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コミュニティの存在は歴史なのか

コミュニティの存在は歴史なのか

 コミュニティが存在するのは歴史なのか。今までコミュニティがあったけど、ベースが異なり、目的が違っていた。座標系から位相空間に変わるための近傍系としてのコミュニティならば、歴史的な変革と言えます。最終的にLL=GGとなるのに、コミュニティは欠かせない。

 国民国家になったことが歴史的な事柄としたら、コミュニティも歴史的です。従来のまとまりの民族とか国とか以外に近傍系とチェーンでつなげる。だから、企業がどう関係するのか、民族がどういうカタチで関係づけるのか。

 社会を作るのが人間の関係としたら、コミュニティは家族という単位からもう一つ大きな単位にするものです。そして、存在の力を使うための基本です。当然、そのコミュニティは地域コミュニティだけではない。様々なコミュニティがある。政党もそのうちのコミュニティとして、テーマでもって、コミュニティがあり、市民を受け入れる。

 企業ができた時も、そういう感覚だったんでしょうね。カンパニーが明治時代にできた時は、同好の士の集まりだったんでしょう。そこから、組織が始まり、組織の単位が変わってきて、組織論そのものが変わってきた。

 それにしても、コミュニティに特化してしまうと、あまりにも歴史が簡単すぎます。位相的に見たら、多分、正しいでしょうけど。その分だけ、コミュニティを維持したり、発展させることをイメージをハッキリさせないと、存在の力だけでは、多分、皆、利益を得ないでしょう。

 コミュニティが一番難しいのは、既存の組織にいかに入り込んで、実質を掠め取るかです。イメージとしてあるのは、家康の家臣団の中に入り込んだ、一向一揆の勢力です。内部から力を得るものです。

 その時に、ベースになるのは、地域インフラをいかに作るかです。ベルギーでは地域インフラとコミュニティが一体化しています。そこには仕事があります。新しい労働が生まれます。

 コペンハーゲンの海上風力発電もその一つです。2003年にコペンハーゲンの環境NPOセンター長のニルスさんの発想は仕事を生み出すことだった。名前は「ニルスの不思議な旅」の白鳥に乗ったイメージで覚えた。

 集合が点であり、点が集合であるならば、一人だけのコミュニティもありうる。それがハブになる可能性もある。問題は存在の力が発揮できるかどうかです。

宗教と民族

 概念で歴史が変わるのかというところまで来ています。一番大きな概念は宗教と民族です。民族も本来は分かれるものではない。宗教も分かれるものではない。シーア派とスンニ派の違いは他から見ると、どこが違うか分からないです。だけど、同じものほど、憎み合うものです。

 そこには覇権があるからです。いかに覇権を利かすのか。存在の力であれば、覇権は必要ないです。東アジアの中国・韓国・日本も同じようなカタチになっている。一緒にすればいいというのは、EUで習っているはずです。そう簡単には一緒にならないことを習っています。

 コミュニティ生成に当って、歴的なアナロジーを考えると、ムハンマドの展開力です。当然、コミュニティには、戒律が必要です。個人的には豚は食べたいけど。なぜ、豚を食べてはいけないのか。酒を飲まないのは分かるけど。単なるムハンマドの趣味なのか。あとは、女性の力に対しては本質的です。後ろでコントロールする力は抜群です。一部は出ていけばいい。

歴史的要素の多様化

 歴史的な要素ももう少し、多様化しないといけない。例えば、武器の歴史です。アレキサンダー大王の武器は5.5mの長槍を自在に使うことと、補給を考え抜いた戦略で、ペルシャを崩壊させた。
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なぜスターリンは勝利したのか

『ロシアの歴史』より 歴史教科書 1920年代の政治の発展

1923年10月L・D・トロツキーと彼の同調者は、党内で確立した秩序を批判した。彼らがとくに危惧したのは、「上部により選抜され職業的な党の専従役員と、党活動に参加していない多くの党員のあいだの、進行しつつある隠しきれない分離」であった。これは、党機構を指導していたスターリンに対する攻撃であった。

1924年1月24日V・I・レーニンは亡くなった。5月に行われた第13回ロシア共産党(ボリシェヴィキ)大会で「大会への手紙」が公開された。そこでは中央委員会書記長のポストにスターリンを据え置くことが決定された。というのも党内の複雑な状況とトロツキー側からの党分裂の脅威があったからである。1925年12月にロシア共産党(ボリシェヴィキ)は、全ソ連邦共産党(ボリシェヴィキ)に改称された。

スターリンはレーニン個人の発言にもとづきつつ、新たなイデオロギー上の方針である「一国における」社会主義建設の可能性を定着させ始めた。これは世界革命理論からの離脱であった。スターリンは、ソ連における社会主義建設の可能性を信じていないことを理由に、トロッキーと彼の支持者を非難した。1926年の第15回全ソ連邦共産党(ボリシェヅィキ)協議会は、スターリンのテーゼを基本的な党原則と認めた。

1924~1925年は、不作、商品の不足、グルジアでの蜂起、農民の政治糾織設立の試みがあったりと、党にとって困難な時期であった。そこで党指導部は、農民の若干の要求に応えざるを得なくなった。

ブハーリンの方針を支持したのはスターリンであった。カーメネフとジノヴィエフは「農村のネップ」に反対を表明した。「新反対派」が生まれた。議論が展開されるなか、トロツキーとその支持者は当初傍観的立場をとっていた。しかし、レーニンの遺訓の唯一の守護者と自認するスターリンが急激に力をもっかことで、反対派は、意見の相違を棄て、スターリンがトロツキー・ジノヴィエフ派と呼んだ統一ブロックの合意へと向わざるを得なかった。

1927年にデモを組織したとして、トロッキー、ジノヴィエフ、カーメネフは党から除名された。 1928年初頭、トロツキーをはじめとする反対派の多くがアルマ=アタヘ送られた。 1929年、トロツキーはソ連邦から追放された。

スターリンが権力闘争に勝利したのには一連の理由があった。書記長としてのスターリンは党機関を管理し、党内の全人事を掌握していた。また、党や社会のなかでの優勢的見解を汲み取ることに長けていた。革命から10年後の現実は、革命が掲げていた全体的な平等の理想と合致していなかったため、次第に不満が蓄積されていった。スターリンが進めていたソ連邦内での社会主義建設の未来像は、世界革命の理想よりも魅力的であった。

党内の状況が変化した。レーニンが亡くなった直後スターリンは、「レーニン記念入党」運動の推進者となった。1924年2月から8月のあいだに、20万人以上が入党し、党員は1.5倍に膨れ上がった。その多くは純粋な動機で入党したのではなく、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)党員に提供されていた様々な特典を得るためであった。さらに党の上層部も、際限のない議論、「右派」と「左派」、「トロツキー主義者」と「ジノヅィエフ派」、「ジノヅィエフ派」と「ブハーリン派」など複雑で微妙な差異を理解しなければならないことにうんざりしていた。「ごたごた」を早く終わらせ、ひとりの指導者と明確な目的が求められた。

スターリンは、この状況に刺激を与えることをあえて行った。国民の物質的状況が改善されないのは、ソ連が「国内外の敵」に溢れているからだとスターリンは明言した。国内の敵の「証拠」となったのは、1928年ドンバス炭鉱の指導者や専門家に対する訴訟である。彼らは破壊とスパイ行為で有罪の判決を受けた。その時、「破壊者」という言葉はしっかりと国民の生活に根づいた。被告を中傷する騒々しい新聞のキャンベーンが展開された。ある逮捕者の12歳になる息子の、父の射殺を求める声明が発表されたことが、その頂点となった。

シャフトゥィ事件の結果からスターリンは、自身の政策の基礎となったテーゼを引き出した。それは、国が社会主義へ進むに伴い階級闘争の先鋭化は不可避であるということである。このテーゼは、古参革命家が敵対者となる理由、指導者の周りに団結しなければならないことを説明するのに都合がよかった。

このように、1920年代には政治体制の引き締めと一党体制が形成された。レーニンの死後、党指導部で権力闘争が激化した。勝利者となったのは、T・V・スターリン全ソ連邦共産党(ボリシェヴィキ)書記長であった。

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