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学問の軌跡を読む 数学

『東大教授が新入生にすすめる本』より ⇒ ブルバキの『数学史』3500円は段ボール工場のアルバイトを三日行って、購入した。

1.前史(一九〇〇-一九五〇)

 日本数学における本格的研究成果は、高木類体論として知られる『相対アーベル数体について』(一九二〇)を嚆矢とし、やや間を置いて一九三六年から岡潔が多変数関数論の独創的連作を断続的に発表する。しかしながら、第二次世界大戦勃発以前に得られた数学的成果は、本質的には高木・岡に尽きるのであって、日本数学が全体として国際レベルに到達するのは太平洋戦争期のことであった(そうなるのには皮肉な条件が、あるいは作用したかもしれない。つまり、開戦による海外文献情報の途絶のため、数学者が自己の研究に集中せざるをえなくなったという事情である)。

 一九四一年、大阪大学の角谷静内が「不動点定理」を発表した。経済やゲームにおける一般均衡の存在の根拠として、あまりにも有名な結果である。翌四二年には統計局に勤務する伊藤清が確率微分方程式理論の和文速報を発表。後に「伊藤の公式」に発展し、さらに金融工学に応用されて、伊藤は「ウォール街で最も有名な日本人」と称されることになる。戦争末期の四四年には東京大学の小平邦彦がフィールズ賞受賞へとつながる「調和解析理論」の速報を出版した。まさしく太平洋戦争期こそ、日本の数学研究が飛躍的発展を開始した時期だったといえる。

2.アメリカの影(一九五一-一九六五)

 戦争が終結すると、日本の数学研究、より正確に言って日本人による数学研究は、にわかに百花繚乱の様相を呈すこととなるが、しばらくの間、その中心地は日本国内というより、むしろ米国であった。

 東京大学出版会が発足した五一年時点の日本から見れば、米国はまるで別天地だったろう。よりよい生活と研究環境を求めて、俊秀たちは続々と米国に渡り長く留まることとなった。いわゆる頭脳流出である。数学においては四八年の角谷静夫に始まり、小平邦彦、岩渾健吉、伊藤清、佐武一郎、広中平祐、志村五郎と続く。高度成長期に入ると頭脳流出ぱ次第に止むことになるものの、その後も有力大学の数学教室では、修士修了をもって採用された助手が、通常二年間、時には三年間、ハーバード大学、シカゴ大学など米国研究機関に客員研究員・助手として在籍し、もしくはブルシエとしてフランスに留学するのが慣行となっていた。七〇年代後半からは、米仏に加えてドイツや英国に行く者も増加する。しかし戦後を通じて最も重要な留学先といえば、プリンストンの高等研究所および大学であり、目本の有力大学から選ばれた英才たちの聖地となった。戦後日本の数学は、一時期プリンストン大学を中心に展開していたのである。

 プリンストン大学に在籍した日本数学者の代表として、小平邦彦の場合を見てみょう。一九四九年八月、三四歳の小平は、横浜港から米国へ旅立つ。文理大学物理教室の同僚、朝永振一郎も同船である。戦中に構想を得た調和解析論は、速報こそ帝国学士院紀要から出版したものの、紙不足の日本では長大な本論文を出版できない。そこで米国の雑誌に投稿することにし、渡米する角谷に原稿を託した。この原稿を一読驚嘆したワイルが、小平を高等研究所に招聘したのである。シカゴ大学で朝永と別れてプリンストン大学に到着したのはいいが、当惑したのは英会話に全然ついていけないことだった。みんなか笑っているから冗談を言っているらしいか、何についての話題か見当もつかない、という始末である。それでも、黒板を使って数学の講義やセミナー発表を始めれば問題なかった。数学の中身さえきちんとしていれば、会話能力など大した問題ではないのである。当時小平の連続講義に出席していた数学者の回想によると、小平の声は小さくて、最前列に陣取らないかぎりまず聞き取れない。そのかわり黒板には大きい文字を書き、それを書き写すと完璧なレクチャーノートができたそうである。

 高等研究所には米国のみならず、フランス、ドイツ、英国から、綺羅星のごとき研究者が集まっていた。小平はそこでフランス産の新手法であるコホモロジー理論を知る。この方法と自らが開発した解析的手法との出会いによって、小平は『複素多様体論』という沃野に巨輪の花々を咲かせることになった。まず博士論文の発展として「消滅定理」および「埋め込み定理」という画期的成果を挙げ、五四年フィールズ賞を受賞する。「複素構造の変形理論」の長大な連作がこれに続き、さらに「複素解析曲面の分類理論」関連論文十篇に至る。これらの仕事は代数幾何学、大域解析学の相貌を変えてしまったのみならず、超弦理論など数理物理にも影響をおよぼしている。小平は結局四九年から六七年までの一八年間米国に留まり、三巻一六〇〇ページの論文集に収められる膨大な業績を残した。

3.新しい数学スタイル(一九六〇-一九七五)

 数学大国として戦後登場したのは、米国とソ連、そしてフランスである。中東欧からユダヤ系など多数の数学者が亡命し定住した米国が、その経済力とあいまって数学研究の中心地となったことは、自然である。またソ連も、米国に対抗する一勢力として独自の学派を形成した。政治弾圧を受けにくい数学は、反体制的知識人が逃げ道として選んだ分野でもあった。そして第三の極はフランスであり、現代数学のスタイルを規定したという点で、フランスは米ソ以上の影響をふるった。新しいスタイルを主導したのは匿名数学者集団ブルバキであった。

 ポアンカレを代表とする戦前のフランスの数学は、明晰を旨としつつ直感をも重んじた。旧世代に反発した気鋭の数学者たちが、ドイツ数学の感化を受け、厳格な論理に基づく数学体系を書きあげようと結成したのが、ブルバキである。一一巻六八冊からなる『数学原論』で彼らか打出したのは、対象そのものよりも、それらの間の相互の関係のあり方、すなわち構造が基本であるという思想だった。その端的表現として、具体的数式ぱ最小限にとどめ、構造を表現する図式が多用される。叙述のスタイルとしては、論理的一貫性を重んじ、定義・命題・証明は能う限り一般化するかわりに、問題の意義・背景や自然科学への応用は論じない。よく言えばユニバーサルかつ明晰判明、悪く言えば抽象的かつ無味乾燥である。物理学者など数学を応用する立場の者からは使いにくいと評判か悪いけれども、ブルバキは代数や幾何の記述を決定的に変えた。今日、大学学部初年次数学の標準コースは微積分と線形代数から成る。しかし戦前の数学教育には「線形代数」というものはなかった。線形構造の重要性を発見し強調したのはブルバキである。数学科の「集合・位相」という必修科目があるが、距離を捨象した抽象的位相空間なども、ブルバキが広めたものである。

 ブルバキの数学は六〇年代から七〇年代前半、世界を席巻し、六八年からは『原論』の邦訳が順次刊行される。ちょうど筆者が東京大学に入学したころで、集合論や位相空間論、代数など、何冊かを読んだ記憶がある。日本でも構造の考え方を取り入れた教科書が現れた。その代表格が現在も定番となっている斎藤正彦『線型代数入門』(東京大学出版会)である。今あらためてこの本を読み返してみると、当時完成したばかりだったり、群理論への入門書という性格もはっきり見えて、六〇年代の匂いが漂う本である。

 ブルバキのスタイルをさらに先鋭かつ大規模に突き詰めたのは無国籍ユダヤ系数学者グロタンディークである。彼はブルバキが拠った集合論・位相空間論・代数学をさらに一般化して圏論・トポス理論・コホモロジー理論に替え、代数幾何の巨大な体系を築きあげた。その機能性と汎用性のゆえに、グロタンディークの用語は現代代数幾何の標準言語となっている。
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