未唯への手紙
未唯への手紙
時間軸は<今>から過去へ
家から出ないでおこう
コカ・コーラの仕様ならばどうするのか。これはメーカーにもいえます。
キンドルが入っているバックを吉野家に忘れてきた。道順を選んで戻ったら、そのままになっていた。何か変なことばかりが続いている。家から出ないでおきましょうか。
トラップに引っかかった
トラップに引っかかった。オレオレ詐欺みたいなもの。7000円は痛い! 吉野家の豚丼300円が高いものになった。奥さんに言うかどうかですね。どう見ても、トラップです。吉野家から出てきたら、次の犠牲者が捕まっていた。新社屋費用抽出なのか。
時間軸は<今>から過去へ
時間軸はやはり、逆に見るもんなんでしょう.結果から原因へ、<今>から過去へ。結果としての<今>はあまり信じられません。
それからすると、いくらでも先延ばししてもいいですね。
コカ・コーラの仕様ならばどうするのか。これはメーカーにもいえます。
キンドルが入っているバックを吉野家に忘れてきた。道順を選んで戻ったら、そのままになっていた。何か変なことばかりが続いている。家から出ないでおきましょうか。
トラップに引っかかった
トラップに引っかかった。オレオレ詐欺みたいなもの。7000円は痛い! 吉野家の豚丼300円が高いものになった。奥さんに言うかどうかですね。どう見ても、トラップです。吉野家から出てきたら、次の犠牲者が捕まっていた。新社屋費用抽出なのか。
時間軸は<今>から過去へ
時間軸はやはり、逆に見るもんなんでしょう.結果から原因へ、<今>から過去へ。結果としての<今>はあまり信じられません。
それからすると、いくらでも先延ばししてもいいですね。
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人々の生活を貧困から守るための仕組み アイスランドの住民と働く人への給付
『アイスランド・グリーンランド・北極を知るための65章』より
2008年10月にアイスランドを襲った経済危機は人々の生活にも影を落とした。それまで2%程度であった失業率は2010年に7・6%とピークに達し、2008年からの5年間に公務員の年金基金に対する保険料の積立が停止され、医療費は20%抑制された。OECDの『図表で見る社会2014』によると、可処分所得は危機を挟んで全体的に下がり、特に高所得者の所得が減少した。一方で、1年間に必要な食べ物を買うための十分なお金がないと感じたことがある人の割合は2008年から2010年の間に8・9%から9・5%に増えていた。経済危機により所得の下位層で生活苦を感じる人が増えたということだろう。
そして、福祉省は2013年4月に、経済危機から4年を経て国の財政が急速に回復し、やっと医療費を削減しなくて済むようになったと発表した。失業率は5・4%で危機前の状態に下がってはいないものの、1年以上の長期失業者はI%と少ない。OECDの『より良い暮らし指標2014』によると、2013年の時点でアイスランド人の生活満足度は高い。
経済状況が上向いてきているから、あるいは国民気質のおかげだから、という理由では片づけられない根拠があるのではないだろうか。たとえば、「福祉の監視」(Well^Being Watch)という政府やNGOの関係者から成る組織が2009年2月に立ち上がり、経済危機が個人や家族にどのような影響を及ぼすかを監視するとともに政府に提言を出す活動を行った。この「福祉の監視」で議長を務めたラウラービェスドウフティル氏は、オンライン雑誌『ノルディック・レイバー・ジャーナル』の記者に対して「危機後のカオス状態の中で、私たちは子どもや社会的弱者を守りたかった。彼らがきちんと生活できないと、未来はないから」という趣旨のコメントをしている。実際に出された提言の中には、子どもの生活状況の悪化を防ぐため、学校で温かい給食を毎日出すことなどが含まれた。このように危機にあっても国民の福祉を守ろうとする活動が見えることも、生活満足度の背景にあると思われる。
とはいえ、幸福の対極の一つに貧困があるとすると、貧困率が目安になるだろう。貧困率とは、世帯収入から国民一人ひとりの所得を割り出して順番に並べたときに、真ん中の人の所得の半分に届かない人の割合である。アイスランドではこれが危機の前後を通じて6%半ば程度と低く、65歳以上の高齢者ではさらに下がり2013年は3%であった。このような貧困率の低さを担保する仕組みとは、どのようなものだろうか。アイスランドで暮らす33万人の生活にかかわる現金給付や福祉の仕組みをとおして、高い生活満足度の一端に触れてみたい。
アイスランドの現金給付は、後述の年金基金からの給付を除き、居住要件を満たせば保険料の拠出を要件とせず全ての人に受給権が発生する。それも制度によって異なるが6か月から長くて3年という要件であり、かなり多くの人を網羅すると思われる。財源は雇用主と自営業者が支払った賃金に応じて負担する賃金税や国庫負担で賄う。15歳から64歳の男性で81%、女性でも79%が仕事を持っていることを考え合わせると、老若男女みんなで働いて必要な人に所得保障を行う仕組みを動かしているといえる。
長期給付となる年金のみ、主となる給付は職域ごとの年金基金が担当する。年金基金には雇用主と被用者そして自営業者がそれぞれ定率で保険料を負担し、国庫負担は入らない。給付額の計算には拠出総額と拠出期間が使われる。ここから65歳以上の人に老齢年金を、障害程度が75%以上の人には障害年金を、そして遺族としての配偶者と子どもには期限のある遺族年金を給付する。他方、アイスランドの「社会保険」からは、高齢者などに対する年金と、特定の人の所得を補足する数種類の社会扶助が給付される。高齢者は40年居住していれば67歳から定額の老齢年金の満額を受け取れるが、所得に応じて減額される。遺族年金は遺児にのみ定額が給付される。男女共に働いているため、配偶者が亡くなった後の生涯を支えるという仕組みが必要ないのだろう。
その他の現金給付には、健康保険、労災保険、失業給付、出産給付などがある。このうち賃金に比例した給付を行うのは主として出産給付である。12か月以上の居住歴があり、両親ともにフルタイムの25%以上の仕事を6か月間していれば両親の平均所得の80%が給付されるづ給付期間は両親それぞれに3か月が認められ、子どもが生まれるIか月前から受給することができる。さらにどちらかは追加で子どもが3歳になるまでの間に3か月の受給ができ、これは夫婦で分けても良い。養子を迎える場合も同じである。しかし、日本の育児休業給付では子どもがI歳になるまでずっと受給できることに比べると、意外に期間が短いのでは、というのが率直な感想である。もちろん、就労率の高さや職場復帰のしやすさ、所得や生活水準など、他の要素もあわせて考える必要があるだろう。なお、就労条件を満たさない場合は、出産予定日までの12か月間アイスランドに住んでいれば定額の給付があり、学生であっても受け取ることができる。
失業給付は最初の約2週間が定額で、その後に最高で従前所得の70%の給付となり、3か月を過ぎたら再び定額給付に戻る。18歳から70歳までの人で、低技能の仕事も対象に含めて求職活動を行っており、失業前の1年間にパートを含む就労経験がフルタイム換算で3か月分あれば、受給できる。最長で3年は受給できるが、もし、アイスランドで働いていて失業者になったら、定額給付に戻る前に再就職を決めたいところである。
健康保険からは、21日以上仕事を休んで働けない場合に初診日から15日目以降に定額が給付されるが、労使協約による給付がある間は公的な給付はされない。最長で24か月の間で52週までの給付となる。医療サービスの費用も、健康保険からの給付により自己負担が少なく抑えられている。入院と出産・産後ケアにかかる費用の自己負担はない。入院する場合は、自分が登録しているヘルスケアセンターか個人クリニックの家庭医に紹介状を出してもらう必要がある。一方、18歳以上65歳以下の人の歯科治療は保険の対象になっておらず、費用はすべて自分で用立てなくてはならない。なお、労災保険では給付内容がより手厚くなっている。
すべての子どもに対して18歳になるまで給付される児童手当については、養育者が前年に確定申告した所得を使って歳入庁が定額を給付する。これは全額が国庫負担である。給付額は所得だけでなく婚姻状態や子どもの数で決まるが、所得が高いと給付額は少なくなる。とはいえ、子どもへの公的な支出はこれらの現金給付ではなく、サービスを直接提供することに多く振り向けられている。OECDの統計資料によると、2011年における家族への給付の対GDP(国内総生産)比は「現金:サービス:税控除」でそれぞれ「1.237:2.32:0」であった。ちなみに日本は、「0.88:0.47:0.38」と現金給付が多い。また、高所得者を相対的に優遇する税控除がアイスランドではO(ゼロ)である点に平等志向が見て取れる。
全体として、定額の給付に関しては、18歳未満の子どもがいると加算がついたり、低所得者への補足給付があったり、単身と同居の場合で金額が違っていたりと、一定の生活水準を確保しようという意図を確認することができる。それでも、ここまで見てきた各種給付だけでは全ての生活困窮を防ぐことはできないため、地方自治体が現金とともに、ソーシャルワークなどのサービスを提供して、生活に困窮した人を助けることになっている。
アイスランド人の平均寿命は長いが、高齢化率はまだ低い。2012年に日本人の平均寿命が83歳であったのに対してアイスランド人は82歳であった。かたや高齢化率は日本の24%に対して、アイスランドは13%と低く、日本の1990年代初頭の水準である。そのころ日本にまだ介護保険制度はなく、高齢者介護が社会問題になっていた。現在のアイスランドでは、施設中心から在宅サービスの充実を進め、サービスの権限を地方自治体に移譲する動きがここ数年で始まったところである。ちなみに、アイスランド人は長寿なだけでなく、労働力市場からの引退年齢も高い。2013年に男性は68歳、女性は67歳であった。年金の支給開始年齢が高いことも影響しているのだろう。
人口構成の若さは、社会支出の内訳にも表れている。2011年にアイスランドは公的な社会支出としてGDPの18%に相当する費用を使った。一方、日本は同じ年に同23%に相当する社会支出を行い、その内の45%が老齢関係として使われていた。アイスランドでは老齢関係の支出の規模は全体の14%を占めるにすぎず、一番大きな費目は保健医療で30%、2番目が家族向けの支出で19%を占めた。
すでにアイスランドは経済危機のダメージから回復してきているが、このような状況に気を緩めることなく、社会制度の面でもタフさを増そうとしている。アイスランドは北欧理事会の議長国を務めた2014年に、「福祉の監視」プロジェクトを「北欧福祉の監視」プロジェクトとして発展させることを提案した。各国の福祉の諸制度が持つ危機への備えや耐性、福祉指標の整備について2016年末までに調査・研究活動が完了することとなっている。アイスランドに先んじて1990年代にフィンランド、スウェーデン、フェーロー諸島が経済危機に見舞われており、それらの経験からも学ぼうというのである。このプロジェクトの根底には、経済危機がまた起きるかもしれない、という考え方があり、その上で人々の生活を守る強さを身につけようとしている。
2008年10月にアイスランドを襲った経済危機は人々の生活にも影を落とした。それまで2%程度であった失業率は2010年に7・6%とピークに達し、2008年からの5年間に公務員の年金基金に対する保険料の積立が停止され、医療費は20%抑制された。OECDの『図表で見る社会2014』によると、可処分所得は危機を挟んで全体的に下がり、特に高所得者の所得が減少した。一方で、1年間に必要な食べ物を買うための十分なお金がないと感じたことがある人の割合は2008年から2010年の間に8・9%から9・5%に増えていた。経済危機により所得の下位層で生活苦を感じる人が増えたということだろう。
そして、福祉省は2013年4月に、経済危機から4年を経て国の財政が急速に回復し、やっと医療費を削減しなくて済むようになったと発表した。失業率は5・4%で危機前の状態に下がってはいないものの、1年以上の長期失業者はI%と少ない。OECDの『より良い暮らし指標2014』によると、2013年の時点でアイスランド人の生活満足度は高い。
経済状況が上向いてきているから、あるいは国民気質のおかげだから、という理由では片づけられない根拠があるのではないだろうか。たとえば、「福祉の監視」(Well^Being Watch)という政府やNGOの関係者から成る組織が2009年2月に立ち上がり、経済危機が個人や家族にどのような影響を及ぼすかを監視するとともに政府に提言を出す活動を行った。この「福祉の監視」で議長を務めたラウラービェスドウフティル氏は、オンライン雑誌『ノルディック・レイバー・ジャーナル』の記者に対して「危機後のカオス状態の中で、私たちは子どもや社会的弱者を守りたかった。彼らがきちんと生活できないと、未来はないから」という趣旨のコメントをしている。実際に出された提言の中には、子どもの生活状況の悪化を防ぐため、学校で温かい給食を毎日出すことなどが含まれた。このように危機にあっても国民の福祉を守ろうとする活動が見えることも、生活満足度の背景にあると思われる。
とはいえ、幸福の対極の一つに貧困があるとすると、貧困率が目安になるだろう。貧困率とは、世帯収入から国民一人ひとりの所得を割り出して順番に並べたときに、真ん中の人の所得の半分に届かない人の割合である。アイスランドではこれが危機の前後を通じて6%半ば程度と低く、65歳以上の高齢者ではさらに下がり2013年は3%であった。このような貧困率の低さを担保する仕組みとは、どのようなものだろうか。アイスランドで暮らす33万人の生活にかかわる現金給付や福祉の仕組みをとおして、高い生活満足度の一端に触れてみたい。
アイスランドの現金給付は、後述の年金基金からの給付を除き、居住要件を満たせば保険料の拠出を要件とせず全ての人に受給権が発生する。それも制度によって異なるが6か月から長くて3年という要件であり、かなり多くの人を網羅すると思われる。財源は雇用主と自営業者が支払った賃金に応じて負担する賃金税や国庫負担で賄う。15歳から64歳の男性で81%、女性でも79%が仕事を持っていることを考え合わせると、老若男女みんなで働いて必要な人に所得保障を行う仕組みを動かしているといえる。
長期給付となる年金のみ、主となる給付は職域ごとの年金基金が担当する。年金基金には雇用主と被用者そして自営業者がそれぞれ定率で保険料を負担し、国庫負担は入らない。給付額の計算には拠出総額と拠出期間が使われる。ここから65歳以上の人に老齢年金を、障害程度が75%以上の人には障害年金を、そして遺族としての配偶者と子どもには期限のある遺族年金を給付する。他方、アイスランドの「社会保険」からは、高齢者などに対する年金と、特定の人の所得を補足する数種類の社会扶助が給付される。高齢者は40年居住していれば67歳から定額の老齢年金の満額を受け取れるが、所得に応じて減額される。遺族年金は遺児にのみ定額が給付される。男女共に働いているため、配偶者が亡くなった後の生涯を支えるという仕組みが必要ないのだろう。
その他の現金給付には、健康保険、労災保険、失業給付、出産給付などがある。このうち賃金に比例した給付を行うのは主として出産給付である。12か月以上の居住歴があり、両親ともにフルタイムの25%以上の仕事を6か月間していれば両親の平均所得の80%が給付されるづ給付期間は両親それぞれに3か月が認められ、子どもが生まれるIか月前から受給することができる。さらにどちらかは追加で子どもが3歳になるまでの間に3か月の受給ができ、これは夫婦で分けても良い。養子を迎える場合も同じである。しかし、日本の育児休業給付では子どもがI歳になるまでずっと受給できることに比べると、意外に期間が短いのでは、というのが率直な感想である。もちろん、就労率の高さや職場復帰のしやすさ、所得や生活水準など、他の要素もあわせて考える必要があるだろう。なお、就労条件を満たさない場合は、出産予定日までの12か月間アイスランドに住んでいれば定額の給付があり、学生であっても受け取ることができる。
失業給付は最初の約2週間が定額で、その後に最高で従前所得の70%の給付となり、3か月を過ぎたら再び定額給付に戻る。18歳から70歳までの人で、低技能の仕事も対象に含めて求職活動を行っており、失業前の1年間にパートを含む就労経験がフルタイム換算で3か月分あれば、受給できる。最長で3年は受給できるが、もし、アイスランドで働いていて失業者になったら、定額給付に戻る前に再就職を決めたいところである。
健康保険からは、21日以上仕事を休んで働けない場合に初診日から15日目以降に定額が給付されるが、労使協約による給付がある間は公的な給付はされない。最長で24か月の間で52週までの給付となる。医療サービスの費用も、健康保険からの給付により自己負担が少なく抑えられている。入院と出産・産後ケアにかかる費用の自己負担はない。入院する場合は、自分が登録しているヘルスケアセンターか個人クリニックの家庭医に紹介状を出してもらう必要がある。一方、18歳以上65歳以下の人の歯科治療は保険の対象になっておらず、費用はすべて自分で用立てなくてはならない。なお、労災保険では給付内容がより手厚くなっている。
すべての子どもに対して18歳になるまで給付される児童手当については、養育者が前年に確定申告した所得を使って歳入庁が定額を給付する。これは全額が国庫負担である。給付額は所得だけでなく婚姻状態や子どもの数で決まるが、所得が高いと給付額は少なくなる。とはいえ、子どもへの公的な支出はこれらの現金給付ではなく、サービスを直接提供することに多く振り向けられている。OECDの統計資料によると、2011年における家族への給付の対GDP(国内総生産)比は「現金:サービス:税控除」でそれぞれ「1.237:2.32:0」であった。ちなみに日本は、「0.88:0.47:0.38」と現金給付が多い。また、高所得者を相対的に優遇する税控除がアイスランドではO(ゼロ)である点に平等志向が見て取れる。
全体として、定額の給付に関しては、18歳未満の子どもがいると加算がついたり、低所得者への補足給付があったり、単身と同居の場合で金額が違っていたりと、一定の生活水準を確保しようという意図を確認することができる。それでも、ここまで見てきた各種給付だけでは全ての生活困窮を防ぐことはできないため、地方自治体が現金とともに、ソーシャルワークなどのサービスを提供して、生活に困窮した人を助けることになっている。
アイスランド人の平均寿命は長いが、高齢化率はまだ低い。2012年に日本人の平均寿命が83歳であったのに対してアイスランド人は82歳であった。かたや高齢化率は日本の24%に対して、アイスランドは13%と低く、日本の1990年代初頭の水準である。そのころ日本にまだ介護保険制度はなく、高齢者介護が社会問題になっていた。現在のアイスランドでは、施設中心から在宅サービスの充実を進め、サービスの権限を地方自治体に移譲する動きがここ数年で始まったところである。ちなみに、アイスランド人は長寿なだけでなく、労働力市場からの引退年齢も高い。2013年に男性は68歳、女性は67歳であった。年金の支給開始年齢が高いことも影響しているのだろう。
人口構成の若さは、社会支出の内訳にも表れている。2011年にアイスランドは公的な社会支出としてGDPの18%に相当する費用を使った。一方、日本は同じ年に同23%に相当する社会支出を行い、その内の45%が老齢関係として使われていた。アイスランドでは老齢関係の支出の規模は全体の14%を占めるにすぎず、一番大きな費目は保健医療で30%、2番目が家族向けの支出で19%を占めた。
すでにアイスランドは経済危機のダメージから回復してきているが、このような状況に気を緩めることなく、社会制度の面でもタフさを増そうとしている。アイスランドは北欧理事会の議長国を務めた2014年に、「福祉の監視」プロジェクトを「北欧福祉の監視」プロジェクトとして発展させることを提案した。各国の福祉の諸制度が持つ危機への備えや耐性、福祉指標の整備について2016年末までに調査・研究活動が完了することとなっている。アイスランドに先んじて1990年代にフィンランド、スウェーデン、フェーロー諸島が経済危機に見舞われており、それらの経験からも学ぼうというのである。このプロジェクトの根底には、経済危機がまた起きるかもしれない、という考え方があり、その上で人々の生活を守る強さを身につけようとしている。
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ドンキーカートに乗って ナミビアの道路事情と農村部の交通★
『ナミビアを知るための53章』より
「またパンクか……」
舗装されていない道を運転していると、パンクはしばしば発生する。いつもならほんの10分程度で作業を終え、再び走りだすところであるが、その時は状況が少し異なっていた。タイヤのナットが非常に固く、あせって力を入れすぎてしまったために使っていたレンチがぐにやりと変形してしまったのである。どうやってもタイヤを外せない状況に陥ってしまった。唯一の解決手段は、他の車が通ったときに止まってもらい、レンチを貸してもらうことであった。しかしこのときは、周辺に人影も住居もなく、ほとんど車が通らない砂漠の辺鄙な場所で調査を行っていた。荒涼として日陰が全くなく、ひたすら暑い場所に丁人取り残されると、もうどうにもならないのではないかという気がしてくる。このときは幸運にも数時間後にアメリカ人観光客が乗る車に助けを借りて事なきを得たが、こうした状況になってみると、改めてナミビアと日本の交通事情は全く異なっていることを実感させられる。
近年ではほとんどの主要都市間では舗装された幹線道路が整備されているが、幹線道路以外の道路は基本的には舗装されていない。未舗装路が多いことや、長距離を走るためタイヤがすり減りやすいなどということもあり、私がしばしば経験するようにパンクや車の故障はナミビアで車を運転する上では覚悟しておかなければならない。日本のような国であれば、電話一本で問題が解決できるところだが、ナミビアではそうはいかない。今では慣れた作業となったが、私もいちばん最初にパンクを経験したときには、ひとりでタイヤ交換をした経験などなかった夕驚かされるのは、現地で車を持っている人は、タイヤ交換をふくめた車の整備などを自ら行う知識や技術を持っていることである。彼らの多くは自分が持っている車の構造を熟知しており、車が動かなくなると時間をかけながらいつの間にか直してしまう。ちなみに、私の友人たちは「日本人=車の国からやってきた人」と思っていたため、当初は私が車の修理のエキスパートだと思い込んでいたようである。日本人だからといって車のことをなんでも知っているわけでもなく、彼らの方が車の構造をよく知っていたり、修理の仕方に長けていると思うと少し気恥ずかしい思いがする。
一方、車を持だない人の主な移動手段は、コンビやミニバス、タクシーなどと呼ばれるワゴン車である。この小さな乗り合いバスによって、国内の町をつなぐ路線が張り巡らされている。そのため町のバス乗り場は、乗客たちで一日中賑わっている。気をつけなければいけないのは、バスは定時運行しているわけではなく、乗客が満員になるまで出発しないということである。短距離の人気路線などはすぐに満員になるが、下手をすると2時間、5時間と出発まで待たされることもある。そのため、もしバスで移動すると決めた日には、移動以外の予定はあまりつめ込まないようにし、今日中に移動できればラッキーだ、という程度の心づもりをしておくことが大切である。
また、農村部での交通手段としては、ドンキーカートが興味深い。ドンキーカートとは、ロバに荷車をひかせるものである。人々は鉄くずやベアリングやタイヤといった壊れた自動車の部品を再利用して荷車を作っている。そして荷車をオリジナルなデザインで彩る。人気があるのは、卜ヨタやニッサンなど日本の自動車メーカーの名前を荷車に書き入れることである。理由を聞いてみると「トヨタは頑丈で壊れないからだ」と彼らは言う。手作りのロバ車に、可愛らしい文字で馴染みのメーカー名が描かれているのは日本人として少々滑稽にも思えるが、彼らのドンキーカートに対する愛着がかいま見えるのである。人々はこのドンキーカートを使って、数十キロ、ときには百キロ以上離れた街まで移動する。
ドンキーカートは運搬手段としても重要な役割を担っている。とくに、集落周辺の山のなかで採取する薪や建材を運搬するためには、山中に分け入っていけるドンキーカートが不可欠である。自動車では到底登れないような岩がちの斜面も、ドンキーカー卜ならば登ることができ、機動性に優れている。斜面を下るときには、ジェットコースターのようなスピードと勢いで駆け下りていくので非常に恐ろしいが、運転技術に長けた者が操縦すると、ロバを自在に操りスルスルと山中を駆け抜けていくので爽快でもある。
ただし、便利なドンキーカートに危険はつきものである。ある日の夕暮れのこと、遠くの集落での調査を終えた私は、友人2人とドンキーカートで家路を急いでいた。すると突然1頭のロバが機嫌を損ね、あらぬ方向に走りだしたのである。つられて残りの2頭も方向を変え、我々が乗った荷車は近くにあった樹木に激突して横転した。私は車の下敷きになって後頭部を強打してしまった。なんとか家に戻ったが、以後、恐ろしくてドンキーカートに乗る気にはならなくなった。そして頭痛は夜まで治まらず、このまま寝たら目覚めることなく死んでしまうのではないかという不安にまで苛まれた。そんな不安から寝る前に念のために遺書を書いたことは、今となっては少し恥ずかしい、しかし何ごともなくて良かったとほっとする印象深い思い出である。
ナミビアでは、他にも鉄道や船舶、飛行機などさまざまな交通手段に出あうことができる。また農村部では馬やロバに騎乗して移動する人々も見られる。しかし、近年ではますます道路が整備され、自動車の役割が高まっているようである。私が調査をしている集落でも、モータリゼーションが進み、裕福な世帯は自動車を所有するようになってきた。ここ数年の経済成長をうけて、農村部でも自動車を所有する人はますます増加していく可能性は高い。だからといってドンキーカートがすぐに自動車に置きかわっていくとは思えないが、人々のライフスタイルが変化するなかで交通手段も変容をとげていくに違いない。
「またパンクか……」
舗装されていない道を運転していると、パンクはしばしば発生する。いつもならほんの10分程度で作業を終え、再び走りだすところであるが、その時は状況が少し異なっていた。タイヤのナットが非常に固く、あせって力を入れすぎてしまったために使っていたレンチがぐにやりと変形してしまったのである。どうやってもタイヤを外せない状況に陥ってしまった。唯一の解決手段は、他の車が通ったときに止まってもらい、レンチを貸してもらうことであった。しかしこのときは、周辺に人影も住居もなく、ほとんど車が通らない砂漠の辺鄙な場所で調査を行っていた。荒涼として日陰が全くなく、ひたすら暑い場所に丁人取り残されると、もうどうにもならないのではないかという気がしてくる。このときは幸運にも数時間後にアメリカ人観光客が乗る車に助けを借りて事なきを得たが、こうした状況になってみると、改めてナミビアと日本の交通事情は全く異なっていることを実感させられる。
近年ではほとんどの主要都市間では舗装された幹線道路が整備されているが、幹線道路以外の道路は基本的には舗装されていない。未舗装路が多いことや、長距離を走るためタイヤがすり減りやすいなどということもあり、私がしばしば経験するようにパンクや車の故障はナミビアで車を運転する上では覚悟しておかなければならない。日本のような国であれば、電話一本で問題が解決できるところだが、ナミビアではそうはいかない。今では慣れた作業となったが、私もいちばん最初にパンクを経験したときには、ひとりでタイヤ交換をした経験などなかった夕驚かされるのは、現地で車を持っている人は、タイヤ交換をふくめた車の整備などを自ら行う知識や技術を持っていることである。彼らの多くは自分が持っている車の構造を熟知しており、車が動かなくなると時間をかけながらいつの間にか直してしまう。ちなみに、私の友人たちは「日本人=車の国からやってきた人」と思っていたため、当初は私が車の修理のエキスパートだと思い込んでいたようである。日本人だからといって車のことをなんでも知っているわけでもなく、彼らの方が車の構造をよく知っていたり、修理の仕方に長けていると思うと少し気恥ずかしい思いがする。
一方、車を持だない人の主な移動手段は、コンビやミニバス、タクシーなどと呼ばれるワゴン車である。この小さな乗り合いバスによって、国内の町をつなぐ路線が張り巡らされている。そのため町のバス乗り場は、乗客たちで一日中賑わっている。気をつけなければいけないのは、バスは定時運行しているわけではなく、乗客が満員になるまで出発しないということである。短距離の人気路線などはすぐに満員になるが、下手をすると2時間、5時間と出発まで待たされることもある。そのため、もしバスで移動すると決めた日には、移動以外の予定はあまりつめ込まないようにし、今日中に移動できればラッキーだ、という程度の心づもりをしておくことが大切である。
また、農村部での交通手段としては、ドンキーカートが興味深い。ドンキーカートとは、ロバに荷車をひかせるものである。人々は鉄くずやベアリングやタイヤといった壊れた自動車の部品を再利用して荷車を作っている。そして荷車をオリジナルなデザインで彩る。人気があるのは、卜ヨタやニッサンなど日本の自動車メーカーの名前を荷車に書き入れることである。理由を聞いてみると「トヨタは頑丈で壊れないからだ」と彼らは言う。手作りのロバ車に、可愛らしい文字で馴染みのメーカー名が描かれているのは日本人として少々滑稽にも思えるが、彼らのドンキーカートに対する愛着がかいま見えるのである。人々はこのドンキーカートを使って、数十キロ、ときには百キロ以上離れた街まで移動する。
ドンキーカートは運搬手段としても重要な役割を担っている。とくに、集落周辺の山のなかで採取する薪や建材を運搬するためには、山中に分け入っていけるドンキーカートが不可欠である。自動車では到底登れないような岩がちの斜面も、ドンキーカー卜ならば登ることができ、機動性に優れている。斜面を下るときには、ジェットコースターのようなスピードと勢いで駆け下りていくので非常に恐ろしいが、運転技術に長けた者が操縦すると、ロバを自在に操りスルスルと山中を駆け抜けていくので爽快でもある。
ただし、便利なドンキーカートに危険はつきものである。ある日の夕暮れのこと、遠くの集落での調査を終えた私は、友人2人とドンキーカートで家路を急いでいた。すると突然1頭のロバが機嫌を損ね、あらぬ方向に走りだしたのである。つられて残りの2頭も方向を変え、我々が乗った荷車は近くにあった樹木に激突して横転した。私は車の下敷きになって後頭部を強打してしまった。なんとか家に戻ったが、以後、恐ろしくてドンキーカートに乗る気にはならなくなった。そして頭痛は夜まで治まらず、このまま寝たら目覚めることなく死んでしまうのではないかという不安にまで苛まれた。そんな不安から寝る前に念のために遺書を書いたことは、今となっては少し恥ずかしい、しかし何ごともなくて良かったとほっとする印象深い思い出である。
ナミビアでは、他にも鉄道や船舶、飛行機などさまざまな交通手段に出あうことができる。また農村部では馬やロバに騎乗して移動する人々も見られる。しかし、近年ではますます道路が整備され、自動車の役割が高まっているようである。私が調査をしている集落でも、モータリゼーションが進み、裕福な世帯は自動車を所有するようになってきた。ここ数年の経済成長をうけて、農村部でも自動車を所有する人はますます増加していく可能性は高い。だからといってドンキーカートがすぐに自動車に置きかわっていくとは思えないが、人々のライフスタイルが変化するなかで交通手段も変容をとげていくに違いない。
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携帯電話の普及 ナミビアの通信事情
『ナミビアを知るための53章』より
ナミビアの通信事情は、ここ数年で大きく変化してきた。それを身を持って体験した象徴的なエピソードがある。私は2006年からナミビア中部のとある集落で調査を行なってきた。調査集落に住み込みを始める前、緊急時の連絡手段として首都で携帯電話を購入した。この当時、集落の内部では携帯電話の電波はほとんどなく、歩いて20分ほどの山の頂上に行って電話する必要があった。電波がないこともあって、集落では携帯電話を所有する人は数えるほどしかいなかった。そのため、当時私が持っていたノキアの携帯電話は、モノクロ表示で最低限の機能しかなかったが、みんなの注目の的であった。しかし、それから2年ほど経ち、集落にも携帯電話の電波が届くようになると所有者が増え始めた。さらに2年後の2010年には、ほとんど全ての世帯が携帯電話を所有するようになり、最近では各世帯に1台というよりも、各個人が1台ずつ持つほどになり、あっという間に普及してしまったのである。集落の人々が持っている携帯電話は、少なからずがカラー液晶、時にはカメラ付きのものへと変化し、人によってはスマートフォンを持っている。若者のなかには、フェイスブックなどのSNSを使っている者もいる。そして、私の人一倍頑丈なノキアは、村のなかでも「時代遅れのシロモノ」として逆にバカにされる対象へと化してしまったのである。
このようにナミビアでは携帯電話が急速に普及し、それが通信事情を一変させた。多くのアフリカ諸国では、固定電話よりも携帯電話が普及している。ナミビアも同様であり、固定電話は2004年において人口100人あたり6・4回線にすぎないが、携帯電話は2005年の時点ですでに24・4回線にものばった。2012年時点における携帯電話の普及率は人口比で約70%であり、アフリカ諸国の中でも比較的高い値を示している。
ナミビアの情報通信事業は、独立直後の1992年に固定電話事業を請け負う国営企業テレコム・ナミビアが誕生したことによって開始した。その後1995年には政府と外国資本による半官半民型の携帯電話サービス会社であるMTCが創設され、移動通信事業が始まった。そして1999年にMTCがプリペイドサービスを開始して以降、携帯電話が普及し始め、通話可能エリアも都市部だけでなく国内の広い地域に徐々に拡大していった。携帯電話事業は2006年までMTCによって独占的に運営されてきたが、同年ノルウェー企業の資本やナミビアの電力系資本を中心としたセルワンが参入した。さらに固定電話のテレコムも携帯電話事業を開始したため、現在では3社がサービスを展開している。顧客獲得を目指した価格競争によって、通話料金なども徐々に低下し、幅広い消費者に受け入れ易い媒体へと変化してきた。
このような通信産業の発達のなかで、携帯電話の契約者数は増加の一途を続けている。MTCの契約者数は2009年に120万件を突破しており、同社の契約者数だけでナミビアの総人口の半分を超えるほどである。また、MTCの通信圏はナミビアの全人口の居住地域の95%を占めており、ほとんどの地方で携帯電話の利用が可能になっている。たとえば、人がほとんど住んでいないナミブ砂漠の真ん中でさえも、幹線道路沿いなどでは携帯電話が使える。
携帯電話の機種は、首都ウィンドフックなどの都市部では100Nドル(INドル=約10日本円)未満の安価な機種から5000Nドル以上の最新のスマートフォンまで入手が可能である。また、地方中小都市においても安価な機種を中心に、容易に手に入れることができる。したがって地方に住む人々にとっても、携帯電話はけっして手が届かない贅沢品ではなく、日雇い労働を数日間こなせば手に入るような身近な品となっている。ナミビアの携帯電話はプリペイド式が主なので、利用者は「エアタイム」と呼ばれるプリペイドカードを購入し、カードに書かれているコード番号を携帯電話に入力して通話料を入金すればよい。このエアタイムは小さな集落でもたいてい販売しており、どこでも手に入れることができるようになっている。
このような携帯電話の普及は、農村部に暮らす人々の生活も変化させている。農村部に滞在していると、彼らが都市部に住む親戚や友人と頻繁に連絡を取り合っている様子を毎日のように目にする。しかし農村部の人々には常にエアタイムを買う経済的な余裕があるわけではない。人々の携帯電話の利用状況を把握するためにエアタイムの残額を聞いてみると、多くの人の携帯電話にはほとんどエアタイムが入っていなかった。このような状況にあっても、彼らは無料で送信できる”call me requestcal"メッセージを送ったり、相手の電話を一度だけならして切る「ワン切り」という手法によって、自分が会話したいという旨を相手に伝え、電話をかけてもらうのである。もちろん常にリクエス卜に応えて相手がかけてくれるわけではないが、かけてもらえなくても気にしていないようで、また別の人にかけたりする。
さらに人々は、エアタイムを他者から送信してもらうサービスも頻繁に利用している。エアタイムは最低でも5Nドルからしか購入できない。そのためそれを購入できない人々は、エアタイムを持っていそうな人に連絡をして、2~3ドル分だけタダでわけてもらうのである。このエアタイムの受け渡しにおいては、特定の人が常にもらう側にある訳ではなく、もらう側にいた人の方が多くエアタイムを持っている場合には、逆に気前よく周りに分け与えることもある。このように適時お金を持っている人がエアタイムを購入し、家族や友人と少しずつシェアすることによって、携帯電話の利用が可能になっている側面もあるのである。
日本では見られないような、こうしたさまざまなサービスが充実しているおかげで、遠隔地に住んでいても、電話をかけるお金がなくても、遠方の親戚や友人とコミュニケーションを取ることができ、これまでは人の移動によってもたらされてきた情報が、携帯電話を介して瞬時に入ってくるようになってきている。これまでナミビアの農村部では携帯電話の回線を利用したインターネット接続はほとんど行われてこなかったが、2015年に調査村を訪問した際には若者がスマートフォンにアプリをダウンロードし、ゲームで遊ぶといった日本とあまり変わらない光景をついに目にするようになった。こうした状況の変化は今後も急速に進んでいくに違いない。彼らの日常的なコミュニケーションの範囲が、農村内や近郊都市だけにとどまらず、日本の私までを瞬時につなげる世界規模のものになっていくのも、もうすぐだろう。
ナミビアの通信事情は、ここ数年で大きく変化してきた。それを身を持って体験した象徴的なエピソードがある。私は2006年からナミビア中部のとある集落で調査を行なってきた。調査集落に住み込みを始める前、緊急時の連絡手段として首都で携帯電話を購入した。この当時、集落の内部では携帯電話の電波はほとんどなく、歩いて20分ほどの山の頂上に行って電話する必要があった。電波がないこともあって、集落では携帯電話を所有する人は数えるほどしかいなかった。そのため、当時私が持っていたノキアの携帯電話は、モノクロ表示で最低限の機能しかなかったが、みんなの注目の的であった。しかし、それから2年ほど経ち、集落にも携帯電話の電波が届くようになると所有者が増え始めた。さらに2年後の2010年には、ほとんど全ての世帯が携帯電話を所有するようになり、最近では各世帯に1台というよりも、各個人が1台ずつ持つほどになり、あっという間に普及してしまったのである。集落の人々が持っている携帯電話は、少なからずがカラー液晶、時にはカメラ付きのものへと変化し、人によってはスマートフォンを持っている。若者のなかには、フェイスブックなどのSNSを使っている者もいる。そして、私の人一倍頑丈なノキアは、村のなかでも「時代遅れのシロモノ」として逆にバカにされる対象へと化してしまったのである。
このようにナミビアでは携帯電話が急速に普及し、それが通信事情を一変させた。多くのアフリカ諸国では、固定電話よりも携帯電話が普及している。ナミビアも同様であり、固定電話は2004年において人口100人あたり6・4回線にすぎないが、携帯電話は2005年の時点ですでに24・4回線にものばった。2012年時点における携帯電話の普及率は人口比で約70%であり、アフリカ諸国の中でも比較的高い値を示している。
ナミビアの情報通信事業は、独立直後の1992年に固定電話事業を請け負う国営企業テレコム・ナミビアが誕生したことによって開始した。その後1995年には政府と外国資本による半官半民型の携帯電話サービス会社であるMTCが創設され、移動通信事業が始まった。そして1999年にMTCがプリペイドサービスを開始して以降、携帯電話が普及し始め、通話可能エリアも都市部だけでなく国内の広い地域に徐々に拡大していった。携帯電話事業は2006年までMTCによって独占的に運営されてきたが、同年ノルウェー企業の資本やナミビアの電力系資本を中心としたセルワンが参入した。さらに固定電話のテレコムも携帯電話事業を開始したため、現在では3社がサービスを展開している。顧客獲得を目指した価格競争によって、通話料金なども徐々に低下し、幅広い消費者に受け入れ易い媒体へと変化してきた。
このような通信産業の発達のなかで、携帯電話の契約者数は増加の一途を続けている。MTCの契約者数は2009年に120万件を突破しており、同社の契約者数だけでナミビアの総人口の半分を超えるほどである。また、MTCの通信圏はナミビアの全人口の居住地域の95%を占めており、ほとんどの地方で携帯電話の利用が可能になっている。たとえば、人がほとんど住んでいないナミブ砂漠の真ん中でさえも、幹線道路沿いなどでは携帯電話が使える。
携帯電話の機種は、首都ウィンドフックなどの都市部では100Nドル(INドル=約10日本円)未満の安価な機種から5000Nドル以上の最新のスマートフォンまで入手が可能である。また、地方中小都市においても安価な機種を中心に、容易に手に入れることができる。したがって地方に住む人々にとっても、携帯電話はけっして手が届かない贅沢品ではなく、日雇い労働を数日間こなせば手に入るような身近な品となっている。ナミビアの携帯電話はプリペイド式が主なので、利用者は「エアタイム」と呼ばれるプリペイドカードを購入し、カードに書かれているコード番号を携帯電話に入力して通話料を入金すればよい。このエアタイムは小さな集落でもたいてい販売しており、どこでも手に入れることができるようになっている。
このような携帯電話の普及は、農村部に暮らす人々の生活も変化させている。農村部に滞在していると、彼らが都市部に住む親戚や友人と頻繁に連絡を取り合っている様子を毎日のように目にする。しかし農村部の人々には常にエアタイムを買う経済的な余裕があるわけではない。人々の携帯電話の利用状況を把握するためにエアタイムの残額を聞いてみると、多くの人の携帯電話にはほとんどエアタイムが入っていなかった。このような状況にあっても、彼らは無料で送信できる”call me requestcal"メッセージを送ったり、相手の電話を一度だけならして切る「ワン切り」という手法によって、自分が会話したいという旨を相手に伝え、電話をかけてもらうのである。もちろん常にリクエス卜に応えて相手がかけてくれるわけではないが、かけてもらえなくても気にしていないようで、また別の人にかけたりする。
さらに人々は、エアタイムを他者から送信してもらうサービスも頻繁に利用している。エアタイムは最低でも5Nドルからしか購入できない。そのためそれを購入できない人々は、エアタイムを持っていそうな人に連絡をして、2~3ドル分だけタダでわけてもらうのである。このエアタイムの受け渡しにおいては、特定の人が常にもらう側にある訳ではなく、もらう側にいた人の方が多くエアタイムを持っている場合には、逆に気前よく周りに分け与えることもある。このように適時お金を持っている人がエアタイムを購入し、家族や友人と少しずつシェアすることによって、携帯電話の利用が可能になっている側面もあるのである。
日本では見られないような、こうしたさまざまなサービスが充実しているおかげで、遠隔地に住んでいても、電話をかけるお金がなくても、遠方の親戚や友人とコミュニケーションを取ることができ、これまでは人の移動によってもたらされてきた情報が、携帯電話を介して瞬時に入ってくるようになってきている。これまでナミビアの農村部では携帯電話の回線を利用したインターネット接続はほとんど行われてこなかったが、2015年に調査村を訪問した際には若者がスマートフォンにアプリをダウンロードし、ゲームで遊ぶといった日本とあまり変わらない光景をついに目にするようになった。こうした状況の変化は今後も急速に進んでいくに違いない。彼らの日常的なコミュニケーションの範囲が、農村内や近郊都市だけにとどまらず、日本の私までを瞬時につなげる世界規模のものになっていくのも、もうすぐだろう。
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帝国主義と砂糖 菓子と戦争
『歴史のなかの消費者』より 甘味と帝国--帝国日本における砂糖消費 帝国主義と砂糖
戦時中の日本の兵隊がいかに厳しい生活を強いられていたかはよく知られており、通常は、第二次世界大戦中の日本で菓子を連想することはない。一九四〇年代の状況についての現実を否定するものではないが、しかし、太平洋の島々での戦争映画で目にしたものが、戦中の日本の状況のすべてだと思い込んでしまう傾向があることも否めない。歴史家の一ノ瀬俊也は、この件について、少なくとも戦争初期の資料等を見直し検討しなおすべきだと述べている。第二次世界大戦までの時期の日本社会の文化的背景からは、砂糖の消費量が一九二〇年代から戦時中、戦後にかけて増加している点が浮び上がってくる。一ノ瀬は、多くの兵士が家族に宛てた手紙でお金を無心していたことを明らかにした。彼らは常に腹をすかせており、軍の基地や施設の売店で、食料品やスナック菓子などを買う金を必要としていたのだ。この売店は「酒保」と呼ばれており、軍の許可を得た民間人が経営していた。店には菓子や酒も置いてあり、配給された乏しい食事では足りない栄養を補うことができた。
日本の兵隊はかくて、甘味食品や加工食品を食べながら、中国本土や太平洋での戦争に従事した。もちろん、戦争は何年にもわたった悲惨な歴史であり、やがて国を破壊するまでに至った。そのような、経済的にも心理的にも、そして物理的にも混乱した時期にあり、また、一九三〇年代後半には軍隊への仕送りのためにさらに厳しい節制が求められた状態を考えると、菓子や甘味食品が最も早く市場から姿を消したと思われるであろう。だが現実は、そう明確に白黒をつけられる状況ではなかった。すでに菓子類が、日本人の日常食生活に根付いていたため、菓子製造会社は戦争をもビジネスーチャンスととらえ、人々にさらなる消費を促した。菓子の製造、消費がいかに国のためになるか、愛国心に基づいた行動であるかを説いたのである。一九三七年に中国で全面戦争が開始されたとき、前線にいた兵士の銃後の家族は躊躇なく「慰問袋」にキャラメルの箱を入れた。日本人にとってすでに菓子は日常生活の一部であり、積極的に消費するものとなっていた。特に中国で戦争をしていた兵隊の問では、菓子や甘味食品を求める声が強かったようである。一九三七年九月、上海付近の前線では予想に反した苦戦を強いられており、彼らの日記には「戦場で唯一、手に入らないものは菓子だ。砂糖が全くないので、皆、代わりにソルガムを噛んで凌いでいる。仲間数名がソルガムを手に入れようと田畑を襲ったが、敵の攻撃を受けて空手で帰ってきた」とある。
一方、日本国内では菓子の売上が宣伝広告とともに三〇年代を通して伸び続けた。一九三八年六月、明治製菓は自社のチョコレートやキャラメルなどの菓子製品を積んだ宣伝カーで営業を開始し、社歌を鳴らしながら市町村をめぐって菓子を販売した。その後、明治製菓は自社のキャラメルとチョコレート用の宣伝歌を募集し、コンテストに優勝したイメージソングを、それぞれ「明治キャラメルCMソング」、「明治チョコレートCMソング」としてレコード化した。川本によると、明治チョコレートのイメージソング「南国の若人」は菓子を食べる行為とエキゾチックな南国の島々を連想させるもので、歌詞自体は特に深い意味を持たないものの、一部に次のようなフレーズがある。「南国生まれの若人 口に言えない 憧れの とろりとけては また募る 召しませ 明治チョコレート」。
銃後と戦場はよく知られているように、日本の兵隊が中国でいかに耐え忍んでいるかを描いた戦時報道によって結びつけられていた。戦前から人気があった小説家の火野葦平は、兵隊の前線での試練や苦難を鮮明に描き、ベストセラーとなった。なかでも、兵隊三部作といわれ、一九三八年に相次いで出版された『麦と兵隊』『土と兵隊』、そして翌年出版された『花と兵隊』が大ヒットとなり、火野を兵隊作家、従軍作家として有名にした。朝日新聞社は人気作家となった火野のために全国ツアーのスポンサーとなり、読者から賞賛と収入を得た。火野によると、戦時中は多くの企業が彼の小説をもじって「○○と兵隊」という名前の商品を売り出し、商品と軍事社会とのつながりを強調したという。彼がもし『ビールと兵隊』という小説を出版するならば、一生タダでビールを提供するという企業まで現れたようだ。
チョコレートもまた、明治製菓によって、『○○と兵隊』フレーズの流行にのせられた。明治製菓は東宝映画と組んで、一九三八年に「チョコレートと兵隊」という映画を発表したのである。佐乱心監督の愛と悲劇の物語である。この映画を通して、大衆のチョコレートヘの欲望は、中国の前線と日本の銃後を、それまでのイメージソングや慰問袋だけではなく映画という形で関連づけることに成功した。映画の主人公は斎木という男で、まだ小学生の一郎という息子と、娘を持つ小さな村の印刷屋である。中国の戦争に駆り出されるまでは穏やかな日常生活を送っていた一家だった。息子の一郎は、チョコレートの包装紙集めに夢中だった。たくさん集めて賞をもらうのを楽しみにしており、父の斎木もこのことは知っていた。この息子の夢を叶えようと、斎木は前線に出向いてから仲間の兵隊にも頼み込んでチョコレートの包装紙を集め、日本にいる息子に送ってやるのだった。包装紙を受け取った一郎は大喜びでさっそく賞をもらおうとするが、一郎の母の提案で、たくさんの包装紙をすべて手紙とともにチョコレートの会社に送り、事の次第を説明することとした。父・斎木の息子への、家族への、そして国への愛を知ったチョコレート会社の社員は感激し、社長は前線にいる斎木や仲間の兵隊に大きな慰問袋を送ったのだった。斎木はその後もチョコレートの包装紙を集め続け、さらにたくさんの包装紙を息子に送る。だが、その包装紙が家族のいる村に到着したのは、当の斎木が前線で死んだという知らせと同時となってしまった。チョコレート、またはチョコレート会社が日本に残された家族と前線で戦う兵隊の心を、家族と友人を、そして小さな村と帝国の間を、つないだ。この事実に感銘を受けたチョコレート会社の社長は、その後、一郎の学費を援助してやるのであった(斎木の娘も登場するが、この物語では特に娘のその後については言及していない)。
この悲劇の映画の最後を飾るのは、斎木の二人の子供がチョコレート会社から贈り物をもらって輝くばかりの笑顔を見せるシーンである。父は亡くなってしまったが、それでも子供には明るい未来が待っているような結末となっている。この映画の複製版は第二次世界大戦開始直後に米国人によって映画監督フランク・キャプラと文化人類学者ルースーペネディクトの手に渡った。映画は日本人の、戦中の心理を探るための資料とされた。このとき、キャプラが、この戦時のプロパガンダ映画が悲哀や悲劇に満ちており、反米映画というよりは、悲劇であると主張したため、アメリカ人の観点からは、この映画は戦争反対を唱える作品ということになった。だが日本では、「チョコレートと兵隊」は確かに戦争プロパガンダ映画で大衆を煽動することを目的としており、それに多少の人間性の要素を加えることで軍隊と社会を結びつけようとしたものであった。「チョコレートと兵隊」は歌にもなり、大ヒットし、レコードで売りだされた。この物語は人々の印象に強く残り、戦後も、戦争による犠牲や悲劇の象徴として記憶された。
このように消費と戦争は菓子などの甘味食品の消費からもわかるように、強い結びつきがある関係だった。これはフランク・トレントマンらのような消費の歴史の専門家の以下のような研究結果を部分的に否定することになる。
「二〇世紀初頭の日本のような社会では、商品を使用する者、購入する者は自らを消費者であると認識するのは難しく、自分は国民であるという意識のほうが重要であった。結果として、よりネガティブな印象のある消費(消し去り、費すの意味を含む)する者よりも、生産者・愛国者というアイデンティティを選ぶことになった。したがって日本人には、消費者としてのアイデンティティが希薄である」。軍事化された消費活動とそれに対応する軍事化された宣伝広告を消費活動ではない、何か別のものとして扱うとすれば、我々はどうやって戦時中の日本での多様な消費財の生産と販売の成長を説明できるのであろうか。フランクスが指摘するように、この消費活動への無理解は「消費そのものを悪と捉え、倹約、貯金、自足の考えを善とする日本の社会観念」からくるのかもしれない。しかし、この社会観念が菓子の売上を阻むことも、市場規模を小さくすることもなかった。戦争が終結するや否や、砂糖と甘味食品の市場は以前にも増して勢いよく、成長をみせるようになったのである。
「チョコレートと兵隊」は、国家は認めなくとも、消費と宣伝広告が戦時中の社会でも力を持っていたことを証明した。政府が心配するのは消費活動一般ではなく、目に余るほど過剰な消費であった。したがって企業は特に制限を受けることもなく人々に消費をお国のための負担であると宣伝し続けることができた。
戦時中の日本の兵隊がいかに厳しい生活を強いられていたかはよく知られており、通常は、第二次世界大戦中の日本で菓子を連想することはない。一九四〇年代の状況についての現実を否定するものではないが、しかし、太平洋の島々での戦争映画で目にしたものが、戦中の日本の状況のすべてだと思い込んでしまう傾向があることも否めない。歴史家の一ノ瀬俊也は、この件について、少なくとも戦争初期の資料等を見直し検討しなおすべきだと述べている。第二次世界大戦までの時期の日本社会の文化的背景からは、砂糖の消費量が一九二〇年代から戦時中、戦後にかけて増加している点が浮び上がってくる。一ノ瀬は、多くの兵士が家族に宛てた手紙でお金を無心していたことを明らかにした。彼らは常に腹をすかせており、軍の基地や施設の売店で、食料品やスナック菓子などを買う金を必要としていたのだ。この売店は「酒保」と呼ばれており、軍の許可を得た民間人が経営していた。店には菓子や酒も置いてあり、配給された乏しい食事では足りない栄養を補うことができた。
日本の兵隊はかくて、甘味食品や加工食品を食べながら、中国本土や太平洋での戦争に従事した。もちろん、戦争は何年にもわたった悲惨な歴史であり、やがて国を破壊するまでに至った。そのような、経済的にも心理的にも、そして物理的にも混乱した時期にあり、また、一九三〇年代後半には軍隊への仕送りのためにさらに厳しい節制が求められた状態を考えると、菓子や甘味食品が最も早く市場から姿を消したと思われるであろう。だが現実は、そう明確に白黒をつけられる状況ではなかった。すでに菓子類が、日本人の日常食生活に根付いていたため、菓子製造会社は戦争をもビジネスーチャンスととらえ、人々にさらなる消費を促した。菓子の製造、消費がいかに国のためになるか、愛国心に基づいた行動であるかを説いたのである。一九三七年に中国で全面戦争が開始されたとき、前線にいた兵士の銃後の家族は躊躇なく「慰問袋」にキャラメルの箱を入れた。日本人にとってすでに菓子は日常生活の一部であり、積極的に消費するものとなっていた。特に中国で戦争をしていた兵隊の問では、菓子や甘味食品を求める声が強かったようである。一九三七年九月、上海付近の前線では予想に反した苦戦を強いられており、彼らの日記には「戦場で唯一、手に入らないものは菓子だ。砂糖が全くないので、皆、代わりにソルガムを噛んで凌いでいる。仲間数名がソルガムを手に入れようと田畑を襲ったが、敵の攻撃を受けて空手で帰ってきた」とある。
一方、日本国内では菓子の売上が宣伝広告とともに三〇年代を通して伸び続けた。一九三八年六月、明治製菓は自社のチョコレートやキャラメルなどの菓子製品を積んだ宣伝カーで営業を開始し、社歌を鳴らしながら市町村をめぐって菓子を販売した。その後、明治製菓は自社のキャラメルとチョコレート用の宣伝歌を募集し、コンテストに優勝したイメージソングを、それぞれ「明治キャラメルCMソング」、「明治チョコレートCMソング」としてレコード化した。川本によると、明治チョコレートのイメージソング「南国の若人」は菓子を食べる行為とエキゾチックな南国の島々を連想させるもので、歌詞自体は特に深い意味を持たないものの、一部に次のようなフレーズがある。「南国生まれの若人 口に言えない 憧れの とろりとけては また募る 召しませ 明治チョコレート」。
銃後と戦場はよく知られているように、日本の兵隊が中国でいかに耐え忍んでいるかを描いた戦時報道によって結びつけられていた。戦前から人気があった小説家の火野葦平は、兵隊の前線での試練や苦難を鮮明に描き、ベストセラーとなった。なかでも、兵隊三部作といわれ、一九三八年に相次いで出版された『麦と兵隊』『土と兵隊』、そして翌年出版された『花と兵隊』が大ヒットとなり、火野を兵隊作家、従軍作家として有名にした。朝日新聞社は人気作家となった火野のために全国ツアーのスポンサーとなり、読者から賞賛と収入を得た。火野によると、戦時中は多くの企業が彼の小説をもじって「○○と兵隊」という名前の商品を売り出し、商品と軍事社会とのつながりを強調したという。彼がもし『ビールと兵隊』という小説を出版するならば、一生タダでビールを提供するという企業まで現れたようだ。
チョコレートもまた、明治製菓によって、『○○と兵隊』フレーズの流行にのせられた。明治製菓は東宝映画と組んで、一九三八年に「チョコレートと兵隊」という映画を発表したのである。佐乱心監督の愛と悲劇の物語である。この映画を通して、大衆のチョコレートヘの欲望は、中国の前線と日本の銃後を、それまでのイメージソングや慰問袋だけではなく映画という形で関連づけることに成功した。映画の主人公は斎木という男で、まだ小学生の一郎という息子と、娘を持つ小さな村の印刷屋である。中国の戦争に駆り出されるまでは穏やかな日常生活を送っていた一家だった。息子の一郎は、チョコレートの包装紙集めに夢中だった。たくさん集めて賞をもらうのを楽しみにしており、父の斎木もこのことは知っていた。この息子の夢を叶えようと、斎木は前線に出向いてから仲間の兵隊にも頼み込んでチョコレートの包装紙を集め、日本にいる息子に送ってやるのだった。包装紙を受け取った一郎は大喜びでさっそく賞をもらおうとするが、一郎の母の提案で、たくさんの包装紙をすべて手紙とともにチョコレートの会社に送り、事の次第を説明することとした。父・斎木の息子への、家族への、そして国への愛を知ったチョコレート会社の社員は感激し、社長は前線にいる斎木や仲間の兵隊に大きな慰問袋を送ったのだった。斎木はその後もチョコレートの包装紙を集め続け、さらにたくさんの包装紙を息子に送る。だが、その包装紙が家族のいる村に到着したのは、当の斎木が前線で死んだという知らせと同時となってしまった。チョコレート、またはチョコレート会社が日本に残された家族と前線で戦う兵隊の心を、家族と友人を、そして小さな村と帝国の間を、つないだ。この事実に感銘を受けたチョコレート会社の社長は、その後、一郎の学費を援助してやるのであった(斎木の娘も登場するが、この物語では特に娘のその後については言及していない)。
この悲劇の映画の最後を飾るのは、斎木の二人の子供がチョコレート会社から贈り物をもらって輝くばかりの笑顔を見せるシーンである。父は亡くなってしまったが、それでも子供には明るい未来が待っているような結末となっている。この映画の複製版は第二次世界大戦開始直後に米国人によって映画監督フランク・キャプラと文化人類学者ルースーペネディクトの手に渡った。映画は日本人の、戦中の心理を探るための資料とされた。このとき、キャプラが、この戦時のプロパガンダ映画が悲哀や悲劇に満ちており、反米映画というよりは、悲劇であると主張したため、アメリカ人の観点からは、この映画は戦争反対を唱える作品ということになった。だが日本では、「チョコレートと兵隊」は確かに戦争プロパガンダ映画で大衆を煽動することを目的としており、それに多少の人間性の要素を加えることで軍隊と社会を結びつけようとしたものであった。「チョコレートと兵隊」は歌にもなり、大ヒットし、レコードで売りだされた。この物語は人々の印象に強く残り、戦後も、戦争による犠牲や悲劇の象徴として記憶された。
このように消費と戦争は菓子などの甘味食品の消費からもわかるように、強い結びつきがある関係だった。これはフランク・トレントマンらのような消費の歴史の専門家の以下のような研究結果を部分的に否定することになる。
「二〇世紀初頭の日本のような社会では、商品を使用する者、購入する者は自らを消費者であると認識するのは難しく、自分は国民であるという意識のほうが重要であった。結果として、よりネガティブな印象のある消費(消し去り、費すの意味を含む)する者よりも、生産者・愛国者というアイデンティティを選ぶことになった。したがって日本人には、消費者としてのアイデンティティが希薄である」。軍事化された消費活動とそれに対応する軍事化された宣伝広告を消費活動ではない、何か別のものとして扱うとすれば、我々はどうやって戦時中の日本での多様な消費財の生産と販売の成長を説明できるのであろうか。フランクスが指摘するように、この消費活動への無理解は「消費そのものを悪と捉え、倹約、貯金、自足の考えを善とする日本の社会観念」からくるのかもしれない。しかし、この社会観念が菓子の売上を阻むことも、市場規模を小さくすることもなかった。戦争が終結するや否や、砂糖と甘味食品の市場は以前にも増して勢いよく、成長をみせるようになったのである。
「チョコレートと兵隊」は、国家は認めなくとも、消費と宣伝広告が戦時中の社会でも力を持っていたことを証明した。政府が心配するのは消費活動一般ではなく、目に余るほど過剰な消費であった。したがって企業は特に制限を受けることもなく人々に消費をお国のための負担であると宣伝し続けることができた。
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