平等の思想を前提に、したがって、国家は、人を区別して、ある人を特別有利に扱ったり、あるいは逆に不利に扱ったりしてはならない、とするのが、憲法原理としての平等の意味内容である。要するに、国家による不平等な取扱いを排除するというのが、憲法上の平等原則の意味であるといえる。それは、別の言葉でいえば、法的な取扱いにおける平等ということになる。「法の下に」平等である、という憲法14条のいい方は、このことを表わしているわけである。

(2)憲法上の平等原則は、そもそもは「形式的平等」を意味したが、こんにちでは「実質的平等」の観念をも反映するものとしてとらえられる。

人間はみな平等である、というのは、上述のように、人はみなそれぞれに違うということを前提としている。そのことを前提に、憲法原理としての平等は、国家による不平等取扱いの禁止=法的取扱いの均一化を求めるものである。人それぞれいろいろな違いがあるにもかかわらず、国家はすべての人を同じに取り扱え、というのは、考えようによっては、非常に形式的な平等を意味することになる。いろいろな違いがあっても法的には同じに扱うということは、その違いに基づく実際上の不平等状態を無視し、固定化ないし拡大することにもなりうるからである。それにもかかわらず、近代憲法原理としての平等は、法的取扱いの均一化という形式的平等を意味し、実際上の不平等状態の是正ということ(実質的平等)は、そもそもは、その射程に入れられていなかった。それは、近代においては、国家の任務は各個人の自由な活動を保障することであって、そうした自由な活動によって達成される結果に違いが出てくるのは、各人の能力や勤勉さによるものとして国家の関与すべきことではない、と考えられたからである。要するに、「自己責任」の考え方である。こういう「自己責任」の考え方が支配的であった近代においては、国家の法は、活動の機会を各人に平等に保障するもの(あるいは、不平等こ制限しないもの)であればよく(=機会の平等)、それ以上に進んで、結果の平等までは求められなかったのである。

ところが、その後の社会の発展は、「結果の不平等」をますます拡大し、それをもっぱら各個人の「自己責任」として放置することの不合理性を認識させることとなった。そこで、単なる形式的な平等ではなく、実際に存在する社会的・経済的等の不平等を是正して実質的な平等を実現すべきことが、国家に対して求められるようになってきたのである。ここに、憲法における平等の観念は、国家による不平等取扱いの禁止という消極的なものにとどまらず、国家による平等の実現という積極的な内容をもつものになったということができる。

形式的平等から実質的平等へ、というのは、しかし、形式的平等だけではダメだ、ということであって、形式的平等ということはもはや考える必要がないということではない。国家が、ある人を特別有利に扱ったり、逆に不利に扱ったりしてはならない、というのは、こんにちにおいても、なお基本的な前提として維持されなければならないことであるからである。そういう観点からいえば、こんにちでも、「法の下の平等」の基本的な意味は、依然として、法的取扱いの平等というところにあると考えるべきことになる。ただ、実質的平等の実現のために形式的に不平等な取扱いをすることとなっても、それは、平等原則に違反するものではない、という形で、「法の下の平等」眉目llは宝質的平等の知合を反映するものとなっているわけである。

(3)憲法の要請する平等は、なにがなんでも同じに扱えという「絶対的平等」ではなく、事実状態の違いに応じて等しく扱えという「相対的平等」である。

平等原則は、法的な取扱いの均一を要求するものであるが、人にはそれぞれ、さまざまな点において違いがあるから、そういう各個人のそなえている事実状態の違いというものをいっさい捨象して法律上均一に取り扱うことは場合によっては、かえって不合理な結果を生ずることにもなりかねない。実質的平等ということへの配慮が要請されるこんにちにおいては、このことはなおさらである。国家が人を区別して法的な取扱いに差を設けることは、基本的こは許されないことであるとしても、そのことによって不合理な結果が発生するというような場合には、各個人の帯有する事実状態の違いというものを考慮に入れて、異なった取扱いをすることが、むしろ要請されるであろう。そういう意味で、法的な均一取扱いという原則を絶対的なものとすることはではできない。異なった取扱いをすることに正当な理由があれば、それを是認しなければならないのである。こういうふうに考えれば、「平等」といっても、憲法が要請しているのは、なにがなんでも同じに扱えということ(絶対的平等)ではなく、各個人の違いを考慮に入れてそれに応じて等しく扱えということ(相対的平等)である、ということになる。

憲法の要請する平等を、このように相対的平等としてとらえるのが通説的であり、したがって、「合理的な差別」は許されると説かれるのが通例である。しかし、このように解した場合には、憲法上許される異なった取扱いと許されないそれとを、どのような標準によって区別するか、具体的な場合に、なにをもって「合理的な差別」とし、なにをもって「不合理な差別」とみるか、といった非常に困難な問題に直面することとなる。この点については、のちに触れることとする。

なお、言葉に対する好みの問題にすぎないのかもしれないが、「合理的差別」という言葉は、私にはどうも心地の悪い響きがするので、以下では、「合理的差別」という語に代えて「合理的区別」ということにしたい。
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21世紀憲法 Human Rights

『憲法学教室』より 21世紀憲法学へのキーワード

「国」の枠組みを離れて

 20世紀が始まった頃、地球上にあった「国家」は60カ国ほどであった。100年後のぃま、それが3倍以上に増えている。その意味で、20世紀は「国家」の世紀でもあった。そして、その「国家」は、国境線で区切られた一定の領域をもち、主権をそなえ、その構成員(国民)が「ナショナル・アイデンティティ」を共有している「国民国家」として存在してきた。この「国民国家」が、第1次大戦後のハプスブルク帝国およびオスマン帝国の解体、そして第2次大戦後の「脱植民地化」によって、世界全体を覆うこととなったのであった。

 「国民国家」は、「国家」というものを、人々のアイデンティティの一つの重要な表徴とした。とりわけ第2次大戦後の「脱植民地化」の動きは、自前の国家建設によるアイデンティティの回復(ないし確立)という意味において、「人民解放」としての積極的な意味をもちえた。こうして、「国家」の重要性は、疑う余地のないもののようにみえた。「国家」という枠組みは、私たちの思考の枠組みにもなったのである。

 しかし、いま、21世紀を前にして、「国家」は、あるいは「国」という枠組みのなかでの思考は、地球人類の未来を奪いかねないものになろうとしている。たとえば、日本では、いわゆる少子化か重大な問題となっており、このままでは日本の人口は先細りになり国が衰退するから、なんとか子どもを増やすような政策を考えるべきだ、といった議論がある。たしかに、日本という「国」の枠組みのなかだけで考えれば、そういう議論になろう。しかし、日本では少子化による人口減という問題が起きているが、世界全体では、毎年8000万人という爆発的な人口増加が重大問題となっているのである。このままいけば、21世紀の前半には、世界の人口は100億人に近づくといわれている。地球の「人類扶養能力」の限界を超えかねない事態が、間近に迫っているのである。そういうときに、この地球規模の問題にいかに対処するかという観点ぬきに、日本という「国」の枠組みのなかだけで考えて、人口増加をはかろうというのは、文字どおり愚の骨頂である。

 あるいは、地球環境問題も、資源・エネルギー問題も、食糧問題も、すべて、しかりである。自国の利益、あるいは自国の経済・産業の発展というような、「国」の枠組みにとらわれた考え方では、いま私たちが直面しているこれらの地球規模の問題は、解決できないばかりか、ますます深刻化し、そんなに遠くない時期に、私たちじしんの生存を脅かすこととなろう。「国」の枠組みを離れて考えることが、いま、緊急に求められているのである。

 これらの地球規模の問題の大きな要因となっており、あるいはそれらの問題の解決を遅らせる要因となっているのは、いわゆる「北」側先進工業国の過剰ともいえる物質的「豊かさ」と、他方、いわゆる「南」の発展途上国の深刻な貧困という、世界規模の不公平な配分である。現在、日本を含む「北」側先進国のGNP総額は、世界全体のそれのおよそ80%程度を占めるといわれている。そして、「北」の人口は世界人口の20%たらずである。つまり、20%の人間が世界全体の80%の富を握り生産物を消費している、ということである。その結果、約13億人が貧困状態にあり、そのうち約8億人が毎日の食事にもこと欠く「絶対的貧困」に苦しんでいる、という現実をもたらしているのである。

 こうした貧困を解消するためには、途上国のそれぞれが先進国なみの経済発展を遂げればいい、ということになりそうである。しかし、もしも、全世界の人々が、いまの先進工業国住人なみの物質的生活水準に達したなら、地球上の資源や食糧は、たちまちにして底をっくことになるし、地球環境は、ただちに、人類の生存を不可能にするまで悪化するであろう。それぞれの国がそれぞれ勝手に「豊かさ」を追い求めていくというのでは、破滅が待っているだけなのである。「国」の枠組みを超えて、いかに現在の「不公平」を解消していくか、その視点なくしては人類に未来はない、といっても決して大げさではないと思う。そして、現在正当な取り分以上の配分を享受している先進国こそが、率先して、「国」の枠組みを離れ、この「不公平」の解消に取り組む責任を有しているというべきであろう。

 20世紀、「国」は、ある意味で「解放」のシンボルともみられてきた。しかし、「国」の枠組み(「口」)にとらわれているかぎり、人は、その文字が示すとおり、じっは「囚」(とらわれ人)でしかないのである。「国」の枠組み(「口」)を取り払ってはじめて、人は人として解放されるのである。

Human Rights

 21世紀は「人権の世紀」である、ともいわれる。 20世紀の後半、国際社会は、「人権」の重要性をあらためて確認し、その国際水準の確立と実効的な保障に努めてきた。そして、21世紀は、この「人権」価値が世界全体に普遍的なものとして受け入れられる時代になるであろうことが、期待されている。

 では、日本の場合、「人権」価値は十分に浸透・定着しているといえるか、となると、どうも怪しいところがある。「人権」という言葉は、英語でいえば“Human Rights”の訳語である。しかし、“Human Rights”と「人権」とは、少なくとも、語感的にはかなりの隔たりがあるように思う。その辺が、日本における「人権」理解のあやふやさに通じていそうな気がする。

 そもそも、“right”を「権利」と訳したことから、この隔たりは始まっていると思う。英語の“right”という言葉には、「権利」のほかに「正しい」という意味がある。ほかに、というのはじつは正確でなく、rightはrightなのであって(名詞と形容詞の違いはあるが)、日本語に訳されたときに違った意味が与えられたのである。つまり、日本語で「権利」と訳されている“right”とは、「正しいこと」という意味なのである。 right (権利)はright(正しい)だからright (権利)なのである。とすると、日本語では「人権」と訳されている“Human Rights”とは、「人間として正しいこと」という意味になる。

 しかし、日本語の「権利」という言葉には、「正しい」という意味は全然含まれていない。むしろそれは、自分の利益を押しとおす、といったニュアンスをもっている。さらに、同じ「権」という語が、「権力」というふうにも用いられるから、「人権」の「権」と、たとえば「行政権」の「権」との違いもあいまいになり、「権利」は、しばしば、「権力」と同様に、相手を問答無用に黙らせる道具として使われることにさえなる。そのために、人々は、「権利」とか「人権」というものに対して、なんとなく、うさん臭いものを感じているのではないか。だからこそ、「権利ばかりを主張するのはいかがなものか」といったことがいわれたりするのであろう。しかし、そこでいわれる「権利」を“right”という語に置きかえてみれば、「right (正しぃこと)ばかりを主張する」のが悪かろうはずはないから、こういういい方のおかしさが明白になる。

 したがって、「人権」価値を日本において浸透・定着させるためには、「人権」を「人権」という言葉で考えるのではなく、翻訳前の“Human Rights”という言葉で、つまり、「人間として正しいこと」というものとして、考える必要があろう。どういうことかというと、人権を主張する側は、それが「人権」だから(憲法で保障されているから)主張するというのでなく、それが「人間として正しいことだ」ということをきちんといえなければならない、ということであり、逆に、そんなものは人権ではないとして否定する側は、それが「人間として正しいこと」ではないということを、やはりきちんといえなければならない、ということである。こうして、何か「人間として正しいこと」なのかについて、きちんとした対話がなされ、それを通じて社会的コンセンサスが形成されてはじめて、日本社会に「人権」価値が定着することとなろう。
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