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南相馬市立図書館見学記

『司書はひそかに魔女になる』より

二〇一〇年四月「仙台にもっと図書館をつくる会」の人々と小旅行へと出かけた。目指すは南相馬図書館、拙書『無口な本と司書のおしゃべり』の中で「さすらいのライブラリアン」と命名した?Hさんの大仕事、第二弾が完成したからである。二〇〇九年十二月に開館したが、なかなか行けずにやっと実現した見学である。事前にパンフレットは見ていたが、その凄さはやはり行ってみなければわからない。仙台から常磐線で原ノ町駅下車、駅のすぐ前にそのぴかぴかの図書館は建っていた。

見ただけでわくわくするような、そして一歩中へ入ると、図書館のオーラが満ち満ちている図書館だった。広い空間、書架が果てしなく連なる図書館である。多くの公共図書館を訪れてはいないが、こんな凄い図書館は近隣ではないと断言できる。二〇〇九年に見学した韓国のパジュ市の図書館も新館で魅力あるものだったが、勝るとも劣らないと感じた。

まず仙台の「もっとの会」と同様、地元で図書館運動をしてこられた「としょかんのTOMOみなみそうま」の方々との交流会が設けられた。こういうバックアップがあって、そして行政の助けがあって素晴らしい図書館は実現するであろう。Hさんのヘッドハンティングは、合併前の原ノ町市長が自ら三度も足を運んだそうである。その熱心さにほだされて彼は大仕事を引き受けたのだろ

Hさんの案内で図書館ツアーが始まった。児童用資料は、当然のごとく一般とは区別された部屋があてがわれていた。図書館は未来を育てるもの、その未来はイコール子どもである。子どもへの目配りが行き届いている図書館、子どもの本、絵本のベストセラー、ロングセラーが一見しただけで目に飛び込んでくる。その充実度がうかがえた。そして、マルチメディアホール、最近の新しい図書館ではこれが必須になってきているが、会議も映画の上映も身近に簡単に開催できることは、情報発信をする図書館としての基本機能と言える。これとは別に今回は見ることができなかった、子どもだけを対象とした〝おはなしの蔵〟という施設もある。

屋上に案内された。花壇もさることながら、こんな空間は美術館のようである。囲いの塀? の視線の先には遠く山並みが見え、その山並みの線に沿って、塀の上部は微妙な曲線でカットされているのである。名づけてぶ大空のテラスヘ見慣れた光景でもこのテラスからではまた新たな感動を呼びそうである。

いよいよメインの一般開架へと向かう。本のレイアウトは見せるため、利用者の興味を引くように見事なものだった。テーマごとにコーナーがある。自然と利用者の興味を引くような蔵書配置は、凄いとしか言えない。一関市立川崎図書館へ行った時も新しい発見があったが、またここでも宝の山を発見するような蔵書のおもしろさがある。

そして、Hさんの口癖「司書はセンスが良くなければ」という言葉をまさに具現したのが、書棚をはじめとするすべて特注の家具であった。書架は人の身長に見合ったもので、視線の届く範囲、背伸びしたりせずとも手が届く。つまり人間の動作に無理なく設計されている。さらに自然にカーブした、片肘だけついた椅子、その背にはすべて本の形がくりぬかれている。ブックエンドは三角で木製、その材質が表面に彫ってあるという凝りようだった。素晴らしい。楢、栗などなど、読めない字もあったけれど……。

最新の自動貸出機、実際利用している人も見かけた。本にはチップの時代で、バーコードであると一冊ずつなぞるのであるが、これは五冊くらい重ねて置いても情報を読み取る。凄い機能である。その棚には貸出用の図書館のバッグまで備え付けてあった。

Hさんの説明の中に国からの補助金もあったと聞いたので、どんな種類の補助金が図書館に使えるのかと質問したところ、合併のそれだという。行政側でも非常に協力的で、その補助金を図書館建設にあててくれたそうだ。二十二億もかけたこの素晴らしい図書館は、首長さんの指令と行政の協力、市民運動の力、そして優れた司書の力が融合して初めて生まれたと言える。それを統括したのは〝さすらいのライブラリアン〟Hさんの能力があったのは、繰り返すまでもない。

見学後の「もっとの会」の予定は夜の森まで足を伸ばし、夜桜見物をすることだった。「もっとゆっくりすればいいのに」というHさんの言葉を後に、しっかりと遊ぶこともこの会のよさなのです。そういう隠れた趣旨は、私も大歓迎、勇んで付いて行った。

福島の海岸線沿いは宮城と比べ幾分暖かいとはいえ、桜はどうなのかしらと危ぶみながら、原ノ町から四十分ほどの乗車で夜の森へと到着する。すると駅のまん前に満開の桜があった。一同それだけで大騒ぎである。通りがかりの人びとは何事かといった面持ちだったが、よく見るとそれはソメイョシノではなく、早めに咲くヒカンザクラではないかという結論に達した。ともあれ、桜は見ることができたのである。

数度訪れている人を先導に、街へと繰り出した。駅近辺もであるが、町の通りの並木がこれまた全部桜なのだ。残念ながらまだ蕾状態だったが、その並木の豪勢なこと、これはいつか絶対に見てみたいものだと思いを残し、町を後にした。
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カント『純粋理性批判』『実践理性批判』の世界観

『14歳からの社会学』より 〈自由〉への挑戦

カント『純粋理性批判』の世界観

 『純粋理性批判』と『実践理性批判』という2つの有名な本を書いたカントという人がいる。カントは『純粋理性批判』で、ニュートンという人の唱えた決定論的な世界観(あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している)を追認した。

 ある一時点における物体の位置と運動を計測できれば、1秒後も1年後も1万年後も1億年後もすべて予測できる。かつてビッグバンが起こったのだとすると、ビッグバンが起こった瞬間に、未来永劫あらゆる原子と電子の運動を知り得る。それを「ラプラスの悪魔」という。

 ラプラスの悪魔という考え方をカントは追認した。でも、これはぼくたち人間界の感じ方とは違う。ぼくたちは花瓶がこわれたら「宮台がこわした? ならば悪いのは宮台だ」という。行為は誰かの選択だ。ぼくたちは行為を誰かに帰属させる。これを「帰属処理」という。

 また、ぼくたちは「花瓶がこわれた責任は誰が負うのか?」ということを考える。「その責任は宮台が負う」とか、「宮台は命令されてやっただけ。命令した山田が責任を負う」という具合に、こわした責任を誰かに「帰属」させる。これを「帰責処理」という。

『実践理性批判』での世界観

 つまり、ぼくたちの人間界では、行為を誰が選択したかという「帰属処理」と、選択したことの責任を誰が負うのかという「帰責処理」をおこなう。「ビッグバンのときに決まったことだから、誰がやったともいえないし、誰のせいともいえない」などとはいわない。

 『純粋理性批判』で自然界の決定論を擁護したカントは、今度は『実践理性批判』で人間界の非決定論を擁護した。そうすることで、人倫の世界--善し悪しの世界や責任のあるなしの世界--を基礎づけようとした。カントの考え方を、社会学もまた支持している。

 自然界は因果律の世界だと考えられている。すべてのものごとには原因があるし、原因にはさらに原因の原因があると考えられる。ものすごい時間をかければ、ある人間がある場所でその行為をした原因を、その人が生まれる前にさかのぼって説明できるかもしれない。

 でも、人間界は因果律では回らない。行為の帰属や責任の帰属は、原因の探索とは違う。なぜ彼は殺したのか。彼の無意識に由来する。彼の無意識は彼の母親の育て方に由来する。母親の育て方は母親の無意識に由来する……。因果律はそんなふうに永久にさかのぼってしまう。

 そんなふうにさかのぼったら誰の責任も問えない。ぼくが誰かにあいさつした理由を説明するだけで一生かかっちゃう。これじゃ社会は回らない。つまり、行為の帰属や責任の帰属は、自然界における原因の探索とはまったく意味が違う。問題はどういうふうに違っているかだ。

 〈社会〉とは「あり得るコミュニケーションの全体」だといった。では、どんなコミュニケーションが現に「あり得る」のだろう。カントによる自然界と人間界の区別は、〈社会〉はどんな具合に成り立っているのか、という問いにつながっている。

人間界では「意思」が出発点になる

 カントはそこで「意思」の概念を持ち出す。それをするときに「意思」が妨げられていなかったかどうかを問題にするんだ。彼の意思が妨げられていなかったのなら、「彼がやった」とか「彼が悪かった」という具合に帰属と帰責をおこなう。

 妨げられていない意思をカントは「自由意思」と呼んだ。宮台が「自由意思」で花瓶をこわしたとする。宮台の「意思」を妨げるものがなかったということだ。人間界では、宮台がやったことだから、宮台に責任を取らせようというふうになる。まあ、ふつうの話だ。

 でも、自然界を説明しようとするときに使う、因果律に基づく決定論的な世界観では、ずっと前から宮台が花瓶をこわすという行為が予定されていた可能性がある。でも、それは「あえて」横に置いておきましょうというのがカントの考え方だし、社会学の考え方だ。

 〈社会〉では「因果」でなく「意思」が出発点だ。出発点だから「意思」の前にはさかのぼらない。これはひとつの世界観だ。「主意主義的世界観」という。これに対し、ぼくたちが全能なら「意思」の前にずっとさかのぼれるはずだという世界観が、「主知主義的世界観」だ。

 カントのすごいところは「〈世界〉--ありとあらゆる全体--はどうだか知らないけど、〈社会〉--あらゆるコミュニケーションの全体--は主意主義的にでき上がっている」と見通したことだ。完全に正しい。現にぼくたちは主意主義的に誰かに責任を帰属する。
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誰ともつながらない

誰ともつながらない

 誰ともつながっていないことを実感している。かといって、つながればいいというものではない。根本が解決できない。ネットでつながるのはムリです。むしろ、未唯宇宙で最後の試みをしましょう。

 2年前は100枚弱の年賀状を出していた。去年は半分にした。今年はゼロにした。つながりをなくします。本当はつながっていないので。

自分の役割で生きる

 四つの役割で生きていきます。数学者、歴史学者、社会学者、そして未来学者です。原点は生きることは考えること、考えることは生きること。

未唯へ

 思ったよりも、腹が張っています。単純な生活でこれを少し戻します。

 直付けで、ICレコーダーを充電できました。

オフィス365

 オフィス365は塊ですね。一つのものになっていない。持てるマイクロソフトの弱点です。OneNote、Vivioとかn役割を定義しているので、一つのモノにならない。SharePointがどう結び付けるのか。

歴史の分岐

 シリアはイスラム社会が世界にどう関係するのか、メジャーになるかの試金石です。

 スンニ派とかシーア派とか、そんなことはムハンマドは求めていないはずです。偶像崇拝も同様です。戒律のある世界を存在の力の変えていければ、次の世界に近いところに居ます。
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