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ナチのホロコースト計画における鉄道の役割

『世界の鉄道』より 第2次世界大戦中の鉄道の役割

絶滅収容所に送られたヨーロッパ中の何百万というユダヤ人の多くは列車の中で終末を迎えた。家畜運搬車の中に80~100人のグループで詰め込まれ、ほとんど水も食料も与えられなかった。5~10%の人々がその移動中に亡くなったのである。

ユダヤ人の輸送はアドルフ・アイヒマンが直接担当。その邪悪な行為は1937年にはすでに知られており、ライヒ・セキュリティ・メイン・オフィス(Reichssicherheitshauptamt、RSHA)でその任務にあたった。

彼の部署から、あるいは関連部門のゲシュタポ警察(ホロコーストの主実行者)から、〈帝国鉄道〉への要請が出されて輸送・科金部門に送られた。そこから、ひとたび緊急度合いと輸送費用が決まれば、文書が列車編成と運行スケジュールを実際に担当する運行部門に回された。それはつねに特別列車に類別された。〈ドイツ帝国鉄道〉はこの大量輸送に対する支払いを要求した。人々は家畜運搬車にすし詰めにされたにもかかわらず、<帝国鉄道〉は片道3等料金を適用した。1Kmあたり4pペニヒだった。

列車で強制移送された人々の総数が400人を越えた場合は「団体料金(lkmあたり2ペニヒ)が適用された。各々の列車が2000~2500人を運んでいたことを考えると、この条件をほとんどいつも満たしていた。

乗車券や請求書は移送された人々にも、また直接ドイツ国にも発行されず、「中央ヨーロッパ旅行代理店」と呼ばれる国営事務所に宛てて発行された。この代理店はその罪のない名前とは裏腹にゆユダヤ人の大量強制移送を仕切っていた。支払金はユダヤ人から徴発した金銭から集めた。この死の列車は第三帝国が崩壊すらまで走り続けた。そして、1945年の1月から5月の間にソ連と連合国の軍隊が絶滅収容所の解放を始めた。

〈ドイツ帝国鉄道〉が当時果たした役割の責任を認識していた〈ドイツ連邦鉄道(DB)〉は、1998年にベルリンのグリューネヴァレト駅の17番線に特別な記念物を設置することを決めた(歴史家は、〈ドイツ帝国鉄道〉なしではその大規模殺戮は実行不可能だっただろうと認めている)。この記念物の中核は年代順に並んた186本の金属製の板からできている。その板の各々には強制移送の日付、移送された人数、ベルリンからの出発地点と行き先が記されており、線路わきの歩道に並べてある。

長い年月の間に17番線のレールの間に植物が茂ってきたが、列車は--その番線のそのプラットフォームから--同じ行き先に決して出発することがないことを象徴的に示すものとしてそのままにされてきた。

ノルマンディー上陸作戦のあと、ドイツ軍は退却するときに、連合国側に利用されるのを防ぐためにすべての鉄道施設を細心の方法で破壊した。 TNT爆弾で橋やトンネルを爆破する他に、ドイツ軍は鉄道用の「鋤」のようなものを考え出した。これは機関車の後ろにつけて引っ張って、フックのようなもので枕木を切り裂いて線路を使えなくするというものだった。この道具はドイツ軍が最初にグスタフ線(ガエータとサングロ川河口の間)を放棄したときイタリアで使われた。それからパダーナ平原とブレンナー峠に向て退却するとき、ゴシック線でも使った。戦争中でも鉄道はもちこたえなければならないというプレッシャーについて一例を示すために、ミラノーヴェネツキア線の重要な芸術的建築物のひとつであるパラッツォーロ・スッローリオ橋に繰り返し行われた連合国軍の空爆を思い起こしてみよう。

1944年7月23日から1945年4月にかけて、その橋は32回爆撃された。1857年に建造されたその橋は長さ883ft(269m)、高さ約130ft (40m)で9つのアーチがあった。ドイツの輸送網を妨害し混乱させた、多数の一般鉄道労働者による英雄的な行為にも言及すべきだろう。とくにフランスの鉄道労働者の行動は、戦後に多くの著名な映画の題材になって有名になった。

戦後、全体状況は悲惨だった。1940年には、イタリアの鉄道網は10、000mile(16、000km)あり、そのうち3、lOOmile (5、150km)が電化されており、2、800mile (4、500km)が複線だった。これに私鉄の3、OOOmile (4、800km)、そのうち電化されたl、200mile(1、900km)を加えなければならない。保有車両は蒸気機関車が4、177両、電気機関車が1602両、貨車が13万両、客車と貨車の中間のものが約1万3、200両に上った。同じように営業許可を受けた私鉄の車両も多数あり、その内訳は蒸気機関車が600両以上、電気機関車が383両、貨車が8、000両、客車が2、000両以上だった。5年後の数字は被害の大きさを際立たせていた。4、350mile (7、000km)の線路、電化された鉄道網のほとんど全部、使われているものが3、215mileのうち3、106mile (5、144kmのうち4、970km)、電話線がほぼ50、OOOmile (80、500km)、伝達に必須のもの、駅とクロッシング・ボックスと停車場の間で4、700mile (7、520km)だった。輸送機材は十分でなかった。たった1803両の蒸気機関車とわずか546両の電気機関車がそれでも使えたが、架線が破壊されたために実際上使用不可能だった。そして約4万両の貨車と1、200両の客車。
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