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100分de幸福論

幸福についての基礎資料

ドイツの哲学者ヘーゲルの「精神現象学」。ヘーゲルは、人間の精神がどのような成長を辿るのかを個人の意識と人類全体の歴史を重ね合わせて論じました。

人類の歴史をどのように見たかというと、それは人類はだんだん、だんだん、自分はこう生きたいよという自由への欲求が目覚めてくる事は、ある意味では大変良いことだと、ヘーゲルは考えたんですよ。

みんなと一緒という部分が切れて、自分だけの生き方を追求していくと、どんどん孤独になったり、孤独になっちゃうと何が起こるかというと、人間は人間と関わり合いながら、その中でこういうことをしようというのを見つけていきますから。本当に孤立化しちゃえば、生きる意味すら分からなくなっちゃう。

そうすると、自分の好きなように生きられるというだけではなく、もうちょっと、更に、他の人とつながっていく道まで含めて発見できないとほんとには幸福になれませんよ。大体、そういうことを考えた人です。

自由の欲求というのも、ただ単に寝たい時に寝たいというのも自由ですけれど、それだけじゃなくて、自分のプライドを貫きたいと、自分の価値を確認したいという、これはいってるじゃないですか。承認されたいというのも、人から自分というのをちゃんとした存在だと認めてほしいというのが入っているので。実は両方とも、自分の価値、自分のプライドを追求したいという、そういうものが人間にはある。

承認への欲求と、とことん自由になりたいよ。これが矛盾する。この矛盾をどう解いていったらよいのかというのが、ヘーゲルの考えの非常に大きなポイントです。自由を求める欲求と他人に承認された欲求。そのぶつかり合いを人間はいくつかの段階を経て、克服していくとヘーゲルは考えました。

まず、歴史の始まりというか、動物じゃなくて、人間になった時、人間は一体、なにをするのか。そういうわけで、人間はやっぱり、戦って勝ちたいというところが出てくるので…スポーツなんかと言うのは本当にそうで。とことん、自分のやりたいことを通して、承認もされて…。

うまくいけばですね。自分の価値を確認できるわけですよね。幸せですよね。自分でも「俺って勝ったぜ」と思うし、周りの人からも「お前すごいよ」と言ってもらえるわけでしょ。その形で生きていけば、素直に、スポーツやったり、お金儲けをしようとしたり、名誉をツ窮すればいいわけですよね。

ところがどっこい、人間はそういうふうに単純にできていないと、ヘーゲルはおっしゃるわけです。戦いに明け暮れたのち、人間の意識は次の段階に進みます。次のタイプはね「何か競争アホらしい」と思うんですよ。「富の競争? 大学入試の競争? 名誉の競争? なんだよそれ」って。「それ 競争の奴隷になっているだけじゃん」と思うんですよ。

そしたら、次のパターンは「俺、競争お~りた」と思うわけね。だから、人から認められたいというのは無し。自分で自分を認めればいい。もう、承認要らないんだと。俺、自由一本でいきます。

そういう意識のことをヘーゲルは「ストア主義」と言ってるんですが、ストア主義という哲学の流派が、特にローマ時代に流行って、その人たちは名誉とか出世とか、そういうのを一切無視するんです。世間の競争に巻き込まれず、自分たちだけの価値に従って、隠遁してもいいわけですし、生きていこうよ。そういうセンスがストア主義者なんですよ。

やっぱり自分だけで自分を認めるとやっぱり、さみしいですよね。じゃ、どういう方法があるかというので、また次のタイプが出てくるわけです。引きこもってばかりはいられない。意識は最後の段階に辿り着きます。

つまり、自分の個性を実現するんだ。そこにこそ、幸せがある。人と比較しない。自分の個性を表現する事だけが大事だから、競争、要りませんと思ってるんです。これがヘーゲルの考えた3番目の一番いい形なんですね。

それはどうなってるかというと、自由はやっぱり追求しているんです。自分がほんとにいいものを求めようと思っているから。ヘーゲルは人間の意識がさまざまな段階を経験した後、普遍的な価値を目指す「理性」へと成長していくと考えたのです。

人間というのは、当たり前ですけど…そもそも、この「自分」というのができたのは、ひとりではできないわけですね。いろんなものを取り入れて、人間って、できているので、そもそも自分は自分で育てたわけではないわけですね。他人を必要とする。

主人と奴隷の関係というのは、もし奴隷がいなかったら、この人は主人でも何でもないんですね。
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白熱教室“幸福学”

幸福についての基礎資料

最先端の研究がそのメカニズムを解き明かそうとしています。心理学、社会学、脳医学。さまざまな分野の研究が一緒になって、アカデミズムの立場から、幸せとは何かを明らかにしようとしている。

もともとは哲学の対象と考えられていたんですね。ですけど、心理学的な手法がちゃんと確立してきて、幸せをどういうふうに質問すれば、人々が幸せなのかが分かるようになってきたので、心理学的な研究が進み始めたというのが、最初だと思います。

ヨーロッパを中心とした先進国が上位に並ぶ中、日本は43位という低さでした。戦争などの大きな社会不安もなく、物質的にも恵まれた暮らしをしている日本。なぜ、このような結果が出たのでしょうか?

経済的な豊かさと幸せとの関係は、考えられているほど大きくないと述べている。また、お金の使い方にこそ、秘密があると言います。幸福学の最新研究や心理学的な実験の成果を織り交ぜながら、幸福になるお金の使いから「3つの法則」を解き明かします。

最近の、ある研究ではアメリカで年収が7万5000ドルに達すると、それ以上、収入が増えても幸福度は頭打ちになるという結果が出ています。人は買ったものについて話すことよりも、お金を使った経験について話す方を好む。こうした社会的な経験こそ、物質よりもはるかに心に大きな価値を生み出す要因です。モノを買うより経験を買う方がより幸福度を得やすい。その理由は「記憶に残り、自分だけの個性を感じ、他人と社会的価値を共有する事」にあります。

2つ目の原則「ご褒美化」について。「ぜいたく」が人間の幸福度を下げるのです。

最後に挙げるのは「人のためにお金を使うこと」。人のためにお金を使うことで、人間が幸福を感じるようになった理由は何でしょうか? 人間が他者への施しに喜びを感じるように進化したのはなぜか。恐らく、私たちの先祖が命をつないでいくうえで、他の人を助ける行為が非常に有益だったからだと考えられます。

興味深いのは「利己的な遺伝子」という従来の概念に反しているからなのです。人間はし烈な生存競争の中で助け合って進化してきたことになります。その頃の環境がどんなものであったか、正確に知る由はありません。

しかし、人類が比較的、小さな集団で進化し、互いに依存しあう必要があっただろうと考える研究者は増えています。特に身近な人とは団結していたでしょう。「与える喜び」が幼い子供や、貧しい国々でも認められる理由はこの点かもしれない。

人間の生き残りに欠かせないものなら、非常に強力で浸透性の高い影響が幼少期から現れるのも当然でしょう。
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シェールガスが流出したらとても危険

『文系のためのエネルギー入門』より エネルギーの未来--大統領に提言せよ 革命を起こした「フラッキング」技術 フラッキングによリ環境破壊が起きる?

ムラー フラッキングにおいてもう一つの深刻な問題は、燃焼する前の天然ガスが強力な温室効果ガスだということだ。二酸化炭素よりも非常に強力で、短期的には二酸化炭素の75倍と試算されている。ただ、太陽光が破壊してくれるので、長期的には25倍程度になるだろう。とにかく、この天然ガスを少しでも流出させてはいけない。天然ガスを採掘するときに数%が流出しただけでも、石炭を燃やすよりもひどいことになるんだ。

だから、私が考えるクリーンなフラッキング基準というのは、流出をl%以下にとどめ、モニタリングすることだ。これは実行可能なのだろうか? それはわからない。将来、君たちが大統領に選ばれたら、この問題に直面することになると 思う。

学生 原油の場合なら、流出すれば目に見えます。教授が言う基準ができたとして、フラッキングを行なう開発会社は天然ガスを流出させないと信じても大丈夫なのでしょうか。

ムラー ダメだ。絶対に信じてはいけない。

では、どうすればいいのか? 基本的に、天然ガスを流出させてしまったら、その施設を閉鎖するんだ。モニタリングは政府が行なうべきだね。

君が大統領になったら、厳罰を科すなどして、厳しく正確にこれを実行してほしい。私が話したどのガス開発会社も、ほかの競合他社がやらないのなら、クリーン対策にお金をかけようとは思わないと言っている。だから採掘条件は平等にしてほしいと言う。モニタリング装置も必要になるので、私はそれを探しているところだ。アメリカでは比較的モニタリングをしやすいと思う。というのも、流出があれば告発する人が必ずいるだろうからね。

途上国では、モニタリングしたり、流出させたガス開発会社に厳罰を科したりすることは難しいだろうね。だがそれしか方法がないから、いかにして途上国で実施するのかが大きな課題だ。

学生 流出の問題に関連してですが、「ウェル・ツー・ホイール(well to wheel)」、つまり「ガス田からタイヤヘ」という言葉を聞いたことがあります。天然ガスを輸送するときなどに流出が起きることが問題になっています。つまり、採掘地以外のところでも流出があることについてどう思われますか?

ムラー 確かに、天然ガスはパイプラインからも流出している。 2010年にサンフランシスコで、パイプラインから天然ガスが漏れて爆発した事故があった。じつはその事故で、どのくらいの量が流出したのか調べていたところなんだ。その件で最近コーネル大学の学者が論文を発表し、5~7%が流出したと主張している。これを業界の人間に見せたが、そろって「いままで見たことないほどばかばかしい論文だ。利益7%分のガスをだだ漏れさせるわけがない」と言う。

果たして流出を1%以下にとどめられるのか?

ガス業界の人間は、採掘地での流出量は|%以下だと信じている。だがコーネル大学が行なった調査ではもっと高い。この測定問題を解決してほしいと思う。いま、いろいろな研究グループが調査しているから、近いうちに結論が出るだろう。

学生 数十年後、発電が太陽光や風力に完全に切り替わった場合、送電網から直接エネルギー源を得られない自動車などに適したものは何になりますか?

ムラー 水素だろう。水素は、電気を使って作り出すことができる。だからある意味、水素をバッテリーと同じように使える。

もう一つの可能性は合成燃料。ィヒ学反応で作るものだ。炭素を水素と結合させ、直線に並んだ8個の炭素を水から抽出した水素で囲む。そうやってできるのが、ディーゼル燃料のような液体燃料だ。ただ、二酸化炭素が排出されるという問題もある。
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町内会・自治会は地域ガバナンスの主体となりえるか?

『新米自治会長奮戦記』より 地域ガバナンスの課題

コミュニティというと町内会・自治会といった地縁的コミュニティを指していたが、今日では多様な主体のネットワークによる運営形態が見られ、「政治的コミュニティが表現したり、さまざまな主体の連携の協働活動が形成されるフォーラムやアリーナとしての日常生活や生活設計を成し遂げる地域」として意味付けられるような新しいコミュニティをベースにしたアーバンガバナンスの必要性も提起されている。

コミュニティにも町内会・自治会のような地縁的コミュニティを指す場合もあれば、テーマコミュニティといわれるような目的型の組織にもコミュニティという言葉が使われる。しかし、ウェーバーが提唱するコミュニティVSアソシエーションと対置した概念に従えば、テーマコミュニティはアソシエーション(ボランタリー・アソシェーション)に近いともいえよう。

町内会・自治会は定常的な地域の運営に関わっている。しかし、地区計画などのまちづくりの課題に対しては、その定常的な活動を超えている。伝統的な農村集落では、これらの課題が発生したときには特別委員会を組織して区(区会)から委任されて検討した結果を総会にかけて事業を進めるという形態が見られるが、前述のように既成市街地の町内会においては民主的手続きも遅れ、一部の層が定常的業務を担っている状況ではそのような体制も組めない。そこで太子堂二・三丁目まちづくり協議会は公募による、誰もが参加できる組織として発足した。その結果が、新住民層がリードするまちづくり協議会と地主層がリードする町内会との対立となってしまった。

しばらくそのような対立が続いたあとに、ワンルームマンション開発問題、道路拡幅問題の沿道会議や広場づくりといった実践の舞台(アリーナ)の中で調整が図られ、そして両者の構成員でもあるメンバー(プレーヤー)の出現などによって、町内会とまちづくり協議会は一部重なりながらのキャパシティを広げて問題解決能力を高めていった過程を示した。

地域ガバナンスの最大の課題は、圧倒的多数の無関心層である。握千九答氏の悩みも根源はそこにある。

豊かさの時代、高度の情報社会、消費社会は記号の力によって個人を個人の世界に押し留め、そして周囲への目や関心を削いでいく、と前に述べた。ウェーバーが問題視した社会の官僚制化は、グローバル経済の今日、貨幣・官僚制の複合体としてわれわれの生活の背後に大きな力として君臨している。今やこの力は一国の政治、経済をも支配するかのような勢いである。これこそ前述のように〈鵺〉よりも巨大な怪物である。〈鵺〉などはまだかわいいものである。

このような世の中の流れに抵抗する人々や組織も生まれ、そしてそれを理論付ける思想家もいる。ハバーマスもその一人である。ハバーマスは「貨幣・官僚制の複合体」の支配下にある現代社会を救う概念装置として対話的行為を提唱している。ハバーマスは、ドイツのさかんな市民活動なども「成果志向的な目的合理的行為」においてではなくて、「諒解達成志向的な対話行為」として説明する。平たく言えば、市民活動は行政の手の届かない問題に焦点を当てて、その解決に向けて動き出す。「この問題に関心ある人、この指止まれ!」と呼びかけるかのごとく、イニシアチブが発揮される。そういう問題意識の共有や「わかってくれる」という喜びによって運動が広がる。そのプロセスにこそ意味があり、活動のエネルギーとなっている。そのうねりは大きな運動体に発展して、政治をも変える動きとなる。緑の党などはまさにそういう動きである。また最近の脱原発の動きも。

まちづくりに関して俯瞰すれば、フライブルグのソーシャル・エコロジー住宅「ヴォーバン」などはその典型ともいえる。フランス軍の駐留跡地、三八ヘクタールの開発プランの応募に、にわかに組織された環境系の運動家らのNPOの提案が採用されて、コーポラティブ住宅も「この指止まれ式」に居住者のワークショップで開発されていった。車を持たない、環境にやさしい、子どもにやさしいなどのコンセプトによって、二〇〇六年に実現された住宅地はまさに子育てにも適した未来型の持続可能な住宅地であり、そのマネジメントもNPOと各種の団体の連携によっている。営利活動促進法が制定された一九九八(平成一〇)年からだいぶ経過してNPOも数多く生まれてきたが、行政とNPOの連携もうまくいく事例ばかりではないし、NPOと町内会・自治会の連携もそううまくいかない。またNPO同士の連携もしかりである。
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