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新自由主義とグローバリゼーション

『ガバナンスとは何か』より グローバル・ガバナンス

一九七〇年代末から八○年代初頭にかけ、多種多様な問題が勃発し、第二次世界大戦後の西側世界が共有してきた国際関係と世界経済の最善のマネジメント方法についてのコンセンサスが崩壊した。こうした問題に対し、各国の政策担当者は、市場メカニズムを導入し、自由貿易を重要視するという新自由主義的対応を見せた。

新自由主義の大半は、フリードリヒ・ハイエクをはじめとする学者によって展開された全体主義批判を反映している。ハイエクは、計画と国家行動は本来的に欠陥をもつと信じ、計画作成者は個人個人の主観的選好を知りえないのだから、どのようにしても資源の誤配分が生じると論じた。計画作成者は、主観的選好を知る由も測る由もないので、どうしても自分自身の見解と判断に従って資源を配分し、その結果、資源を特殊権益に渡してしまい、汚職の蔓延を招くという議論だ。そこで新自由主義者は、計画の代替案として自由市場を擁護した。彼らの議論は、国家は経済に介入すべきでなく、ただ法による統治を守り、市場が適正に機能することを可能にすべきだというものだった。

後にワシントン・コンセンサスと呼ばれるにいたる合意を取りつけるうえでアメリカが強大な影響力を行使したことから、この新自由主義が一九七〇年代の国際金融機関を席捲することとなった。新自由主義者は、市場改革と自由貿易を経済援助と絡めて促進した。この点に関し特筆すべきは、世界銀行が新自由主義的な政策改革と連結した構造調整借款を導入したことだ。それ以前は、投資貸付はプロジェクト出費に対して分配されていた。対照的に構造調整借款は、国が新自由主義的色彩の強い経済政策に移行することに伴う費用をカバーするもので、新自由主義的改革を採用する国だけに提供された。

一九八五年一〇月、ジェームズ・ベーカー米財務長官は、開発途上諸国に対し、減税や国営企業民営化、貿易障壁削減、投資規制の緩和など、新自由主義的改革をとることの見返りに、債務返済を繰り延べるという計画を提案した。ベーカーは、「何にもまして、主要な債務国が、成長を促進し、インフレ率を下げるために、国際収支調整を推し進める包括的マクロ経済・構造政策を採用すること」を提唱した。この計画に最初に名乗りをあげたのはメキシコであり、同国は翌一九八六年に、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)に加盟し、一九八八年末までに、関税を最大でも二〇パーセント、平均では六パーセントにまで引き下げた。メキシコは、同時に積極的な民営策をとり、国営企業は一九八二年のこI〇〇社から、一九八八年には五〇〇社へと激減した。その後、一九八九年の三月には、二コラス・ブレイディ米財務長官が、ベーカー計画の後継案を提示した。このブレイディ案はベーカー案とは多くの点で異なってはいたものの、これも新自由主義的改革を促進するために債務返済の繰延を利用する点では共通していた。

新自由主義的政策は多方面から批判を浴びることになり、一九八九年には世界銀行は力点を構造調整から良いガバナンスヘとシフトさせることになった。世界銀行のとった行動は、経済改革だけでは開発を確実なものにはできないことを実質的に認めたことになり、この後、開発途上国には汚職と失政を取り除くための政治改革が求められるようになった。その結果、二〇〇五年までには、借款の受け取り手に要求される条件のほぼ半数が、公的セクターのガバナンスに関するものになっていた。

新自由主義が国境を越えた交流を促進していたのと、ちょうど同じ頃、冷戦が終焉を迎えて、旧来の国際安全保障二極システムが崩壊した。こうした経済的、安全保障的変動が相侯って、グローバリゼーションの説明に材料を提供した。

グローバリゼーションは、複雑で、いろいろな争点を内包した考え方だ。多くの社会科学者がこの言葉を、彼らが国境を越えた交流と相互依存の高まりだと捉えている現象を表現するために使っているが、なかには懐疑的な見方もある。それでも、人々や資本、物品や情報の国境を越えた流れが大幅に拡大したことは事実として観察されている。さらに、こうしたことの結果でもあるのだろうが、多種多様な国境を越えた政策問題が日に日に重要になってきてもいる。

グローバリゼーションに関する初期の研究は、経済変化に焦点を当てていた。経済学者は、国同士の貿易が拡大し、多国籍企業の規模とパワーも拡大したうえに、この二つにも増して金融資本の移動の自由化が拡大したことに注目した。今日、グローバリゼーションは世界一様ではないことを強調する経済学者がいる。グローバリゼーションは、本当はアジアとヨーロッパと北米だけの現象であり、その中でも主として少数の大都市での現象だと言うのだ。グローバリゼーションは、アフリカの大半などそれ以外の多くの地域をバイパスしてしまっていると説く。

グローバリゼーションに関する最近の研究は、たとえば環境問題や安全保障など、経済政策とは異なる課題も含むまでに広がっている。環境問題は、日に日にその重みを増している。環境問題の多くは、もともと全地球的な問題である。気候変動などの問題は、国家単独では対処しきれず、全世界的行動を必要とする。同様に、テロリスト集団に世間の耳目が集中しているのは、安全保障がこれまで以上に全世界的問題か、少なくとも国境を越えた問題になってきているからだ。テロリストが国際的に活動している場合、これに対して効果的な手を打つためには、攻撃対象となっている国とテロリストが本拠を置く国との間の協力が必要となる。さらにテロリズムは、貧困と武力対立が蔓延して、国民が国外に避難場所を求めざるをえないような破綻国家からも発生しうる。こうした難民の存在は、それ自身、国境を越えた問題となってしまうことも多い。
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ノモンハンに見る国家の意思の力

社会における存在の力

 意思の力で社会はなっているのではなくて、本当は存在の力でなっている。それとも、今までは意思の力であったけど、今後は存在の力なのか。ある意味では、カントは表面的にしか見ていない。

 社会の定義のところから、もう少し掘り下げましょう。

パートナーの武器

 パートナー自身は気づいていないけど、武器は存在の力です。相手も存在の悲しみの中にいる。それを活かしたいと思っている。敵にするのではなく、一緒にやっていくのが社会です。

 名古屋の文化の中で認めさせるのは難しいけど、販売店にファシリテーションしてきた経験が生きると思います。

ノモンハンに見る国家の意思の力

 国家の力というのは、意思の力とともに衰えている。戦争がなくなったからです。争っても何も得られない。単に人口抑制するだけです。

 ノモンハン(1939年)で日本人がロシアと対峙した時に、思うわけです。俺はなぜ、こんなところで、こんな寒い所にいるのか。ロシア人も同時に思うわけです。革命のためなのか。シベリアと変わらないモンゴルになぜいるのか。そして、ジューコフは初戦です。社会をよくするための革命だったはずなのに。

 日本は中央集権の果てに、こんなところに送り込まれて、何の大義があるのか。

 本来の社会主義はそれをめざしているはずだけど、究極の共産主義で片一方は戦争しようとしてる、ウクライナの資源を巨大な武器に変えている。

 原因の原因を追究しないのは間違っています。キリストがいた時は、神の性にすればよかったけど、神が死んだあとは、自分が全てを考えないといけない。なぜ、そこにいるのか。ノモンハン、シベリア出兵、ここまで国家のために尽くさないといけないのか。国家は何をしようとしたのか。
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