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「物体論」場所と時間について

『ホッブズ 物体論』より

存在しない諸事物をその名称によって理解したり計算したりできるということ

 自然に関する学説の端緒は、(既に示したように)除去によって、すなわち宇宙が消去されたと仮構してみることによって最もよく把捉されるであろう。しかし、、諸事物のそのような無化か前提されると、おそらく次のように問う人がいるであろう。すなわち、(諸事物のこの全般的消滅から唯一除外される)誰かある人間が、それについて哲学したり、またそもそも推論したりできるような、あるいは推論するためにそのものに何かある名を冠したりできるような、そのような残余物は一体何なのか、と。

 それゆえ私は次のように言う。すなわち、上述の人間にとっては、世界とあらゆる物体を消去する以前に彼が目で見たり他の感覚によって知覚したりしていたこの世界と諸物体の、その諸々の観念が残るであろう、と。これはつまり、大きさ・運動・音・色等々の記憶や表象像が残るであろうし、またそれらの順序や諸部分の記憶や表象像も残るであろう、ということである。そしてこれらはみな、それを思い描く当の人に内的に生じる観念および表象にすぎないとしても、それにもかかわらずあたかも外的であって心の力には決して依存していないかのように見えるであろう。それゆえ、彼はこれらに名を冠し、それらを差し引いたり合成したりすることになる。なぜなら、他の諸事物は滅せられてもこの人間だけは存続すると、すなわち彼は思考したり思い描いたり思い出したりすると仮定した以上、彼の考えることは過人のこと以外に何もないからである。じっさい、推論する際に私たちのしていることに注意深く心を向けてみれば、諸事物はたしかに存続しているが、私たちの計算しているものは自分の思い描く表象にほかならない、ということはもちろんである。なぜなら、天または地の大きさと運動を計算する場合、私たちは天に上ってそれを諸部分に分割したり、それの運動を測定したりするわけではなく、図書室や暗室の中で静かにこのことを行なうのだからである。ただしこれらの表象は2重の資格において、考量されうる、ということはつまり計算に入ってくることができる。それらはすなわち、心の諸能力が問題となっている場合のように、心の内的な出来事として考量されるか、もしくは外的諸事物の外観として、言いかえれば、あたかも存在していないのに存在しているように、つまり外にあるように見えているのであるかのように考量されるかのどちらかである。今はこの後のほうの仕方で考量がなされなければならない。

空間とは何か

 いま仮に私たちが、外的諸事物の仮定上の消去以前に存在していた何かある事物を思い出した、ということはつまりその事物の表象を持ったとし、しかもその事物がどのようなものであったかを考えようとはせず、ただそれが心の外部にあったということだけを考えようと欲するとすれば、私たちは空間と呼ばれるものを持つ。これは私の表象であるからたしかに想像上の空間であるが、しかし万人が空間と呼んでいる当のものである。なぜなら、それが既に占められているということのゆえに空間であると言う者は誰もおらず、占められることが可能であるということのゆえにそう言うのだから、言いかえれば、物体はその場所をそれ自身とともに持ち運ぶとは誰も考えず、同一の空間の中に、ある時にはあるものが、またある時には別のものが、含まれる--空間中に空間と同時に存在する物体を空間が常に連れ歩くとしたら、こういうことは起こりえない--と考えるのだからである。

 さて、このことは非常に明らかなことであって、哲学者たちが空間の間違った定義のせいで次のようなことをやっているのを見なかったら、説明の必要があるなどとは私も決して考えなかったであろうほどCである。それは1つには、この間違った定義からただちに、世界は無限であると推論していることで、彼らがそうするのは、空間とは諸物体そのものの延長であると考え、なおかつ延長には常にそれ以上の延長がありうると考えるかぎり、諸物体そのものが無限の延長を持つと主張することになるからである。さらにもう1つは、この同じ定義から、1つの世界よりも多くの世界を創造することは神にとってさえ不可能であるということを、根拠なく結論していることである。なぜかというに、仮に他の世界が創造されなければならないとすると、この世の外には何物も存在しておらず、それゆえ(空間の定義からして)いかなる空間も存在しないので、無の中に世界が置かれなければならないことになるが、しかし無の中には何も置くことができないのであるから、というのがその言い分である。けれども、どうして無の中には何かを置くことができないのかは示されていない。実のところはかえって、既に何物かが存在するところにはそれ以上何も置くことができないので、それだけ空虚のほうが充実よりも新しい物体を受け入れるのに適しているのである。そういうわけで、上述のような哲学者たちと彼らに同調する人々のために、これらのことを述べたのである。そこで私は、「空間とは現れている事物の、それが現れているかぎりにおける表象である」という空間の既定の定義へと戻ってきたと申し立てる。この「現れているかぎりにおける」とはすなわち、それを思い浮かべる人の外部にあるように見えるということ以外に、その事物のいかなる他の偶有性も考量されない場合の、ということである。

時間

 物体がその大きさの表象を心のうちに残すように、動く物体もまたその運動の表象を心のうちに残す。この運動の表象とはすなわち、今はこの空間を、次の瞬間には他の空間を通って連続的継起によって移行する物体の観念のことである。さて、このような観念ないし表象こそ、--人々の通常の言説からはかけ離れ、またアリストテレスの定義からはなおさらかけ離れてはいるが--「時間」と私が呼ぶものである。なぜ私が時間をこのようなものとして理解するかというと、人々は年が時間であるということは認めているが、しかし時間が何かある物体の偶有性か変様かもしくは様態であるとは考えておらず、したがって時間が諸事物自体のうちにではなく、心の思考の中に見出されなければならない、と認めることが必要になるからである。また人々は、自分よりも年長の人々の時間について語る場合、この年長者たちが死んだら故人の時間が、故人のことを思い出す人々の記憶の中以外のところに存在しうると考えているであろうか。これに対して、日や年や月は太陽と月の運動そのものであると主張する人々は、運動に関しては「過ぎ去った」というのは消滅するというのと同じことであり、「これから存在することになる」というのはまだ存在していないというのと同じことである以上、自分の言いたくないこと、すなわち、いかなる時間も全然存在していないし、存在したことがなかったし、これからも存在しない、ということを言っていることになる。

 なぜなら、「存在した」もしくは「これから存在する」と言われうるものについては、「存在している」ということもまた、かつて言うことができたか、もしくはやがて言うことができるようになるからである。それならば、日や月や年は、心の中で行なわれた計算の名称でないとしたら、どこにあるのであろうか。したがって、時間は表象である。ただしそれは、運動の表象である。なぜなら、どのような動因によって時間mが経過するのかを認識したい場合、私たちは何かある運動、たとえば太陽や自動機械や水時計の運動を用いたり、線を記してこの線の上で何かあることが起こるのを思い描いたりするからであり、これに対してその他の仕方では、いかなる時間も現れないからである。けれども、私たちが「時間は運動の表象である」と言う場合、これは定義のためには十分でない。なぜなら、私たちは「時間」というこの語によって、最初はここに、次にはあそこに存在するかぎりでの物体の運動の先後関係すなわち継起を指し示すからである。それゆえ、時間の完全な定義は次のとおりである。「時間とは、私たちが運動のうちに先後関係すなわち継起を思い描くかぎりでの、運動の表象である。」この定義は「時間は先後関係に従っての運動の数である」というアリストテレスの定義とも一致する。なぜなら、数を数えるというこのことは心の働きであり、それゆえ「時間は先後関係に従った運動の数である」と言うのと、「時間は数えられた運動の表象である」と言うのとは同じことだからである。これに対して、「時間は運動の尺度である」と言うのは上のような正しい言い方ではない。なぜなら、私たちは時間を運動によって測定するのであって、運動を時間のよって測定するのではないからである。
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