『政治の起源』より 政治制度の発展の過去・未来
将来の政治制度の発展に関して2つの問題を、現時点では答えられないが、あらかじめ提起しておくことができる。―つは中国の問題である。冒頭から近代政治制度は強力な国家、法の支配、説明責任で構成されると述べた。この3つの要素をすべて備えた西洋社会は活力のある資本主義経済を発展させ、世界中で優位となった。しかし今日の中国は、強力な国家を備えているだけで急速な成長を遂げている。中国の成長は長期的に持続するのであろうか。中国は経済成長を続け、法の支配や説明責任がなくとも政治の安定性を維持することができるのであろうか。成長が引き起こす社会的動員は強力な権威主義国家によって封じ込められるのであろうか。それとも民主主義的な説明責任を求める、抑えきれない要求につながるのであろうか。こんなに長きにわたって国家と社会のバランスが国家に傾いた社会で、民主主義が達成される可能性はあるのだろうか。中国は西洋式の財産権や個人の自由を持たないまま、最先端の科学技術研究を推進することができるのであろうか。それとも中国は政治権力を利用して、法の支配が確立した民主主義的な社会では不可能なやり方で今後も発展を促進するのであろうか。
2つ目は自由民主主義の将来に関する問題であろう。政治制度の衰退の現象を考慮すれば、歴史の一時期に成功した社会が必ずしもつねに成功を収めているとは限らない。自由民主主義は今日もっとも正統性をもつ形式の政府であると考えられているかもしれないが、その正統性は業績次第である。それは必要なときに国家がとる断固たる行動と、個人の自由とのバランスを十分に維持できているかにかかっている。その個人の自由こそが、民主主義の正統性の基盤であり、民間部門の成長を促進させる。現代の民主主義の失敗は多種多様であるが、21世紀初頭に多く見られた失敗はおそらく国家の弱さである。現代民主主義は柔軟性に欠け簡単に行き詰まるため、経済面と政治面で長期的な存続を確実にするための難しい決断を下すことができない。民主主義国のインドでは、崩壊しつつある公共インフラ--道路、空港、上下水道など--の立て直しがきわめて困難である。既得権益者が法システムや選挙システムを利用して、修繕活動を妨害できるためである。ヨーロッパ連合(EU)主要国はあきらかに負担しきれなくなった福祉国家を縮小することは不可能だと分かった。日本は先進国の中でも公的債務が最高水準に達しているが、将来の成長の障害となっている経済の硬直性を打破するための措置を講じていない。
さらにはアメリカも医療保険、社会保障、エネルギーなどに関連する長期的な財政問題に真剣に取り組むことができずにいる。アメリカはますます政治的に「機能不全な均衡」に陥っているように思われる。すなわち、長期的な財政問題に取り組む必要性についてはみなの意見が一致しているが、強力な利益集団が問題解決のために必要な支出削減や増税を阻止することができるのである。アメリカの制度設計には強力な抑制と均衡が存在するため、解決をいっそう困難なものにしている。さらに、問題解決の範囲を限定してしまうアメリカ的なイデオロギーの硬直性も付け加えられるかもしれない。こうした課題に直面するアメリカがアンシャンーレジーム期のフランスのように公然と官職を家産制に戻すとは考えにくいが、まさにフランス政府が行ったように、財政危機を先延ばしすることはできても解決にならない短期的な解決策を取る恐れがある。
あとになって歴史の偶然だと分かる理由で、制度は現れる。そのうちのいくつかは生き残って広まっていく。ある意味で普遍的な必要を満たすからだ。こうして制度は次第に収斂し、政治制度の発展の一般論を述べることも可能どなる。とはいえ、制度の存続にも多くの偶然が含まれている。国民の平均年齢が20代で急成長している国家にはうまく機能した政治システムが、国民の3分の1が定年を迎えているような停滞した社会にはそぐわない可能性がある。もし制度が適応できなければ、社会は危機に直面するか崩壊し、また別の制度を採用せざるを得なくなるかもしれない。このことは、非民主主義的制度と同じように自由民主主義にもあてはまる。
しかし、政治的に説明責任を果たす社会がそれを欠いた社会に勝利すると考える重要な理由が一つある。それは、政治的な説明責任は制度が適応するための平和な道筋を示すことができるということである。中国の王朝時代の政治システムが唯一解決しえなかったのが、武則天や万暦帝などの「悪帝」の問題であった。優れた指導者のおかげで権威主義システムが自由民主主義制度を上回るという状況が時折起こるが、それは法的な訴えや立法部門による熟慮にわずらわされずに迅速な意思決定を行うことができるためである。一方でそうしたシステムは優れた指導者がつねに輩出するかどうかにかかっており、悪帝のもとでは政府に与えられた抑制のない権力は大惨事につながりかねない。この問題は現代の中国においても重要な鍵となる。中国では説明責任は上を向いているばかりで、下を見ようとはしないためである。
本書の冒頭において、制度の発展に関する本書の歴史的記述は、産業革命以降に広まったさまざまな状況を勘案しながら読む必要があると述べた。ある意味で整理がついたので、『変革期社会の政治秩序』で提起された問題に真正面から取り組み、新たな視点を提供できる。工業化の始まりにともない、経済成長や社会的動員は途方もない速度で進行し、政治制度の3つの構成要素が発展する可能性を劇的に変化させた。この枠組みに従って続編では政治制度の発展についてさらに述べていきたい。
将来の政治制度の発展に関して2つの問題を、現時点では答えられないが、あらかじめ提起しておくことができる。―つは中国の問題である。冒頭から近代政治制度は強力な国家、法の支配、説明責任で構成されると述べた。この3つの要素をすべて備えた西洋社会は活力のある資本主義経済を発展させ、世界中で優位となった。しかし今日の中国は、強力な国家を備えているだけで急速な成長を遂げている。中国の成長は長期的に持続するのであろうか。中国は経済成長を続け、法の支配や説明責任がなくとも政治の安定性を維持することができるのであろうか。成長が引き起こす社会的動員は強力な権威主義国家によって封じ込められるのであろうか。それとも民主主義的な説明責任を求める、抑えきれない要求につながるのであろうか。こんなに長きにわたって国家と社会のバランスが国家に傾いた社会で、民主主義が達成される可能性はあるのだろうか。中国は西洋式の財産権や個人の自由を持たないまま、最先端の科学技術研究を推進することができるのであろうか。それとも中国は政治権力を利用して、法の支配が確立した民主主義的な社会では不可能なやり方で今後も発展を促進するのであろうか。
2つ目は自由民主主義の将来に関する問題であろう。政治制度の衰退の現象を考慮すれば、歴史の一時期に成功した社会が必ずしもつねに成功を収めているとは限らない。自由民主主義は今日もっとも正統性をもつ形式の政府であると考えられているかもしれないが、その正統性は業績次第である。それは必要なときに国家がとる断固たる行動と、個人の自由とのバランスを十分に維持できているかにかかっている。その個人の自由こそが、民主主義の正統性の基盤であり、民間部門の成長を促進させる。現代の民主主義の失敗は多種多様であるが、21世紀初頭に多く見られた失敗はおそらく国家の弱さである。現代民主主義は柔軟性に欠け簡単に行き詰まるため、経済面と政治面で長期的な存続を確実にするための難しい決断を下すことができない。民主主義国のインドでは、崩壊しつつある公共インフラ--道路、空港、上下水道など--の立て直しがきわめて困難である。既得権益者が法システムや選挙システムを利用して、修繕活動を妨害できるためである。ヨーロッパ連合(EU)主要国はあきらかに負担しきれなくなった福祉国家を縮小することは不可能だと分かった。日本は先進国の中でも公的債務が最高水準に達しているが、将来の成長の障害となっている経済の硬直性を打破するための措置を講じていない。
さらにはアメリカも医療保険、社会保障、エネルギーなどに関連する長期的な財政問題に真剣に取り組むことができずにいる。アメリカはますます政治的に「機能不全な均衡」に陥っているように思われる。すなわち、長期的な財政問題に取り組む必要性についてはみなの意見が一致しているが、強力な利益集団が問題解決のために必要な支出削減や増税を阻止することができるのである。アメリカの制度設計には強力な抑制と均衡が存在するため、解決をいっそう困難なものにしている。さらに、問題解決の範囲を限定してしまうアメリカ的なイデオロギーの硬直性も付け加えられるかもしれない。こうした課題に直面するアメリカがアンシャンーレジーム期のフランスのように公然と官職を家産制に戻すとは考えにくいが、まさにフランス政府が行ったように、財政危機を先延ばしすることはできても解決にならない短期的な解決策を取る恐れがある。
あとになって歴史の偶然だと分かる理由で、制度は現れる。そのうちのいくつかは生き残って広まっていく。ある意味で普遍的な必要を満たすからだ。こうして制度は次第に収斂し、政治制度の発展の一般論を述べることも可能どなる。とはいえ、制度の存続にも多くの偶然が含まれている。国民の平均年齢が20代で急成長している国家にはうまく機能した政治システムが、国民の3分の1が定年を迎えているような停滞した社会にはそぐわない可能性がある。もし制度が適応できなければ、社会は危機に直面するか崩壊し、また別の制度を採用せざるを得なくなるかもしれない。このことは、非民主主義的制度と同じように自由民主主義にもあてはまる。
しかし、政治的に説明責任を果たす社会がそれを欠いた社会に勝利すると考える重要な理由が一つある。それは、政治的な説明責任は制度が適応するための平和な道筋を示すことができるということである。中国の王朝時代の政治システムが唯一解決しえなかったのが、武則天や万暦帝などの「悪帝」の問題であった。優れた指導者のおかげで権威主義システムが自由民主主義制度を上回るという状況が時折起こるが、それは法的な訴えや立法部門による熟慮にわずらわされずに迅速な意思決定を行うことができるためである。一方でそうしたシステムは優れた指導者がつねに輩出するかどうかにかかっており、悪帝のもとでは政府に与えられた抑制のない権力は大惨事につながりかねない。この問題は現代の中国においても重要な鍵となる。中国では説明責任は上を向いているばかりで、下を見ようとはしないためである。
本書の冒頭において、制度の発展に関する本書の歴史的記述は、産業革命以降に広まったさまざまな状況を勘案しながら読む必要があると述べた。ある意味で整理がついたので、『変革期社会の政治秩序』で提起された問題に真正面から取り組み、新たな視点を提供できる。工業化の始まりにともない、経済成長や社会的動員は途方もない速度で進行し、政治制度の3つの構成要素が発展する可能性を劇的に変化させた。この枠組みに従って続編では政治制度の発展についてさらに述べていきたい。