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ヘーゲル 私(人間の精神)=世界

『14歳からの哲学入門』より へーゲル 稀代の楽天家ヘーゲル 私(人間の精神)=世界

結局、つまるところ、すべては人間の内側に生じる知識、すなわち、精神現象(「モノが在る」という思いが心の内に生じる現象)であるのだから、その精神現象の外側にモノが在るという言い方は原理的に決してできない。だって、「いいや、人間の精神現象の外側に、人間とは関係なしに、モノが存在しているんだ!」と言ったところで、それすらも人間の内側で生じた考え方のひとつにすぎないと言えてしまうからだ。

さぁ、こうなると、もうヘーゲルは、今までの哲学者が考えてきた世界観の構図をまるっきり否定してしまったことになる。今までの世界観とは、ようするに、

 「私が存在する。そして、私とは別に、独立した世界が存在する」

という世界観だ。まあ、素朴で、誰もが最初に考えつく当たり前の世界観のように思えるかもしれないが、この世界観を採用してしまうと、必ず、

 「では、私は、その世界をきちんと認識できているのだろうか?」

という認識論の問題が持ち上がってしまう。そして、実際、デカルトやカントをはじめとする哲学者たちは、この問題について取り組み、「できる、できない」を延々と考え続けてきたわけだが、ヘーゲルは、そんな世界観を思い浮かべたこと自体がそもそもの誤り、混乱のはじまりだと主張する。先に述べたように、人間から独立した世界(人間とは無関係に、人間の外側に存在する世界)なんてものは存在しないからだ。

人間にとって「世界だと呼べるもの」「世界だと思い込んでいるもの」の正体は、すべて人間の内側で発生している精神現象そのもののことであるのだから、正しい構図は次の図のようになる。

この構図に従うなら、「私は、世界のホントウの姿を正しく認識できているのか」などという問題は発生しない。なぜなら、「私が認識したものが世界」であり、「私の認識と世界」はそもそも同一だからだ。つまり、ヘーゲルは、それまでの哲学者たちが必死に考えてきた、認識と世界が一致するか、という問題をそもそも考える必要のない偽物の問題だったとして、あっさりと消し去ってしまったのである。

でも、そうすると、こう言いたい人もいるかもしれない。

 「モノが在るように見えたり、モノが法則どおりに動いたりするのって、実は、すべて人間の内側での出来事、精神現象だったんだよ、という主張の理屈はわかったよ。でも、そうは言っても、モノの動きって人間にはどうにもならないよね。それってやっぱり、モノが人間から離れて別個に存在しているってことなんじゃないの? だったら、その『別個に離れて存在しているモノ』を人間が観察(認識)しているっていう従来の構図のほうがどう考えても妥当だと思えるけど……」

いやいや、ヘーゲルに言わせれば、その「人間にはどうにもならないモノが存在しているでしょ」という考え自体がひとつの思い込みにすぎない。なぜなら、ヘーゲルの世界観では、「人間と対立する(思いどおりにならない)モノ」なんてのは存在しないからだ。確かに、今現在は、「人間にはどうにもならないモノ」「予測不可能なモノ」「理解不可能なモノ」すなわち「他者」が存在しているように見えるかもしれない。だがそれは、人間の精神が今はまだ未熟だから、そういう不可解な他者が「在るように見えているだけ」のことであり、それらはホントウは存在していないのだ。

なぜ、「存在していない」と断言できるのか。それは、人間の精神には「あらゆる対立を解消して成長していく」という弁証法的性質が備わっていることが、歴史的事実から明らかであるからだ。

そもそも、弁証法とは、「より高い次元の認識(理解)を手に入れ、物事の対立を解消していくこと」であるわけだが、それはようするに、「人間にとって不都合なこと、不可解なことを世界からひとつずつ消していく行為」であるのだから、弁証法を繰り返していけば、究極的には「世界には人間の思いどおりにできないモノ、理解できないモノは何ひとつない」という状態に達するはずである。ちなみに、仮に思いどおりにできないモノが残ってしまったとしても、僕たちはその「思いどおりにできない」ということを高い次元の認識から理解し、受け人れることが可能である。実はこの場合も対立は解消されたことになる。たとえば、こんな感じ。

 「なんで、七は二じゃないんだ! 七はどうして二にできないんだ! うわああ、全然思いどおりじゃねえよおお!」



 「あ、そうか、七は七でいいんだ! 悩む必要ないじゃん、解決、解決♪」

こうした「弁証法の果てに到達する究極の精神状態」においては、「モノ」というものは存在しない。なぜなら、僕たちがふだん、「モノだ、リンゴだ」と言っているものの正体とは、「人間と対立する何か」のことであり、その「自分には思いどおりにできないと思い込んでいる精神現象」に向かって「モノ」とか「リンゴ」とかの名前をつけて捉えてるだけにすぎないからだ。だから、すべての対立が解消された精神状態において「モノ」は存在しえない。

この究極の状態、すなわち「人間(主観)に対立するモノ(客観)がなくなった状態」の立場からすれば、「世界のすべてが私(精神)そのものだ」ということが実感できるだろう(手足を自分の思いどおりに自由に動かせたり、手足の動きを一〇〇パーセント理解できたりするとき、僕たちは、その手足を自分自身の一部だと考える。それと同様に、世界のすべてを理解できたなら、僕たちはその世界を自分自身の一部だと見なさざるをえないのである)。

 「主観と客観が別れている(=モノがある)」のが、精神が未熟ゆえの途中の状態にすぎず、「主観と客観が合一している(=モノがない)」のが、精神がいつか必ず到達する真の状態であるとしたら、やはり、従来の哲学者たちがやってきた「認識論の問題(主観と客観は一致するか)」は偽物の問題だったということになる。

ちなみに、いま述べたことをヘーゲルは、次の有名な言葉でこう表現している。

 「真理とは全体である」

すなわち、主観も客観もなく、人間もモノもなく、私もあなたもいない状態。すべての問題が解消され、すべての対立が乗り越えられ、すべての物事が理解され、そのうえで「すべてよし!」「ビバ!」と受け入れられた状態。そうした、完全にすべてがひとつに統一された究極の状態こそ、「真理」と呼ぶにふさわしいとヘーゲルは考えたのだ。

ところで、これらのヘーゲルの哲学が、東洋哲学とよく似ていると感じた人もいるかもしれない。その感想は正しい。というかもう、インド哲学の梵我一如、釈迦の仏教、老荘思想の道(タオ)、これらとヘーゲルの哲学は根本部分でまったく同じである。実際、東洋の哲学者たち、たとえば、禅の師匠たちに、認識論の問題をぶつけたとしたら、「グダグダ言うな!(主観と客観が分かれているという最初の前提が思い込みだ!)」と一喝して相手をぶん殴り、それでおしまいにしてしまうだろう。

さぁ、ここまでくれば、ヘーゲルがどれはどの怪物であり、どれほど偉大な哲学者であるかわかったはずだ。デカルト以降、西洋の哲学者たちが綿密に研鑽してきた「私がいて、世界を認識している」という世界観を、問答無用でトンカチで叩き壊し、釈迦を含む偉大な東洋哲学者たちと同等の世界観を西洋哲学の中に持ち込んで、認識論の哲学を終わらせてしまったのである。それゆえ、彼はこう呼ばれ称えられるのだ。「近代哲学の完成者」だと。
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