未唯への手紙
未唯への手紙
未唯宇宙の探査に向かいます
未唯宇宙の探査に向かいます
未唯宇宙をキンドルベースで集中的に分析しましょう。この地球の観察結果を折り込みます。観察する存在としての自分を前面に出す。未唯宇宙を第8章からやりましょう。参考文献で貯めていることを要約させると同時に、自分の観察の全てをそこに折り込む。
分化と統合を同時に行います。そのために、かなりのことに集中すると同時に、分散しないといけない。
土日でのスタバでの注文
フォーヒア・ダブルトール・エクストラホット・ラテ
水・金も同様です。その他はグランデのドリップです。
未唯宇宙の構造
未唯宇宙をマルチバースにするために、どういうカタチにするのか。まずは、宇宙に名前を付けましょう。
中核と周辺をつなぐことで、有限で無限な空間ができる。それが未唯宇宙です。
まとまったことをするのではなく、ある項目について、ずっと見ていましょう。その概念を自分の頭の中に移植します。未唯への手紙を完全にバックヤードにします。
未唯宇宙をキンドルベースで集中的に分析しましょう。この地球の観察結果を折り込みます。観察する存在としての自分を前面に出す。未唯宇宙を第8章からやりましょう。参考文献で貯めていることを要約させると同時に、自分の観察の全てをそこに折り込む。
分化と統合を同時に行います。そのために、かなりのことに集中すると同時に、分散しないといけない。
土日でのスタバでの注文
フォーヒア・ダブルトール・エクストラホット・ラテ
水・金も同様です。その他はグランデのドリップです。
未唯宇宙の構造
未唯宇宙をマルチバースにするために、どういうカタチにするのか。まずは、宇宙に名前を付けましょう。
中核と周辺をつなぐことで、有限で無限な空間ができる。それが未唯宇宙です。
まとまったことをするのではなく、ある項目について、ずっと見ていましょう。その概念を自分の頭の中に移植します。未唯への手紙を完全にバックヤードにします。
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世界国家の二つの誤った解答 スイスの例
『国際政治』(下)より 世界国家
世界国家がもたらすと期待されているものを、スイスはすでに達成しているようにみえる。すなわちスイスは、独自の言語、文化、歴史、忠誠心、政策をもった幾つもの主権国家から新しい連邦国家をつくることができた。スイスは四つの別々の言語を話す二二の主権国家をひとつの政治組織に統合することができたのである。世界の一三〇余の国家はなぜこれと同じことができないのだろうか。世界の諸国家に、スイスがやったように連邦憲法を採用させ、スイス諸国と同じようにお互いのためになるような行動をとらせれば、世界国家の問題は解決されよう。この主張は説得的であるように思われると同時に、しばしば一般の人びとの論議のなかで論じられているものである。ところが、この主張は、スイスの歴史的事実に直面すると、たちどころに消失する性質のものである。
まず何よりも、統一スイス国家は一八四八年に遡る。それ以前には、スイス諸国は、単一国家というよりも、むしろ国際連盟や国際連合の成功した姿に近い国家連合をなしていた。この国家連合は、一四世紀中の、いわゆる森林州や幾つかの市街州の間で結ばれた多くの永久同盟から発生したものである。こうした同盟は、共通の危険に対して防衛するために諸国家を互いに近づけることになった、ある種の同一的、補完的な利害関係の結果できたものである。なぜこのような同盟が、これを生んだ特定の時代を生き抜き、さらには、共通の政府機関を備えた国家連合の緊密な絆を強化することさえできたのであろうか。この疑問に解答をだせば、スイスの出来事を説明したことになるだろう。
(1)そもそもの国家連合を構成していた一三の加盟国は、領土が隣接し、ドイツ帝国と(プスブルク家に対してともに抵抗するなかで結ばれた。これら加盟国は、みなドイツ帝国および(プスブルク家の従僕であったし、ともに努力してそのくびきからみずからを解放した後も、依然としてこのドイツ帝国と(プスブルク家を、彼らすべての自由の共通の敵としていた。(2)一四、一五世紀においてスイス軍が騎士に対してあの有名な勝利をおさめたことは二重の効果をもつことになった。スイス軍は、何世紀にもわたって、ヨーロッパで最も恐るべき軍隊という名声を確立していた。そしてスイス軍は、そもそもの国家連合における中心部をなしていた山間の谷によって事実上外国の攻撃を免れていたのである。(3)スイスヘの攻撃がもたらす軍事的損失に比べると、勝利の魅力は小さかった。こうした峡谷には天然資源が乏しいということから、この地帯の魅力はもっぱら戦略的なものであった。すなわち、イタリアと北部ヨーロッパを繋ぐアルプス山道の幾つかを支配下におくということであった。しかし、四世紀の間、ナポレオン戦争というひとつの重要な例外を除いて、スイスに隣接した諸大国は、アルプス山道をスイスから奪おうとするよりも、自分たちの対戦国すべてに対してスイスがこのアルプス山道を防衛してくれている方が有利だと考えていた。しかし、バランス・オブ・パワーは、スイスに隣接する強国の間で敵対関係が続いている限りこうした防御力を発揮したのだ、ということが重要である。イタリアにおけるナポレオンの勝利は、ただちにこの防御作用を破壊し、一七九八年以降スイスは戦闘軍隊の不運な餌食となった。オーストリア、ドイツ、イタリアが三国同盟に加わった折、イタリアの参謀本部が六回にわたりドイツ参謀本部に対し、スイスをとおって対フランス共同戦線に行軍するよう提案したこともまた記憶に値する出来事である。
したがって、スイスの誕生と存続を可能にしたのは、憲法協定に表明された意志の力だけではなく、幾つかの特殊かつ独特な状況が結びついた結果であった。こうした状況によってスイスは強大な隣国のまっただなかにあって生きのびることができたのであるが、しかしこれらの状況があるからといって、国家連合の構成国の間で平和を維持することができるというものではなかった。三〇〇年経つか経たないかのうちに、スイス諸国は相互間で数えきれないほどの小規模な戦争と、構成国のすべてあるいは事実上すべてを巻き込んだ五つの宗教戦争を戦った。多数の革命やクーデタが内乱状態を呈していたのである。
世界国家がもたらすと期待されているものを、スイスはすでに達成しているようにみえる。すなわちスイスは、独自の言語、文化、歴史、忠誠心、政策をもった幾つもの主権国家から新しい連邦国家をつくることができた。スイスは四つの別々の言語を話す二二の主権国家をひとつの政治組織に統合することができたのである。世界の一三〇余の国家はなぜこれと同じことができないのだろうか。世界の諸国家に、スイスがやったように連邦憲法を採用させ、スイス諸国と同じようにお互いのためになるような行動をとらせれば、世界国家の問題は解決されよう。この主張は説得的であるように思われると同時に、しばしば一般の人びとの論議のなかで論じられているものである。ところが、この主張は、スイスの歴史的事実に直面すると、たちどころに消失する性質のものである。
まず何よりも、統一スイス国家は一八四八年に遡る。それ以前には、スイス諸国は、単一国家というよりも、むしろ国際連盟や国際連合の成功した姿に近い国家連合をなしていた。この国家連合は、一四世紀中の、いわゆる森林州や幾つかの市街州の間で結ばれた多くの永久同盟から発生したものである。こうした同盟は、共通の危険に対して防衛するために諸国家を互いに近づけることになった、ある種の同一的、補完的な利害関係の結果できたものである。なぜこのような同盟が、これを生んだ特定の時代を生き抜き、さらには、共通の政府機関を備えた国家連合の緊密な絆を強化することさえできたのであろうか。この疑問に解答をだせば、スイスの出来事を説明したことになるだろう。
(1)そもそもの国家連合を構成していた一三の加盟国は、領土が隣接し、ドイツ帝国と(プスブルク家に対してともに抵抗するなかで結ばれた。これら加盟国は、みなドイツ帝国および(プスブルク家の従僕であったし、ともに努力してそのくびきからみずからを解放した後も、依然としてこのドイツ帝国と(プスブルク家を、彼らすべての自由の共通の敵としていた。(2)一四、一五世紀においてスイス軍が騎士に対してあの有名な勝利をおさめたことは二重の効果をもつことになった。スイス軍は、何世紀にもわたって、ヨーロッパで最も恐るべき軍隊という名声を確立していた。そしてスイス軍は、そもそもの国家連合における中心部をなしていた山間の谷によって事実上外国の攻撃を免れていたのである。(3)スイスヘの攻撃がもたらす軍事的損失に比べると、勝利の魅力は小さかった。こうした峡谷には天然資源が乏しいということから、この地帯の魅力はもっぱら戦略的なものであった。すなわち、イタリアと北部ヨーロッパを繋ぐアルプス山道の幾つかを支配下におくということであった。しかし、四世紀の間、ナポレオン戦争というひとつの重要な例外を除いて、スイスに隣接した諸大国は、アルプス山道をスイスから奪おうとするよりも、自分たちの対戦国すべてに対してスイスがこのアルプス山道を防衛してくれている方が有利だと考えていた。しかし、バランス・オブ・パワーは、スイスに隣接する強国の間で敵対関係が続いている限りこうした防御力を発揮したのだ、ということが重要である。イタリアにおけるナポレオンの勝利は、ただちにこの防御作用を破壊し、一七九八年以降スイスは戦闘軍隊の不運な餌食となった。オーストリア、ドイツ、イタリアが三国同盟に加わった折、イタリアの参謀本部が六回にわたりドイツ参謀本部に対し、スイスをとおって対フランス共同戦線に行軍するよう提案したこともまた記憶に値する出来事である。
したがって、スイスの誕生と存続を可能にしたのは、憲法協定に表明された意志の力だけではなく、幾つかの特殊かつ独特な状況が結びついた結果であった。こうした状況によってスイスは強大な隣国のまっただなかにあって生きのびることができたのであるが、しかしこれらの状況があるからといって、国家連合の構成国の間で平和を維持することができるというものではなかった。三〇〇年経つか経たないかのうちに、スイス諸国は相互間で数えきれないほどの小規模な戦争と、構成国のすべてあるいは事実上すべてを巻き込んだ五つの宗教戦争を戦った。多数の革命やクーデタが内乱状態を呈していたのである。
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道元と現代
『道元』より
「仏道をならうというは、自己をならうなり」(『正法眼蔵』「現成公案」巻) 道元は、ただひたすら坐禅をして、本来、自分自身にそなわっている仏になるべき可能性(仏性)を実現しようと説いた。仏道修行の根幹は、本来の面目、つまり人間が本来的に自分自身にそなえている尊厳性や純粋性を確実に把握することである。道元は、それを「自己をならう」という言葉で表現したのである。
仏教や禅になじみのない人には、仏道修行などというと、遠い世界の話に聞こえるであろう。しかし、仏道修行を自分自身の存在を確かに見極める場と言いかえてみると、ずっと身近になるのではなかろうか。「仏道をならう」ということは、究極の自分自身、真実の自分自身を確実に究明するということ、「明らめる」ということである。それをもっとも端的に示しているのが、冒頭の「仏道をならうというは、自己をならうなり」という言葉である。道元の、仏道を求めるはてしなき旅路は、十四歳のときに懐いた疑問から始まる。その疑問が向けられたのは、「草木国土悉皆成仏」(仏の本性は、草木国土といった無情なものにもある)とか「一切衆生悉有仏性」(生きとし生きるあらゆる存在には、すべて仏としての本性がそなわっている)という言葉で表現される考えである。これは日本仏教の特に比叡山天台仏教の基本的な考え方とされ、人間というのは生まれながらにして完成された人格を持っているともいう、いわゆる「本覚思想」である。この思想こそが、日本仏教の原点でもあった。
仏教は、生きとし生けるすべてのものは仏であるという。では、もともと悟っているものがなぜ修行をするのか。生まれながらに完成された人格を持っているなら、諸仏はなぜ苦しんでまで修行をするのか、もともと悟っているのになぜ悟りを求めて修行しなければならないのか、その修行とは何かという、当時の日本仏教に対する極めて基本的な疑問と言ってもよいものであった。
道元は、二十四歳のとき、その解決を求めて中国にまで渡り、正師天童如浄に巡り会い、その膝下(指導のもと)において徹底坐禅し、二十六歳の七月、「身心脱落」(身も心も一切の束縛から脱却した悟りの境地)する。
十四歳にして大乗仏教の中心思想が内包していた矛盾に目覚め、日本を離れ、正師を求めての求法の道を進んで来た道元の目的が、ここにおいて一応決着することになる。
帰国後の道元は、人間には確かに生まれながらにして豊かな仏性がそなわっているが、その仏性は修行しないことには実現せず、さらに、たとえその仏性が実現したとしても、それを実証しなければ確かにそのとおりであるということが身体で認証されないと説いた。坐禅そのものこそが身心脱落のすがたであり、そのままが悟りの証であるとして、従来の常識であった、坐禅は修行であり、その結果として悟りを得るという、悟りへの手段としての坐禅観を徹底的に打破し、「只管打坐」(ひたすら坐禅をする)を標榜し、その精神を確立した。
道元が生まれた鎌倉時代、朝廷・公家の世から武士の世に移ったものの、戦乱はやまず、地震や風水害が各地を襲い、人々は大きな不安のなかにあった。このころ世に流布していたのは、「末法思想」であった。これは、釈迦没後の時代を、正法、像法、末法の三つの時代に分ける思想である。釈迦の教えが正しく行われていた正法の時代が終わると、やがてそれが形式ばかりとなる像法の時代となり、さらに末法の時代になると仏道修行をしても効果がないと考えられていた。人の世には、戦乱や悪疫がはびこり、地獄のような様相を呈する。仏教も廃れ、人はいくら信仰に励んでも絶対に救われない。争乱と災害のうち続く中、救いの道が閉ざされる。そのように説く末法思想がもたらす不安感は、人々の恐怖心を増大させ、人々の生き方にも大きな影響を与えた。人々の不安が増大する中、阿弥陀如来に極楽浄土への往生を願う浄土信仰を提唱されると、人々はこぞって阿弥陀如来に帰依するようになっていた。
ところが、道元は、そうした末法思想をも真っ向から否定した。道元は、ひたすら自己を探求し、現実をありのままにとらえようとする。その根底には、修行そのものが仏道であるという張りつめた日々の生活態度がある。
「仏道をならうというは、自己をならうなり」(『正法眼蔵』「現成公案」巻) 道元は、ただひたすら坐禅をして、本来、自分自身にそなわっている仏になるべき可能性(仏性)を実現しようと説いた。仏道修行の根幹は、本来の面目、つまり人間が本来的に自分自身にそなえている尊厳性や純粋性を確実に把握することである。道元は、それを「自己をならう」という言葉で表現したのである。
仏教や禅になじみのない人には、仏道修行などというと、遠い世界の話に聞こえるであろう。しかし、仏道修行を自分自身の存在を確かに見極める場と言いかえてみると、ずっと身近になるのではなかろうか。「仏道をならう」ということは、究極の自分自身、真実の自分自身を確実に究明するということ、「明らめる」ということである。それをもっとも端的に示しているのが、冒頭の「仏道をならうというは、自己をならうなり」という言葉である。道元の、仏道を求めるはてしなき旅路は、十四歳のときに懐いた疑問から始まる。その疑問が向けられたのは、「草木国土悉皆成仏」(仏の本性は、草木国土といった無情なものにもある)とか「一切衆生悉有仏性」(生きとし生きるあらゆる存在には、すべて仏としての本性がそなわっている)という言葉で表現される考えである。これは日本仏教の特に比叡山天台仏教の基本的な考え方とされ、人間というのは生まれながらにして完成された人格を持っているともいう、いわゆる「本覚思想」である。この思想こそが、日本仏教の原点でもあった。
仏教は、生きとし生けるすべてのものは仏であるという。では、もともと悟っているものがなぜ修行をするのか。生まれながらに完成された人格を持っているなら、諸仏はなぜ苦しんでまで修行をするのか、もともと悟っているのになぜ悟りを求めて修行しなければならないのか、その修行とは何かという、当時の日本仏教に対する極めて基本的な疑問と言ってもよいものであった。
道元は、二十四歳のとき、その解決を求めて中国にまで渡り、正師天童如浄に巡り会い、その膝下(指導のもと)において徹底坐禅し、二十六歳の七月、「身心脱落」(身も心も一切の束縛から脱却した悟りの境地)する。
十四歳にして大乗仏教の中心思想が内包していた矛盾に目覚め、日本を離れ、正師を求めての求法の道を進んで来た道元の目的が、ここにおいて一応決着することになる。
帰国後の道元は、人間には確かに生まれながらにして豊かな仏性がそなわっているが、その仏性は修行しないことには実現せず、さらに、たとえその仏性が実現したとしても、それを実証しなければ確かにそのとおりであるということが身体で認証されないと説いた。坐禅そのものこそが身心脱落のすがたであり、そのままが悟りの証であるとして、従来の常識であった、坐禅は修行であり、その結果として悟りを得るという、悟りへの手段としての坐禅観を徹底的に打破し、「只管打坐」(ひたすら坐禅をする)を標榜し、その精神を確立した。
道元が生まれた鎌倉時代、朝廷・公家の世から武士の世に移ったものの、戦乱はやまず、地震や風水害が各地を襲い、人々は大きな不安のなかにあった。このころ世に流布していたのは、「末法思想」であった。これは、釈迦没後の時代を、正法、像法、末法の三つの時代に分ける思想である。釈迦の教えが正しく行われていた正法の時代が終わると、やがてそれが形式ばかりとなる像法の時代となり、さらに末法の時代になると仏道修行をしても効果がないと考えられていた。人の世には、戦乱や悪疫がはびこり、地獄のような様相を呈する。仏教も廃れ、人はいくら信仰に励んでも絶対に救われない。争乱と災害のうち続く中、救いの道が閉ざされる。そのように説く末法思想がもたらす不安感は、人々の恐怖心を増大させ、人々の生き方にも大きな影響を与えた。人々の不安が増大する中、阿弥陀如来に極楽浄土への往生を願う浄土信仰を提唱されると、人々はこぞって阿弥陀如来に帰依するようになっていた。
ところが、道元は、そうした末法思想をも真っ向から否定した。道元は、ひたすら自己を探求し、現実をありのままにとらえようとする。その根底には、修行そのものが仏道であるという張りつめた日々の生活態度がある。
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