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奇跡的な人類の存在

存在の力に対する使命感

 全てを知りたいに向かっているとは思えない。言い訳ばかりやっている。多分、存在の力に対する使命感が足りないです。

 全てを知りために、時間とか思考(数学、歴史、社会)を与えられているのに、躊躇している。

店舗コミュニティから始まる理由

 第8章の未唯宇宙を開始した。なぜ、店舗コミュニティから始まるのか。それまでの思考の結果、位置づけをそれにしています。店舗のコミュニティ化と情報共有が存在の力を発揮するためのベースである。

 それまでの論理はその前の項目で明確にしていきます。ここでは、あくまでも、それを前提とします。存在の力を使って、人が多ければ多い程、やっていける世界の仕組みを作ることです。

 ここまで考えたところで、未唯宇宙をどう解析するのか。参考資料の内容を確認しながら、各項目の趣旨を拡大します。項目から人類のことまで、ある面では拡大させます。

奇跡的な人類の存在から

 1兆年を経て、時間的制約、空間的な制約のもとで生まれてきた人類に関わらず。

 お互い同士が何かをするとしても、意思の力でするということは、他人に対して、損害を掛けることになります。そんなことよりも、やることは一杯あります。仕事という名の疎外を魅力にしてはいけない。

 ポータルの仕事はどうなるのか。ICJにしても、お客様を見えるようにすることが、存在の力では重要です。管理系の仕事は在りさえすればいい。データバースをいかに使えるようにして、スタッフの武器にしていくことができることです。

 それを細分化したつもりでいるのでしょう。だけど、内容は全部違います。それにしても、ここの連中は何を目的に、システムを作っている振りをしているのか。

 組織の麻薬はその部分です。自分がそんなことを知らなくても、とりあえず行けば、お金になる。暮らしていける。そして死んでいける。

 それが本当に生まれてきた理由なのか。このタイミングで、地球に生まれてきた理由なのか。それとも、皆、ゼロから生まれてきたのか。何も考えずに、境遇によって異なるのか。では、私の意識はどこから来たのか。

Iさんのスケジュール

 Iさんのスケジュールを語られた。明日は居なくて、木・金と居るそうです。来週はほとんど、バックヤードでミーティングだそうです。わざわざ、それを伝えるために、出てきました。今から昼の休憩だそうです。

 今日、会えてよかったと言ってくれます。気を使ってもらっている。

中心がない世界

 存在の力では、中心がない世界になっています。意思の力の場合、求心力と言う、中心が必要です。カリスマの場合は大きくぶれます。それがどうなっていくのか、どういう意味を持つのか。

 人間の尊厳そのものです。存在の力は人間の尊厳です。

道元の仏教と存在の力

 仏教の人間は最初から仏性を持っている、完成しているというのは、多分、その辺の感覚でしょう。それをいかに守っていくのか。次の世代につなげていくのかが目的だったはずです。道元もそれを知りたくて、わざわざ、中国に渡ったのでしょう。

 そんな生まれてきた理由を考える前に、生きていくための手段を考えます。影響力が強いのは親です。親に従うことで、本来の仏性がなくなります。

 親から変えていかないと、存在の力を共有の概念にできない。

 生きていくための手段と存在の力をつなが得るには、儲かるコミュニティを現実のものにすることです。
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ヘーゲルとの対決(第八二節)

『存在と時間』(四)梗概より 第六章 時間性、ならびに通俗的時間概念の根源としての時間内部性

ヘーゲルとの対決(第八二節)

 ヘーゲルによれば、歴史とは精神の歴史であって、歴史は時間のなかへと落ちこんでゆく。ふたつのことがらが問われなければならない。すなわち、1へーゲルは時間の本質をどう規定しているか。2精神が時間のなかに「落ちこむ」ことを可能とする、精神の本質とはなにか、である。

ヘーゲルの時間概念(第八二節a)

 アリストテレスと同様にへーゲルも、自然の哲学の枠内で時間を論じている。ヘーゲルによればとりあえず空間も時間も抽象的な相互外在なのである。ヘーゲルにあってしかし問題は、空間が時間へと「移行」することであって、空間が時間で「あり」、前者の真なるありかたが後者のうちにあることである。

 空間はたがいに区別される点について、その数多性をふくんでいる。点は空間中に区別をもちこむものでありながら、それじしん空間にぞくする。ヘーゲルによれば、点という否定性は、みずからに対して定立された場合には時間である。点はそれだけで定立されるならば、「いま」という点であり、点は時間のうちで現実性を有する。それゆえに空間は時間なのである。それでは時間そのものとはなにか。

 ヘーゲルによれば時間とは、自己の外に存在することの否定的な統一である。時間は存在であるが、それは存在することによっては存在せず、存在しないことによって存在するからである。時間とは、かくして「直観された生成」にほかならない。

 こうしたへーゲルの時間解釈はやはり、通俗的な時間了解のうちにある。へーゲルが時間について導入する「いま」もまた水平化されたものにすぎない。とはいえ、時間を「否定の否定」ととらえるへーゲルの弁証法的な時間概念こそが、時間と精神との関連を問うことをへーゲルに可能にしたのだ、とハイデガーは指摘することで、次項へと考察をつないでゆく。

ヘーゲルにおける時間と精神(第八二節b)

 ヘーゲルによれば、精神はみずからを実現することで時間のなかへと落ちこむことになる。そのために精神はどのように理解されているのだろうか。

 精神の本質は概念である。精神は非我つまりじぶんではないものを区別しつつ、それを包括するかぎり、精神の本質もまた否定の否定にある。否定を否定することが精神の絶対的に動揺的な面であり、その自己啓示なのである。へーゲルによれば、精神の発展は自己を概念へともたらす。その精神の発展は否定の否定であり、時間は直接的な否定の否定であるがゆえに、精神は時間のなかへと落ちこむことになる。-そればかりではない。時間のなかで精神は「歴史的」に実現する。へーゲルにあってはいっぽう時間が水平化された世界時間と考えられているから、時間はあくまで目のまえにあるものとして精神と対立する。精神が根源的な時間性にもとづくものではないか、という問いがヘーゲルにはそもそも欠落しているのである。これが、ハイデガーのみるところでは、ヘーゲルとじぶんとの差異なのだ。

 実存論的分析論が示したのは、時間性が実存を根源的に可能にするものであるしだいである。精神が時間のなかへと「落ちこむ」のではない。むしろ事実的実存が、「頑落」しているものとして、根源的な本来的時間性から脱落する。この「脱落」はいっぽうで、時間性の時間化の一箇の様態のうちに、みずからの可能性を有しているのである。
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