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憲法での自由と平等

『憲法1 人権』より 法の下の平等

平等の理念

 人格価値の平等

  すべての人間は、人間であるというだけで、同一の権利を認められるべきだ。この考え方=人権思想は、才能・富などには違いがある個々人も、人間としての値打ちに上下があるわけではないという信念=人格価値平等の理念を前提としている(天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず)。もし、たとえば貴族はほかの人だちよりも高貴な(価値の高い)人間たというなら、貴族にだけ特別の権利を認めるのはむしろ当然だろう。そうした身分特権を拒否する人権思想は、つねに平等思想でもある。

  他人と比べて、理由なく不利な扱いを受けることに対するいきどおりは、人間の本源的な感情であると言えよう。平等は正義の感覚とも分かちがたく結びついている。他方、強い立場にある者が何かと理屈を持ち出して、自分(たち)に他人より高い価値を認めたがるのも人間の本性のようだ。平等と差別とのせめぎあいは、現実社会のなかでは多くの場合、弱者と強者との戦いである。社会の受益者・強者が平等の理念を理解するためには、弱者の立場からものごとを見る視点、他人と自分の立場を入れ換えて考える想像力が求められるということだろう。

 自由と平等

  人権思想は平等思想でもあるが、同時に個人の自由の承認でもある。自由と平等は、人権思想の根底にある個人主義哲学の盾の両面だ。ジョン・ロックの「自然状態」論がそうしたように,政府が存在せず、誰も他人の支配に服従する義務がない状態を想像してみれば、そこでは各人はお互いに自由=平等なはずである。ところが人間社会の現実では、自由と平等とはしばしば鋭い緊張関係に立つ。日本国憲法は基本的人権の保障を謳い、さまざまな自由を権利として保護するとともに「法の下の平等」も保障する。憲法は自由と平等とのバランスを求めているということだ。

平等条項の意味

 絶対的平等か、相対的平等か

  政府は、各人の相違を無視して、人々をつねに同一扱いしなければならない。この平等観を「絶対的平等説」と言う。平等とは各人がもつさま、相違を無視することではなく、等しいものは等しく、異なるものは異なる程度に応じて取り扱うことだ。この平等観を「相対的平等説」と言う。

  ① 立法者非拘束説十絶対的平等説。この組み合わせをとれば、議会が人々を互いに別扱いする法律を作っても平等違反ではなく、ただ行政と司法は、制定された法律を絶対的に平等に(法律に書いてある以外のいかなる例外も許さずに)適用すべきだということになる。

  これはこれで現実的な選択だ。

  ② 立法者非拘束説十相対的平等説。この読み方だと、議会は自分の判断で市民を相互に別扱いすることができ、さらに行政や司法も自分の判断による別扱いが許されることになって、憲法の平等規定はほとんど無に等しくなってしまう。

  ③ 立法者拘束説十絶対的平等説。この組み合わせは、議会が人々を互いに別扱いする法律を作ることは、絶対的平等を命じる平等条項違反だとみなすことを意味する。そうすると、累進課税のように金持ちと貧者とを別扱いしたり、年金制度のように老人と若者とを別扱いしたり、道路交通法でドライバーと歩行者、飲酒運転とそうでないドライバーとを別扱いすることは、すべて平等条項違反ということになりかねない。これではおよそ立法は不可能だ。

  ④ だから立法者拘束説をとる以上、相対的平等説以外の選択肢は考えられない。つまり立法者拘束説十相対的平等説、これが通説・判例だ。この立場に立つと、人々を相互に別扱いすることを定めた法律は、14条1項違反になる場合とならない場合とがあることになる。その見きわめをどうっけるか。それが平等規定の適用上、最大の問題なのである。

 機会の平等か、条件の平等か、結果の平等か

  人々を平等に扱う法とは、どんな内容の法なのか。この点についてもいろいろな考え方がある。伝統的な学説は、法的平等とは機会の平等、つまりチャンスの平等だと考える。たとえば、高校の卒業証書をもつ者は、性別・財産・年齢・宗教などに関係なく、希望すれば誰でもどの大学でも受験できる。これがチャンスの平等だ。しかし、受けたい人は誰でもどうぞと言われても、実際には学費がなくて大学進学をあきらめる人が昔はたくさんいた。「機会の平等」説によれば、それでも憲法の平等理念は実現していることになる。

  これに対して、チャンスの平等をほんとうに生かすためには、個人が現実に負っているハンディを、場合によっては法の力で埋める必要があるという見解が、福祉国家思想のもとで現れた。たとえば、学業が優秀な貧困家庭の子どもには、政府が奨学金を与えて大学進学を援助しなければ真の平等ではない。この考え方が「条件の平等」論または実質的平等論である。日本国憲法の予定する平等は、原則的には機会の平等であり、機会の平等を現実化するために必要なかぎりで、条件の平等も場合によっては憲法上要請されると言われている(佐藤幸・憲法)。

  しかし、事柄によって、条件を整えただけでは真の平等とは言えないという議論もある。たとえばこうだ。男性は外で仕事、女性は家で家事・育児、こういう観念で長いこと作り上げられてきた社会システムは、そう簡単には変化しない。たとえば公務員試験を受けたい人は誰でも受けられ(機会の平等)、そのために必要があれば奨学金も授与される(条件の平等)としても、男女平等を実質化するためにはこれだけでは不十分で、合格者を男女同数にするよう法律で義務づけることが必要だ。これが「結果の平等」論である。実際、アメリカやヨーロッパでは、公務員ポストの女性枠制度が取り入れられているところもある(アファーマティヴ・アクションないしポジティヴ・アクシ・ン=積極的差別是正措置とよばれる)。こういう仕組みをとると、試験の成績は上位だった男性が、女性枠確保のために不合格とされるケースも当然出てきて、これは逆差別だとの批判もある。極端な「結果の平等」の追求は自由の否定にもつながる。憲法が結果の平等を容認することはあっても、積極的に命じているとまで考えることはできないだろう。

  なお、男女の平等に関しては、最近では「間接差別」の問題が意識されるようになってきた。間接差別とは、たとえば住宅手当を世帯主にのみ支給するなど、外見上は性中立的な法令・基準・慣行が、一方の性(とりわけ女性)に相当程度の不利益を与えている場合を意味する。間接差別の禁止は、機会の平等を実質化する実質的平等の観念に属するといえるだろう。アメリカ最高裁の判例法理として発展してきた間接差別を、日本の判例が雇用の分野で認定した事案はいまのところ存在しないようだが、2006年6月の男女雇用機会均等法改正で、7条に雇用における間接差別禁止の趣旨が盛り込まれた。
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圧倒的な知識を習得する方法

『思考停止という病』より ⇒ 多読から何を生み出すか

知識の量がすべてを解決する

 ゴール設定ができたら、次に知識量を増やすことを考えてください。知識を得ることが、自分の頭で考える重要な要素になります。

 頭で考えるためには圧倒的な知識量がいるのです。

 クリエイティビティのあるなしは、もちろんあります。クリエイティビティが必要になるのが数学者です。誰も解けなかった問いの答えを証明する、新しい仮説を生み出すというのが仕事です。そういう職業の人は必要かもしれませんが、ビジネスマンであればほとんどの人には関係ありません。

 仕事で次にどのような戦略がいいか、来年の目標は何がいいか、予算をどうするか、人材をどうするか、などを決めるのにクリエイティビティはいりません。そのために必要なのは過去の最適化だけだからです。

 知識があれば自動的に答えは決まります。そこで答えが出なかったり、迷ったりするのは、単に知識・情報が足りないから、答えを決められないだけです。

 ただし、アプリオリがないということは、完全な情報は手に入れられないということです。だからこそ、どこの誰よりも多くの知識を手に入れることが大前提。99%正しいというところまで、情報量が必要です。

 あとは、そういう情報の量から信頼度を決めて、判断すれば、自動的に答えは出るはずです。

 考え続けるために必要なことの半分は、常に知識を手に入れ続けること。

 そして、手に入れた知識を常に評価することです。

 最後は、誰も到達していないクリエイティビティを出すことでしょう。そこまでいけたら立派なことですが、ビジネスマンの場合は、ほとんど必要ないのです。

知識量がランダムウォークを生み出す

 自分で考えるためには、まずデータや知識が必要になります。

 思考はランダムウォークであり、ヒルクライミングだと言いました。つまり、思考とは、記憶と情報の関連性を無作為に組み合わせていくものです。

 そこで必要なのが、情報であり、知識なのです。

 それが足りなければ、思考を組み合わせたり、ある問題を解決したりするための道筋を歩くこともできません。

 思考停止するのは、知識がないことが原因です。

 それでもなんとかやってこられたかもしれませんが、本気で自分の頭で考える脳を手に入れたいと思うなら、知識量を増やすことを考えましょう。

 簡単にいえば、勉強することです。

 勉強というとつまらなく聞こえるかもしれませんが、それはこれまでの学校教育のせいです。学校での勉強は、ほとんどの人が「つまらないもの」「大変なもの」と感じながら取り組んでいたと思います。

 しかし、そうではありません。

 あなたはすでにゴールを設定しているわけですから、勉強したいことだけをすれば良いのです。

 本当に興味があって、ゴールにつながっていることであれば、その知識を手に入れることは何より楽しいはずです。一つひとつの情報に対して、学んでいくことはこれはどない喜びに変わるのです。

 Have to の勉強ほどつまらないものはないですが、want to の勉強はこれほどない楽しみになるのです。

 たとえば、私は興味を持ったものに対して、徹底的に知識を手に入れます。ギターはもちろん、葉巻やライカ(カメラ)にハマると、10時間くらい語れるほどの知識を一気に吸収します。情報を仕入れるのが楽しくてしょうがないので、仕事を忘れるくらい夜通しでやってしまいます。

 仕事においても同じです。

 2011年、『現代版 魔女の鉄槌』(フォレスト出版)という本を上梓しました。この本は、電子書籍・SNSが日本に入ってきて、ニューメディアが生まれたことで、新しい魔女狩りが始まることへの警鐘を鳴らすものでした。

 この本を書く際、いくつもの魔女狩りに関する本を読み漁りました。

 仕事部屋は大量の書籍で埋まっていましたが、新しい情報を読むのが楽しくてたまりませんでした。もちろん、数日ですべて読破しました。

 日本人は、学ぶこと、勉強することは、大変なこと、つまらないこと、苦しいことだと思い込んでいます。

 知識の習得ほど、楽しく、面白いものはないのです。

圧倒的な知識を習得する方法

 知識を手に入れる一番いい方法が、本を読むことです。

 私はいつも、「大量の読書をしなさい」と言っています。しかし、そう言うと、「苫米地先生はできるかもしれないけど、私にはできない」

  「難しい本ばかりで疲れる」

  「何から読めばいいかわからない」

 など、できない理由をたくさん聞くことになります。

 しかし、結局本を読むことが知識習得の一番の近道です。他人の話をどれだけ聞いても、それはあくまで他人の話であって、知識にはなりません。短時間で、すごい人たちの知識を得られる方法は、間違いなく本だけなのです。

  「人の書いた文章じゃなくて、人の話を聞くのでもいいですか?」

 そう聞いてくる人がいますが、やはり本を読むほうがオススメです。

 視覚野というのは、後頭葉と呼ばれる脳の後ろ全体にもおよぶ大きい領域を占めており、目から入った情報を処理する部位です。

 V1からV5という5つの領域に分かれており、目から取り入れた情報は、もともと統合された情報ではなく、それぞれの領域で、色や形、速度、方向など、すべてがバラバラになって認識されます。それらを脳が統合し、私たちの認識になっているのです。

 視覚野からの情報を使うということは、視覚野だけでなく、海馬、側頭葉なども使って処理されます。そして、それが、前頭前野にて構造化されます。視覚を使って情報を手に入れるほうが、脳全体が働きやすいといえます。

 また、読書は大量に行うことができますが、話を聞くのは、大量に行うのも限界があります。思考を働かせるための知識習得で考えれば、読書のほうが有効に機能します。

 ではどうやれば、ラクに知識を手に入れられるのでしょうか。

 それは、やはりゴールがあれば違うのです。ゴールがない勉強はつまらないものですが、あなたが本気で興味を持てることであれば、知識は定着しやすいのです。
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仕事の終焉とアーレント『人間の条件』

『働くことの哲学』より ⇒ こんなところにもハンナ・アーレントがでてくる

経済学者タイラー・コウエンの言うところでは、現在進行中のテクノロジー革命の影響をもっともこうむるのは中間層だ。コウエンの見とおしにおける勝者は機械の技能を補完する技能を身につけている人びとだ。彼の見積もりでは、そうした勝者となりうるのは全人口の一〇から一五パーセントで、それ以外のひとは給料が下がるか変わらないままだ。オートメーション化にかかる費用は下がりつつあり、それにともなって給料にたいする圧迫も下がってゆくだろう。高い技能を要する仕事にはおそらく以前よりもさらによい給料が支払われ、低い技能しか要しない仕事の給料は、たぶん相対的に見て下がってゆくだろう。だからといって、飽食の時代が終焉を迎えるというわけではない。なにしろきわめて多くの生産品の価格が以前よりも安くなっているのだ。この価格の低下分が実質賃金における停滞を補うはたらきをする。

私たちが近年直面している問題は、オートメーション化が進みすぎていることではなく、進まなすぎていることだと言われるかたもおられるかもしれない。先進諸国では生産性の伸びはあからさまに鈍化しており、かりに多くのひとが論じるようにオートメーション化の影響が相当なものだとしても、じっさいには逆の事態が、すなわち以前にもましていっそう目ざましい生産性の増大が生まれるかもしれない。デジタル・テクノロジーが私たちの暮らしに、たとえばスマートフォンによってそくざに会話ができるようになるといったぐあいに、はかりしれない影響をおよぼしているにしても、大半の職業はそんなに大きく変化してはいない。オートメーション化によって、肉体を酷使する、危険をともなう単純な仕事はかなり減ったが、たぶんそれは歓迎すべき進歩だ。仕事がオートメーション化されてゆく規模はこれからも拡大しつづけるだろうが、それによって過去の遺物と化す職業が出てくる一方で、新しい職種も創造されつづけるだろう。私たちの前に広がっているのは、仕事のない世界ではなく、仕事が減ってゆくなどということがありそうもない世界だ。

将来の労働市場がどうなるかについて明確な予測ができるとはとうてい思えない。なにしろ、言うまでもないことだが、将来なにが発明されることになるかはいまの私たちには知るよしもない。今後数年のうちにどんな職業の需要が高まるかを予測することすらあまりに難しい。労働市場はどんどん変化してゆく。一九八〇年代に、ウェブサイトデザイナーにこれほどの需要が集まると予見していたひとはどれくらいいたのだろうか。ほとんどだれもそうは思っていなかった。だが、一九九〇年代にはいると、出会うひとがひとり残らずウェブサイトデザイナーになってしまったかのようだった。ドットコム・ハバブルが弾けたとき、彼らの多くが失業した。「本職は」俳優だと言いつのっていたあらゆるカフェやレストランのウェイターたちのなかに、突如として、「本職は」ウェブサイトデザイナーだと言いはるウェイターたちが紛れこむようになった。

労働の終焉について思索をめぐらすことは、新たなテクノロジーの導入に焦点をあわせるかたちで進められてきた。だが、小売部門では、セルフ・サービス・ストアの導入が、どんな技術革新にもまして強烈なインパクトを与えている。たとえばIKEAのフラット・パック家具のように、購入者が自宅で組みたてるタイプの生産物の需要が増加している。過去一五年から二〇年のあいだに、自分が何台のIKEAの本棚を組みたてたか、そして父親がもっていたよろず屋としての才能をまったくといってよいほど受けつがなかったがために、組みたてのたびになんど悪態をついたか、思いだしたくもない。こうしていまや、ある程度までは消費者が生産者にもなり、結果的に両者の境界線はどんどん曖昧になりつつある。そうなれば、消費者がその分だけみずから働くようになるのだから、工場にも市場にもそれほどスタッフは必要でなくなり、結果として失業者が増加するのではと考えたくなるかもしれない。じっさいにはその逆で、フラット・パック家具は、比較的安価なこともあってか、注文は増加傾向にあり、それにつれて雇用も同じ傾向にある。

これまでのところ、仕事の終焉をめぐるいっさいの憂慮は、現実のものになってはいない。じっさい、過去の数十年は、国によって著しいばらつきが見られはしたものの、驚異的な成長の時期であり、絶えず新しい雇用が創出された時期であった。いま私たちの知っている仕事がいずれどこかで終わりを迎える可能性を除外することはできないが、それが近い将来に起こることはないと請けあってもかまわないだろう。

ハンナ・アレントは『人間の条件』のなかで、現代社会は、仕事を神聖視するあまり、仕事を欠いた人生がどんなものとなりうるか、またどんなものであるべきかを見とおすことができなくなってしまったと論じた。「労働者の社会は仕事という足枷から自由になりつつあるが、この社会は、その自由を勝ちとられるに値するものにしてくれる、より崇高で有意味な別の活動については、もはやなにも知らない」。現代文化が仕事をそのイデオロギーのまさに核心にすえているという彼女の主張には抗いがたい。だが、私としては、私たちが仕事から「自由になり」つつあるという主張にはまったく同意しがたい。アレントの問題点は、仕事についての自身の観念に絡めとられてしまった結果、仕事は消滅したわけではなく姿を変えつつあるのだということを見損なったところにある。「仕事の終焉」は近い将来に起こることではない。仕事はその姿を変えつづけてはゆくだろう。そしてこんにち仕事とみなされているものの多くが--そして未来の世界においては、おそらくもっと多くのものが--、まえの世代がレジャーと呼んだものにおそらくずっと似たものになりはするだろう。そうはいっても、私たちがそれを仕事とみなすかぎりは、それは依然として仕事だ。

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OCR化した本の感想0424

『働くことの哲学』

 仕事の終焉が近づいている。ここでの仕事はメーカーとかサラリーマンである。「意思の力」でのハイアラキーの組織でのリーダーシップが幻想になっている。一人ひとりが原動力になる「存在の力」「サイレント・マジョリティではないけど、「何のために生まれてきたのか?」を問うときに、仕事では何も答えられない。

 では、仕事が終演になったときには、どんな社会になるのか、そこまでのシナリオはあるのか。「仕事」会社は「教育」学校と「生活k津」家庭と循環系で絡んでいる。これらすべてを順序よく変えていかないといけない。混乱からは何も生まれない。共有がベースになる。

『思考停止という病』

 「思考停止」という言葉が一番合うのが、太平洋戦争での日本の指導部であり、現在の日本の政治そのものです。この実態には触れてなくて、個人レベルの思考停止を扱っている。その対応策が、知識の量を増やすこととなっている。

 知識の量を増やすのに、多読は有効な方法です。私の場合も1万冊ぐらいから、周りが見えてきた。だから、1万冊が一つの基準なんでしょうね。そのために、図書館が必要であり、新刊書が必要です。

『憲法1 人権』

 自由に対する平等とか格差を定義したかった。憲法での平等の理念は意味があるのかわからない。国が平等を守ってくれるとは思えない。資本主義の元での税制とか解放では期待できない。自ら守ることが必要なんでしょう。

『リーダーシップ構造論』

 「意思の力」では、リーダーシップは幻想としてあるが、「存在の力」では、各人が分化しているので、統合することはできない。組織運営よりも、コミュニティを活かす道になる。このリーダーシップが発揮できているのは、乃木坂キャップテンの玲香ぐらいです。AKBの高橋ではダメです。

『現代思想史入門』

 「歴史の歴史」での歴史の概念をずっと、探っている。ヘーゲル「歴史哲学」が唯一だと思っているけど、フランス革命で展開が終わっている。それも西洋中心で、ムスリムはほとんど挙げられていない。

 国民国家のあり方、全体主義を経過した後の民主主義の状況から、新しいの「歴史哲学」をヘーゲルならどう見ていくのかという見識が必要になる。歴史の根底に触れざるを得ない。その答えはムスリムのおける個人と神との関係にあるような気がする。

『赤ちゃんの誕生』

 7月に生まれる未唯の子供をイメージして借りてきた。精子の群れを見ていると、「これは事実でない」という気がしてくる。後付された事実。個人の存在から発想しないと答えには行き着かない。だから、こんな世界がありましたとさ・・・。

『通勤の社会史』

 ざっと見たところ、「通勤」という言葉が引っかからなかった。だけど、最後にグーグルの自動運転車への野心ですべては変わった。自動運転車で、①交通事故を九割削減できる、②通勤に費やす時間とエネルギーの無駄を九割削減できる、③自動車の数を九割削減できる、のです。

 自動運転車が新たな公共交通機関となり、地域インフラでのシェア社会につながるような気がしてきた。その状況が見えてきた時に、クルマメーカーは追従できない。地域の中間の存在が主導権をとれるようにしていくシナリオが必要になる。

『視覚都市の地政学』

 「ルメイという男と東京大空襲」に述べたように、ナパーム弾は米国の根幹の姿勢です。精密爆撃から無差別爆撃へ。そして、実験のための原爆・水爆。国家における怨念の壁を破らないと、次の時代は開かれない。トランプ大統領で振り子は振りきれるかもしれない。
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