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現代哲学の終焉

『現代思想史入門』より

哲学の終焉のはじまり

 考えてみよう。歴史は、普遍的ないし超越的なものではなく、やはり人間の作りだしたものである。歴史はかつて人間が作りだしたものについての記述であり、歴史それ自体も人間が作りだしたものである。それが宇宙の起源にまで拡張されたにしても、その拡張された歴史も、やはり人間が作りだしたものである。

 しかし、歴史それ自体についてまで思考してきた哲学すらも、歴史のなかに書き込まれる。そしてぴとびとは、哲学者の考えた原理や論理や新たなテーマの設定を聞こうとするのではなく、概念の歴史的影響関係を知りたがり、それが「使えるかどうか」しか関心をもたなくなる。

 歴史は、出来事を解明するためというよりは、もはやただ整理編集されるためのるのであって、ひとびとは相互に自分の捉えた歴史の方が正しいといって論争する--歴史について語るぴとは、普遍的登記簿としての歴史に書き込む権利を獲得しようとして歴史について語っているのだが、だれもその特権をもつわけではなく、それもまた歴史上のひとつの思考と表現の実践にほかならない。

 メルロHポンティは、歴史はみずからが歴史の外にいて全貌を把握しなければ絶対的なものとはならないが、他方ではまた、歴史のなかにみずからが属していなければ、歴史を解明しようとする動機すらもつことができないと述べた。歴史のなかにありながら歴史について語るのは、ぴとつの根本的矛盾である。歴史について捉えることも歴史のなかで行われるにすぎないとしたら、歴史のなかでいまを説明しようとすることに、--それも歴史的出来事なのだから--、どのような意味があるだろうか。

 その上うなところから、哲学の終焉がはじまったのではなかったか。現代哲学は歴史のなかにみずからの真理を書き込もうとしていたのであるが、しかしそうしながら、それ自身が歴史のなかに書き込まれていき、そのことを通じて真理を語る力を徐々に奪われていった。歴史に書き込まれたことの方が、それぞれの哲学者が語ろうとすることよりも優先されるようになって、何を書こうと、歴史のなかでその哲学者の言葉がどんな役割を果たしたがしか問題にされなくなるとしたら、哲学者は、どうやって普遍的な真理を求めようとすることができるだろうか。

 メルロ=ポンティは、その出発点にあるヘーゲル哲学を評して、「哲学を美術館に展示されたようなものにしてしまった」と述べている。哲学よりも歴史が先立つということ、それが現代哲学の抱えている最大の問題である。どんなに個々の問題を探究しようとする哲学者も、その思考自体が歴史のなかに書き込まれてしまう。哲学が歴史のなかでのみ意義を与えられるようになつだそのあとには、一体どんな哲学が可能だったというのであろうか。

時間性

 意識のほかに、現代哲学においてもうぴとつ主題となったのは、時間とは何かということであった。

 ありとあらゆるものを主題とするのが哲学だから時間についても論じたということではない。四世紀のアウグスティヌスは、時間を問題にして、「だれもが知っているがだれも説明できない」と述べている。忘れられていたこの中世の問いを、現代において最初に哲学の中心に据えたのはベルクソンであった。そしてその後、時間は、現象学においても実存主義においても、現代哲学の基本的テーマとなった。

 古代ギリシア哲学では、永遠のもとに知識を捉えることが主題であって、時間はそれを損なうものとして否定的に扱われる傾向があった。生成消滅するものを学問的対象にすることはできないとされた。近代哲学においても、カントが整理したように、時間はせいぜい経験の形式として人間に与えられた条件にすぎなかった。そこでは、事物は空間のもとにあって時間に従って運動し、変化するものとされていた。

 しかし、運動や変化ではなく、発生や歴史を考慮に入れようとするとき、時間とは何かが避けて通れない問題として現われてくる。経験の根底には意識の流れ、「体験流」なるものがあると説明するにしても、「流れ」とは何のことであろうか。河の流れのようなものは比喩にすぎない。流れるということの実質は、何であろうか。

 こうした流れる時間のもとで、意識が客観性にどうやつて到達することができるかをあきらかにすれば、そのことで、科学によって客観の側からのみ説明されようとしている精神の真の意義を再獲得することができるであろうし、科学が発見する知識の真の意義をあきらかにすることができるであろう--この意味で、時間についての考察は、デカルト主義の二元論に対決するための「挺子の支点」(デカルト)のようなものなのであった。

 そもそも従来の時間の捉え方には奇妙なところがあった。時間とは、過去と現在と未来からなるが、アウグスティヌスが述べているように、過去とは「もはや存在しないもの」、未来とは「いまだ存在しないもの」である。過去は記憶や記録によってかつて存在したとされ、未来は予測や運命によって存在するにいたるとされる。とすれば、真に存在しているのは現在だけということになる。現在といっても、瞬間として捉えるか、ある種の連続性をもって捉えるかはばはあるが、現在だけしか存在しないということになるのである。すでに説明したように、歴史的存在者が存在するのは、過去や未来においてではなく、永遠においてでしかない。そのようなものしか「存在する」といってはならないのである。

 他方、近代の物理学において確立された時間のイメージは、物を投げ上げたときの軌跡を描く際の座標の時間軸のようにして、直線を描いて中央に点を打って現在とし、左を過去、右に未来を割りあてるようなものであった。た、む、むとされる座標上のむの点を追って行くとき、それぞれの位置にそれぞれの現在むがありながら、むもむも同時に出現している。それにしても、同時であるなら、こちらもやはりみな現在である。物理学的運動は、時間を表現しているのではなく、現在のなかに見いだされる位置の変化を表現しているだけなのに、--しばしばぴとが錯覚するように--、これを延長して、すべての過去と未来をこれとおなじ矢印のもとで捉えるなら、すべての時間が現在と同等なものということになってしまうであろう。過去から未来へ向かふて「時間が経つ」ということが、理解できないものとなってしまうであろう。

 「時間が経つ」ということは経験にとって本質的であり、座標に書くような他の種の経験には解消され得ない。ベルクソンがいろいろな例を挙げているが、たとえばコーヒーに砂糖を入れたらそれが溶けるまで待っていなければならないし、ひとの足音も、カツ、カツ、カツと、まえの音が消えながらつぎの音が生じてくるというリズムを通じてでなければ聞こえてこない。同時であれば足音には聞こえなy-そのとき、足音は「存在しない」。

 時間が経つということは、一体何を意味しているのか。過去や未来は、存在としては無であるとしても、意識にとっては不可欠である。それは、何のことなのか。フッサールにも『内的時間意識の現象学』(一九二八年)があるのだが、ここではベルクソンの時間論を紹介していこう。

現代哲学の終焉

 現代哲学者たちは、新たに獲得された科学的知見を念頭に置きつつ、近代哲学の衣鉢を継ぐ大哲学を新規に展開しようとしていた。とはいえ、中世哲学やルネサンス期の哲学を復活させながら、近代哲学をやりなおそうとしていたと見える面ももっていた。ペルクソンの「直観」や、フッサールの「エポケー」や、ハイデガーの「存在」や、ホワイトへッドの「有機体」がその典型である。

 ベルクソンの「直観」は(古代ローマ時代に生まれてルネサンスで脚光を浴びた)新プラトン主義的であったし、フッサールの「エポケー」は(ルネサンス期に復活した懐疑主義の)ピュロン主義的、ハイデガーの「存在」は(中世スヲフ哲学での「存在の類比」、すなわち存在者一般の存在と神の存在とは質が違うと論じた卜マス・アクィナスの)トミズム的、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」は(ルネサンス期の自然哲学者プルーノの)物活論的であって、みなそれぞれにそれらをやりなおそうとしていたといえなくもない。

 かれらは、古代ギリシア・ローマの文明を再生しようとして世界と人間とを発見したルネサンスにならうかのように、それぞれに、もう一度「世界とは何か」、「人間とは何か」ということを問いにし、そこから近代とは異なった新たな哲学を生みだそうとしていた。その意味では、哲学の「ル・ルネサンス」、古代ギリシア・ローマの思想の「再生の再生」だったといってもいいかもしれない。はたしてかれらはそれに成功したのだろうか。

 現代哲学は一時期は熱狂的に受け容れられたが、しかし、かれらの著作にはひとつの問題があった。というのも、そこには、どんなに言葉がむずかしくてもよい、その方がありがたいという雰囲気がつきまとっていたからである。

 過去の哲学の栄光の残影もあるし、エリート知識人がまだ残存していた時代状況のもとにあったということもあるであろう。当時の哲学書を読んだのは大学生、まだ社会には少数しかいない知的エリートの若者たちだった。どの学部の学生であれ、哲学書を読めるということがその知性の証しであったが、哲学書とは、志の高いそうした初学者たちに対して、まず哲学諸概念の辛苦の勉学を要求する権威高い書物であった。

 哲学者たちの扱う哲学的諸概念とその論述は、「哲学は何らかの真理を語り得る」という前提のもとにあって、その点では、かれらの思想が、近代哲学に比べてどれだけ革新的であっても、過去の近代哲学の伝統の延長にあった。かれらの書き方は、哲学の過去の遺産と特権のうえにあった--かれらに引き続くどのような哲学書がありえたであろうか。

 「現代哲学」という名の現代思想は、いまや急速に忘れ去られつつあるように見える。現代哲学は時代に取り残されそうなぴとびとの救いとして、中世哲学や古代ギリシア哲学に関心を差しむけ、そうした現実を見ないですむようにさせる思潮でもあった。

 とすれば、かれらの議論は、自由平等な個人として理性的主体をめざすというような、近代的価値のもとに育ったタイプのひとにしか通用しないものだったのかもしれない。ポストモダンのぴとには、通用しないのかもしれない。近代哲学がなし遂げたような、その後の二〇〇年にわたってひとびとの心性を変え、社会制度を変える知を産みだすといった、思想の本来もつ決定的な威力を欠いていたようにも思われる。
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