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トゥキディデス『歴史』

『名著で読む世界史』より

○歴史の法則を描こうという努力

 そもそも、このペロポネソス戦争の原因は何かということなのですが、アテネが海軍か利用してどんどん栄えていったので、ペロポネソス半島のその他のポリスがそれにやき気ちをやいたというのが真相であろうといわれています。

 トゥキディデスもヘロドトスの形式と似ているところがあって、登場人物に演説をぶたせる手法を使っています。演説によって、戦争の原因を示唆するものとしてニキアスの和約(戦争終結を目的に紀元前四二一年に結ばれた講和条約)が守られなかったからだ、というようなことをいわせています。そしてその一方で、本当は嫉妬が原因だというようなことをいう人も登場させるのです。

 一方、ヘロドトスとは対照的に、伝説の要素は除かれています。ヘロドトスの『歴史』のような物語的なおもしろさがない分、歴史を動かす法則のようなものを描こうという努力があるのです。歴史や社会の動きには、法則性があって、その条件や原因、因果関係を正確に学ぶのが歴史であるという考えをトゥキディデスは持っていたようです。

 トゥキディデスは、『歴史』を、十年の冬と十年の夏というふうに分けて、そうした時間的な経過の枠を定めて書いているのです。十年の冬と十年の夏、つまり二十年ということになります。結局、二十七年間の戦争のうち二十一年間のことしか書いていません。このような季節に分けて書いたのは、古代ギリシアの医師・ヒポクラテス(紀元前四六〇年頃~紀元前三七五年頃)の『病状診断記』の影響ではないかという説もあります。

 また、戦争にいかにお金が重要であるかということも非常によく書いています。富がなければ政治力も弱いし、内乱も大きな戦争もできないというようなことも述べています。富の蓄積の手段としては第一には農業があり、もう一つには海洋を通じた商業があるけれども、農業を中心としたスパルタよりも、海洋を通じた商業を行ったアテネのほうの富が大きかったことを示しているのです。「海を制する者はギリシアを制す」というアテネの考えがあったらしいのですが、それでも結局、アテネはスパルタに勝てなかったわけです。

○演説で浮かび上がる歴史の真実

 『歴史』の叙述は二十一年間です。夏と冬に分けられ、正確で簡潔明瞭、そして四十ぐらいの演説が入っています。そのうち、実際にトゥキディデスが聞いた演説は十回足らずだろうといわれています。

 そのことによって、当時の人々が、演説によって動いていたことがよくわかります。重要な会議や会談について、それに対する賛否の論が、それぞれ演説の形で『歴史』の中には出てくるのです。そうすると、事実と演説(言葉)の違いが浮かび上がってきたりするので、そこがおもしろいわけです。ペリクレスの支配に対する演説などは、非常にうまいわけです。そうした賛否両論の演説がたくさん並べられているので、ある意味、非常に公平であるといえます。

○歴史における遠因と近因に対する洞察

 また、歴史には遠い原因と近い原因があるということを実感として感じることができます。というのは、歴史には、最も近い原因が必ずあるわけですけれども、演説の中には、遠い原因がとなった恨みや、世に秘められた原因のようなものも述べられているからです。

 そこで浮かび上がってくるのは、直接の原因は、ペロポネソス半島から遠く離れたポテイダイアとかケルキュラというギリシア半島から見たら植民地みたいなところにおける争いということになっています。しかし、本当の原因は、アテネが少し儲け過ぎて、大きくなり過ぎて、他のポリスからの恨みを買ったということを示しています。

 開戦前にスパルタで開かれたペロポネソス同盟の会議の演説もみんな入っていますから、どのような状況で戦争が始められたのかが非常によくわかります。敵側の目に映っていたアテネの様子もわかりますから、ギリシアの諸都市がアテネに嫉妬していたこともよくわかるし、本当の原因とされているポテイダイアというのは、地図で見ますとギリシアの北のほうにおけるアテネとコリントの争いのように見えるかもしれないけれども、本当はそうではないということもよくわかるのです。

 トゥキディデスの『歴史』では、人々によって実際に話されたことが重要です。

 ヘロドトスの場合は、誰それは次のような話をしているという表現で報告をしているのですが、トゥキディデスは、次のようなことを彼はいったというふうに、自分が聞いたように表現しています。同時に、聞いたことだけでもなくて、正確に調べようとした立場もあったようです。しかし、こういう書き方は現代史に限られます。
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哲学的知識の限界

『哲学入門』より

ここまで哲学に関していろいろと述べてきたが、ほとんどの哲学者がその著作で、かなりのページを割いて論じている多くの問題には、まったくと言ってよいほど触れてこなかった。哲学者のほとんどが--少なくとも、かなり多くが--アプリオリな形而上学的論証によって、宗教の根本的教義や宇宙の本質的な合理性、物質は幻想にすぎないこと、本当は悪は存在しないことなどを証明できると公言する。そして多くの人が、こうした主張を信じるべき根拠を見つけ出したいと思い、それゆえ生涯哲学を学びつづけるのである。そのことは疑いようがないのだが、そんな希望は空しいと私は思う。形而上学によっては全体としての宇宙に関する知識は得られないのではないだろうか。論理法則によって、これこれのものが存在しなければならないとか、それとは別のものが存在しえないとする証明が提起されているが、それらはどれも批判的な吟味に耐えられそうにない。本章では、こういうアプリオリな論証の試みを手短に考察し、そういう妥当な論証が可能であるという希望が持てるかどうかを見出したい。

近代の哲学者の中で、いまから検討しようとする見解を持っていた代表的人物はヘーゲル(一七七〇ー一八三一)である。ヘーゲルの哲学は非常に難解で、どう解釈するのが正しいのかは、注釈者の間でも意見が分かれる。私は、大部分とは言えないが多くの解釈者が受け入れており、哲学として興味深く重要なものになる読み方を採りたいと思う。その解釈に従うなら、ヘーゲルの中心的テーゼは次のものである。すなわち、唯一無二の全体[The Whole]に達しないものはいずれも断片的でありぃそしてまた世界全体の残りの部分によって補われないかぎり存在しえないのは明らかだ、ということである。ヘーゲルによれば、比較解剖学者がひとかけらの骨から、その動物は全体としてどういう種類のものだったのかを理解するように、形而上学者は一片の実在から、実在は全体としてどのようなものであるはずかを--少なくともその輪郭だけでも--見て取るのが仕事である。実在の断片は一見、互いに切り離されてあるように見えるが、いわばいくつもの鈎を持っていて、それをとなりの断片にひっかけている。そしてひっかけられた断片が今度はそのとなりの断片に、という具合にどんどんつながっていき、宇宙全体が復元されるのである。断片が本質的に持つこの不完全性は、思考の世界と事物の世界の双方に等しく見られるとヘーゲルは言う。思考の世界については、抽象的であったり不完全だったりする観念はいずれも、その不完全性を忘れるなら、私たちを矛盾に巻き込むものだということが分かる。

そしてこの矛盾は、元の観念をそれと対立する観念--あるいはアンチテーゼ--に変えてしまう。この矛盾から逃れるためには、元の観念とそのアンチテーゼを統合する、不完全さの少ない新たな観念を見つけ出さなければならない。だがこの新しい観念は、元の観念よりは不完全さは少ないとはいえ、依然としてまったく完全というわけではなく、そのアンチテーゼヘと変えられてしまうことが判明する。そこでさらに新たな統合がなされなければならなくなり、そしてそこからまた、というようにヘーゲルはどんどん突き進み、最後には「絶対観念」に到達する。ヘーゲルによれば「絶対観念」にはいかなる不完全性も対立物も、さらなる発展の必要もない。それゆえ絶対観念は、絶対的な実在を記述するのに適切な観念である。しかしそれより下位のすべての観念は、限られた視点から見た実在を記述するに過ぎず、唯一無二の全体を一望の下に収めるものにとって実在とはどのようなものかを記述していない。ここからヘーゲルは、次の結論に到達する。絶対的な実在は一つの調和した体系を形成し、それは時間の中にも空間の中にもない。そしてわずかな悪もそこにはなく、完全に合理的で精神的である。私たちが知っている世界はこの正反対であるように見えるが、それはひとえに私たちが宇宙を断片的に、その部分をばらばらに見ているためであることを、論理的に証明できるとヘーゲルは信じていた。神ならばそうするであろうように宇宙を全体として見るならば、空間、時間、物質、悪、そしてあらゆる努力や闘争が消え、かわりに永遠で完全な、変化のない精神的な全体が見えるはずだ。
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このままでは行き詰まる社会保障--改革はなぜ進まないのか

『社会保障を立て直す』より

○「人口高齢化の急速な進展の下で、日本の社会保障はどこまで維持できるのか」というのが、多くの人々の持つ自然な疑問であろう。

2012年6月に、民主党政権の下で、自民党・公明党との三党合意で作成された「社会保障と税の一体改革」では、歳入面では、消費税率の5%から10%への引き上げが定められた。その一方で、歳出面の制度改革については、各分野の専門家からなる「社会保障制度改革国民会議」の審議に委ねることとされた。しかし、2013年8月にまとめられた報告書では、現行制度を維持したままで、その部分的な手直しのみが示されたに過ぎない。本来、高齢化の急速な進行の下で、社会保障制度の安定性を確保するための消費税増税であったはずである。それにもかかわらず、歳出面の改革についての議論自体がほとんど行われなかっただけでなく、むしろ消費税財源の一部を医療や少子化対策に充てるなど、厚生労働省の具体的な予算要求に結びつく提言がなされている。

○日本の社会保障制度は、過去の高い経済成長とピラミッド型年齢構成という経済社会環境を前提として成立した。そうした恵まれた環境が大きく変化した後も、それに対応して必要とされた改革を先延ばしにしてきたことが、今日の大幅な社会保障の不均衡の状況を招いた大きな要因となっている。この背景には、とくに年金制度を通じた「世代間格差」を過小評価する考え方があり、改革を妨げた一つの要因となっている。

社会保障制度の改革は、「国民に痛みを強いる」といわれるが、実際には「将来世代に先送りしている痛みを軽減するために、現在の世代がどこまで負担をするのか」という世代間の負担配分についての選択である。「年金や医療・介護は充実させ、税や社会保険料は上げない」という矛盾した要求には応じられないことを明確にしなければならない。

○今回の国民会議報告書は、社会保障制度の現状と問題点を、主として厚生労働省の視点から総合的にまとめた内容といえる。ここでは、年金や医療・介護制度を維持するために不可欠な公費の調達に関しては、法律に基づき財務省の責任とされていることから関知しないという暗黙の前提で議論が進められている。しかし、現実に増え続ける社会保障費の大部分が増税で賄えない以上、歳出面の改革なしには、先進国の中でも最悪の水準にある国債残高を、今後とも増やし続けるしかない。そうした「借金に依存した社会保障」が長期に持続可能かどうかは明らかである。本章では、こうした社会保障の実態をもたらした現行制度の問題点について、国民会議の報告書をベースに検討する。
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想像力と危機感

コギトへの思い

 最初に方法序説を見た時にビックリした。あまりにも簡単で、あまりにも画期的だった。もっとビックリしたのは、コギトをしらなかった自分の存在です。大学の教養部の学級新聞の名前は「コギト」だった。皆、そういう意味では常識的に知っていた。

 馴染むために、日本語の本を全て、タイプインしました。フランス語を習っていたら、原語で打っていたでしょうが、フランス語は相性が合わない。ドイツ語なら、多分、打っていたでしょう。語学の英語とドイツ語の教科書は暗記力ではなく、すべて、キーインしていた。

思考停止の市民

 エコットの市民会議には、出ましょうか。

 昨日の参加者は「ツナギスト」とかいっているけど、思考停止になります。ぶった切れています。自分たちの活動がどこまでの範囲なのか、何が足りないのか、やっていることがどういう意味なのかというところが抜けています。思考訓練が途中でやめている。自分が小さなものとしている。

 カリスマでの意思の力の元で動くときは、彼らはものすごい力を発揮するのでしょう。だけど、それではダメです。自分は自ら主体になってやらないと、存在の力は出てこない。

 NPO代表には坂本竜馬になってもらいましょう。色々なコミュニティの連携をとる。コミュニティの意識と全体の意識を合せる。薩長連合です。本当に欲しいのは、長州藩の高杉晋作です。危機感から、農民の意識を変え、奇兵隊にすることです。

フッサールの「他者」との哲学

 他人ではなく、「他者」という言葉を使いましょう。家族も含めて、私以外のモノを表します。未唯空間の「他人の存在」という言葉を「他者の存在」に変えておきます。

想像力と危機感

 想像力がないと危機感は産れない。自分の身に迫る時まで、津波の濁流がそこに来る時まで、想像力がないから。津波の教訓は想像力を発揮させるものです。ここまで、海が上がってきたということを示すことで、創造することができる。それで恐怖心ができる。

 静岡県で34mの高波と言っても、想像力が働いたら、すべきことは分かるはずです。浜岡原発だけの防波堤では済まないでしょう。社会の変化についても同じです。このままいったら、どうなるかという思考力と想像力です。

 クーポン券とかスタンプで、活動に参画できてよかったというのが、アイデアある行動というのは、あまりにも、矮小化している。

 そのための教育では、人は動かない。自らの恐怖心で動くしかない。このままいったら、どうなるのか、私はなぜ、ここにいるのか、何のためにいるのか。そこから、まずは、色々なことをやってみるんです。

環境社会にしていくには

 環境社会というのは、エコだけ考えてはアンバランスになります。絶対、失敗します。まずは、色々なことを知ることです。そのための生涯学習です。本当に生涯を掛けるものです。

 町づくり、人づくりの本を借りました。私が読むだけではなく、エコットに関係する人たちに渡していくものです。自分の枠を拡げられます。本とのつながりを拡げていくのが、電子書籍の世界です。コミュニティでの知識と意識を具体化すればいいです。
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岡崎図書館の9冊と豊田市図書館の追加の10冊

岡崎図書館の9冊

 332.5『ペトロダラー戦争』イラク戦争の秘密、そしてドルとエネルギーの未来

 539『日米同盟と原発』隠された核の戦後史

 209『北からの世界史』柔らかい黄金と北極海航路

 289.3『マリー・クヮント』

 313.8『なぜ独裁はなくならないのか』世界の動きと独裁者インタビュー

 227『イスラームを学ぶ』史資料と検索法

 369.3『巨大地震Xデー』南海トラフ地震、首都直下地震に打ち克つ45の国家プログラム

 318.6『地域公共人材をつくる』まちづくりを担う人たち

 326.2『入門刑法学・各論』

豊田市図書館の追加の10冊

 311.1『自然権と歴史』すべての人間は、生まれながらにして決して奪いえない天賦の権利を有する。こうした自然権の思想は、19世紀に出現した歴史主義により徹底的な攻撃にさらされた。正義が自然に基礎をもつとするこの思想の否定こそが、20世紀における全体主義の台頭をもたらしたのである。自然権は擁護されなければならない。では、その可能性はどこに求められるべきか。本書では、「自然の発見」という哲学の営みの根源にまで立ち返りつつ、古代ギリシアから現代にいたる思想史を大胆に読みなおす。万人の自由と平等をうたう近代的理性それ自体の問題を浮き彫りにした、20世紀を代表する政治哲学者の主著。

 332『経済の文明史』労働、土地、貨幣がすべて市場メカニズムの中に組み込まれて、いわば社会の実体が市場の諸法則に従属させられるにいたっだ市場経済″社会は、人類史上きわめて特殊な制度的所産であるー-ポランニーは古代社会・非市場社会を、現在の市場経済と社会を映す鏡にして、経済人類学に大転換をもたらした。「経済が社会に埋め込まれている」非市場社会の考察を通じて彼が見出した、市場経済社会の特殊性と病理とは。 20世紀中盤、高度資本主義社会の入り口において、鬼才が発した現代社会への警告であり、壮大なスケールで展開する経済人類学の古典的名著。

 701.3『情報社会の情念』クリエイティブの条件を問う

 527『自然の家』フランク・ライド・ライト 日本でも圧倒的な人気を誇る建築家フランク・ロイド・ライト。彼が設計した住宅は、大地と自然に調和し、素材の美しさを活かしつつ、まるで植物が成長するように有機的空間が展開する。その根底にあった理念とは、一体どのようなものなのか? 無駄を省いたそのデザインは、人間が自らの生活を自由に決定することを是とするデモクラシーの思想に支えられたものでもあった。自らの美学と信条を語り、長く読み継がれてきたライトの主著。建築論の必読書としてだけでなく、アメリカ近代思想や環境論の文脈からも再評価される古典の新訳。 100点を超す図面・写真を収録。充実した解説を付す。

 023.1『本ってなんだったっけ?』神の本の未来を考える

 372『生きるための知識と技能』OECD生徒の学習到達度調査(PISA)

 371.4『よくわかる学校心理学』

 210.7『<日本國>から来た日本人』

 232.8『ローマとパルティア』に大帝国の激突三百年史

 778.21『映画と戦争』撮る欲望/見る欲望
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