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仕事の終焉とアーレント『人間の条件』

『働くことの哲学』より ⇒ こんなところにもハンナ・アーレントがでてくる

経済学者タイラー・コウエンの言うところでは、現在進行中のテクノロジー革命の影響をもっともこうむるのは中間層だ。コウエンの見とおしにおける勝者は機械の技能を補完する技能を身につけている人びとだ。彼の見積もりでは、そうした勝者となりうるのは全人口の一〇から一五パーセントで、それ以外のひとは給料が下がるか変わらないままだ。オートメーション化にかかる費用は下がりつつあり、それにともなって給料にたいする圧迫も下がってゆくだろう。高い技能を要する仕事にはおそらく以前よりもさらによい給料が支払われ、低い技能しか要しない仕事の給料は、たぶん相対的に見て下がってゆくだろう。だからといって、飽食の時代が終焉を迎えるというわけではない。なにしろきわめて多くの生産品の価格が以前よりも安くなっているのだ。この価格の低下分が実質賃金における停滞を補うはたらきをする。

私たちが近年直面している問題は、オートメーション化が進みすぎていることではなく、進まなすぎていることだと言われるかたもおられるかもしれない。先進諸国では生産性の伸びはあからさまに鈍化しており、かりに多くのひとが論じるようにオートメーション化の影響が相当なものだとしても、じっさいには逆の事態が、すなわち以前にもましていっそう目ざましい生産性の増大が生まれるかもしれない。デジタル・テクノロジーが私たちの暮らしに、たとえばスマートフォンによってそくざに会話ができるようになるといったぐあいに、はかりしれない影響をおよぼしているにしても、大半の職業はそんなに大きく変化してはいない。オートメーション化によって、肉体を酷使する、危険をともなう単純な仕事はかなり減ったが、たぶんそれは歓迎すべき進歩だ。仕事がオートメーション化されてゆく規模はこれからも拡大しつづけるだろうが、それによって過去の遺物と化す職業が出てくる一方で、新しい職種も創造されつづけるだろう。私たちの前に広がっているのは、仕事のない世界ではなく、仕事が減ってゆくなどということがありそうもない世界だ。

将来の労働市場がどうなるかについて明確な予測ができるとはとうてい思えない。なにしろ、言うまでもないことだが、将来なにが発明されることになるかはいまの私たちには知るよしもない。今後数年のうちにどんな職業の需要が高まるかを予測することすらあまりに難しい。労働市場はどんどん変化してゆく。一九八〇年代に、ウェブサイトデザイナーにこれほどの需要が集まると予見していたひとはどれくらいいたのだろうか。ほとんどだれもそうは思っていなかった。だが、一九九〇年代にはいると、出会うひとがひとり残らずウェブサイトデザイナーになってしまったかのようだった。ドットコム・ハバブルが弾けたとき、彼らの多くが失業した。「本職は」俳優だと言いつのっていたあらゆるカフェやレストランのウェイターたちのなかに、突如として、「本職は」ウェブサイトデザイナーだと言いはるウェイターたちが紛れこむようになった。

労働の終焉について思索をめぐらすことは、新たなテクノロジーの導入に焦点をあわせるかたちで進められてきた。だが、小売部門では、セルフ・サービス・ストアの導入が、どんな技術革新にもまして強烈なインパクトを与えている。たとえばIKEAのフラット・パック家具のように、購入者が自宅で組みたてるタイプの生産物の需要が増加している。過去一五年から二〇年のあいだに、自分が何台のIKEAの本棚を組みたてたか、そして父親がもっていたよろず屋としての才能をまったくといってよいほど受けつがなかったがために、組みたてのたびになんど悪態をついたか、思いだしたくもない。こうしていまや、ある程度までは消費者が生産者にもなり、結果的に両者の境界線はどんどん曖昧になりつつある。そうなれば、消費者がその分だけみずから働くようになるのだから、工場にも市場にもそれほどスタッフは必要でなくなり、結果として失業者が増加するのではと考えたくなるかもしれない。じっさいにはその逆で、フラット・パック家具は、比較的安価なこともあってか、注文は増加傾向にあり、それにつれて雇用も同じ傾向にある。

これまでのところ、仕事の終焉をめぐるいっさいの憂慮は、現実のものになってはいない。じっさい、過去の数十年は、国によって著しいばらつきが見られはしたものの、驚異的な成長の時期であり、絶えず新しい雇用が創出された時期であった。いま私たちの知っている仕事がいずれどこかで終わりを迎える可能性を除外することはできないが、それが近い将来に起こることはないと請けあってもかまわないだろう。

ハンナ・アレントは『人間の条件』のなかで、現代社会は、仕事を神聖視するあまり、仕事を欠いた人生がどんなものとなりうるか、またどんなものであるべきかを見とおすことができなくなってしまったと論じた。「労働者の社会は仕事という足枷から自由になりつつあるが、この社会は、その自由を勝ちとられるに値するものにしてくれる、より崇高で有意味な別の活動については、もはやなにも知らない」。現代文化が仕事をそのイデオロギーのまさに核心にすえているという彼女の主張には抗いがたい。だが、私としては、私たちが仕事から「自由になり」つつあるという主張にはまったく同意しがたい。アレントの問題点は、仕事についての自身の観念に絡めとられてしまった結果、仕事は消滅したわけではなく姿を変えつつあるのだということを見損なったところにある。「仕事の終焉」は近い将来に起こることではない。仕事はその姿を変えつづけてはゆくだろう。そしてこんにち仕事とみなされているものの多くが--そして未来の世界においては、おそらくもっと多くのものが--、まえの世代がレジャーと呼んだものにおそらくずっと似たものになりはするだろう。そうはいっても、私たちがそれを仕事とみなすかぎりは、それは依然として仕事だ。

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