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存在の力でのリーダーシップ

図書館を「シェア」ハウスに

 図書館をシェアハウスにする。本だけでなく、色々なものを皆でシェアする。コンピューターも交通手段もシェアする。ゼロから作るよりも、概念的には楽です。行政でありながら、土日もやっている。

20日ぶりにパートナーとリーダーシップについて話した

 リーダーシップの概念で苦しんでいた。意思の力でののリーダーシップの感覚です。そこで、存在の力でのリーダーシップを示そうとした。

 出来た時のイメージをすること、そのイメージを皆に植え付けて、それぞれの人にやってもらう。自分で仕切ろうとするから難しいのです。

 あるべき姿をどこまで、詳細にできるかどうか。それはファシリテーターの経験があるから、出来ることです。それぞれの人の役割が見えてきます。その上で、方向性を与えれば、変わってくる。

 そして、その成果を自分のモノにしないことです。自分のものにしようとすると欲が出て、相手を失います。それは一つの社会になるから、敵も味方もないです。それぞれが存在することが意味あることになっていきます。このやり方は汎用性を持ちます。

 そのためには、全ては自分のために用意されたと思い、主人公になることです。今回の人事異動もあなたのためにされたのです。その上で、内なる世界で出来たイメージをどう作るか。

 存在の力をどう示すかのシミュレーションになります。

 全ての本の存在もそれで理由が付きます。それぞれの著者の内なる世界からの発信を押えていくだけです。それによって、イメージができれば、人は変われます。変わらなければ、それだけのことです。
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図書館をどう?って『演出』する? 小布施町まちとしよテラソ

『つながる図書館』より 公募館長のもとに町民が作った図書館--小布施町まちとしよテラソ

館長が決まり、新図書館準備室が設置された。その後、開館までの二年間、町民たちはひたすら会議の連続だった。花井さんは図書館立ち上げのことを書いた著書『はなぼん』(文屋)でこう明かしている。

「図書館建設運営委員会が一八回、幹事会一三回、建築部会六回、運営部会六回、電算化部会一〇回。小布施町民が新図書館にどれほどの関心と期待を寄せていたのかがよくわかる」。そして、すべての会議で町民の意見は最大限に尊重されたという。

館長と同時に、遮る壁のない巨大なワンフロアの設計を提案してきたナスカ一級建築士事務所代表、古谷誠章さんが選ばれた。新図書館のコンセプトは、「学びの場」「子育ての場」「交流の場」「情報発信の場」という四つの柱からなる「交流と創造を楽しむ、文化の拠点」。そのイメージに近かったのが、古谷さんの案だった。

しかし、図書館建設運営委員会では、古谷さんの設計に対して町民からさまざまな要望がつきつけられた。当初よりワンフロアというプランだったにもかかわらず、「どうしても仕切られた小部屋がほしい。そうでなければ絵本の読み聞かせができない」と異論をとなえた女性がいた。読み聞かせをオープンな空間でやれば、他の利用者も集まってくるのでは。小部屋を作ってしまっては、設計のコンセプト、ひいては新図書館のコンセプトにも差し障りが出てくる。

意見が対立してしまい、会議の場がギスギスする中、花井さんは休憩時間、その女性に小部屋がほしい理由をあらためて訊ねてみた。すると、女性は「絵本の読み聞かせを盛り上げるために、部屋を暗くしてロウソクの明かりで演出してみたい」というアイデアを語ったのだ。どう図書館を「演出」していきたいのか。花井さんはそこをポイントに、町民の意見をまとめて町側と調整していった。

こうした町民との話し合いは順風満帆だったわけではない。近年、自治体と住民が町づくりのワークショップを行い、協働するスタイルが全国でも広がってきているが、意見が対立したり、バラバラになってしまったりすることは多々ある。これをまとめあげるのに必要なのが、中立の立場で物事を進めるファシリテーターだ。ところが、そのファシリデーターであるはずの花井さんは当初、新しい図書館へのイメージが湧く一方で、町民との温度差も感じてしまっていた。

「やっぱり図書館は静かに読書をする場所だ」「イベントは他の施設で行うべきだ」。従来の図書館像を求める意見が根強く、花井さんの熱意は空回りしていた。悩む日々。ついには「自分が図書館長になったこと自体が間違いだった」とまで思うようになる。しかし、小布施町の行政コンサルタントだった人が、相手の話に耳を傾け、受け止めることで話した人自身が課題解決の糸口を見つけるコミュニケーション術を実践しているのを見て、原点に戻ることができた。

「『町民が主役の図書館』。この大切な目標を、僕は見失っていた」と『はなぼん』で花井さんは回顧している。町民みんなの思いを受け止めるために、花井さんは奔走した。そもそも、交流を促すためのワンフロアの構造は、静かな空間という従来の図書館像と相反する。これらをどう両立させるのか。花井さんは長野県南部の下條村立図書館の視察からヒントを得た「タイムシェアリング」を紹介した。

下條村立図書館では、大人たちは子供たちが訪れ賑やかとなる昼間を避けて利用していた。特に図書館からお願いしたわけではなく、自然の流れでそうなったのだという。花井さんは「ルールありき」ではなく、利用者を信じることにした。町民たちもこれに納得、今のようなストレスのない伸び伸びとした図書館が誕生したのだ。

町民と行政をつないだ花井さんの苦労は実を結び、オープン直前、旧図書館から新図書館へ本を引っ越しさせる際には、町民たちが総出で手伝ってくれた。小中学生から定年退職した人たちまで、バケツリレーのように本が運ばれていったという。

こうした行政と住民の話し合いは、手間ひまがかかる。ともすれば、決裂してそのプロジェクト自体が空中分解する危険性もはらむ。しかし、図書館は老若男女、誰でも使える最も開かれた公共施設だ。行政は利用者のニーズに応えた方がよりよい施設を作ることができるし、利用する町民も自分たちの意見が反映された施設ならばより大切に思ってくれるだろう。

ましてや、ソーシャルメディアがこれだけ発達した現在、行政が密室の会議で物事を進めることはもはや難しい。だとしたら、時間はかかるかもしれないが、ソーシャルメディアを活用するがごとく、地域の人たちの声を集め、方向性を一歩一歩確かめながら、前に進める方法が図書館づくりには有効なのではないだろうか。

佐賀県の「伊万里市民図書館」では、二〇年ほど前からそれを実行してきた。労を惜しんで拙速に行政だけで図書館を作るのではなく、まちとしょテラソのように、地域の人だちとの「協働」で図書館を作る。そうした流れが今、全国の公共図書館で確実に起きている。

「まちとしょテラソの主人公は町民、僕たちは黒子。いかに主人公が引き立つか、どれだけすごい演出ができるか」と花井さんは笑顔で語る。

新しい図書館には読み聞かせや体操などができる全開放型の「多目的室」が設けられたが、「館長室」はなかった。公募で決まった館長の席はエントランスのすぐわき。公募で決まった建築家が設計した図書館全体を見渡せる席となった。やはり、公募で決まった名称「まちとしょテラソ」が掲げられた新しい図書館は、どこまでいっても町民が主人公なのだ。
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ヴィトゲンシュタイン『論考』の構造

『論理哲学論考』より 高校生のためのヴィトゲンシュタイン『論考』出前講義

いよいよ『論考』「論理学の革命」の解説で、本体に入りますが、以上の『論考』の三本柱の一つ「真理関数の理論」については説明をし終えたことになります。というのも、すでに指摘したように真理関数の理論は「命題論理」の体系とほぼ重なり合うからです。他の二本の柱とは「像の理論」と「語る/示すの区別」にほかなりません。これらについてはおいおい説明するとして、まず本文を開いてみてください。それぞれの文章に十進法の番号が付けられ、私が数え上げたところでは526個の短い断章(フラグメント)がブロックのように積み重ねられて本文が構成されています。普通の本なら部・章・節などに分かれますが、そうした叙述の仕方とはまるで違います。最初に「少々風変わりな哲学書」と述べたゆえんです。この番号付けにはヴィトゲンシュタイン自身の注がついています。それによると、数字はそれぞれの命題の「論理的な重さをあらわしている」そうです。またn.1はnに対するコメント、allおよびn.12はn.1に対する1番目および2番目のコメントというように「入れ子型」の構造になっています。それからしますと、コメントのつかないnという整数の命題こそが『論考』の骨格を形作る最も論理的に重い命題ということになるでしょう。一桁の命題は7つあるのですが、参考までに黒板に書きだしておきましょう。

 1 世界は、そうであることのすべてである。

 2 そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっていることである。

 3 事実の論理像が、考えである。

 4 考えとは、有意味な命題のことである。

 5 命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、それ自身の真理関数である)

 6 真理関数の一般的な形式は、こうだ。[p、ぞ、N(ぞ)]これは、命題の一般的な形式である。

 7 語ることができないことについては、沈黙するしかない。

もちろん、読み進むに当たって、番号の数字にことさら拘泥する必要はありませんが、読んでいくうちに蹟いたりわからなくなったときには、それが注釈となっている元の命題に順次立ち返ることをお奨めします。ヴィトゲンシュタインは考え抜いた上で番号を振っていますので、必ず何らかのヒントが得られるはずです。

さて、1の命題に対する注釈は「1.1世界は、事実の総体である。事物の総体ではない」というものです。普通なら世界は事物の総体だと考えるところですが、論理的観点に立てば「1.2世界を分解すると、複数の事実になる」のです。ここには「語」から「文」への転換という「論理学の革命」の成果が反映されています。つまり、事物を名指す「名辞(語、名前)」と事実を描写する「命題(文)」とが対比され、後者の方がより基本的だというわけです。そのことは後に「3.3命題だけが意味をもつ。命題の脈絡のなかでしか名前は指示対象をもたない」という形でも表現されます。これはフレーゲによって定式化されたもので、通常「文脈原理」と呼ばれています。

次に2では事実が「事態が現実にそうなっていること」という形で捉え直されます。また「2.04現実になっている事態たちの総体が、世界である」とも言われているように、ここで改めて「事態」が世界を構成する基本要素としての役割を与えられます。さらに「2.01事態は、対象(事柄、事物)が結合したものである」や「2.011事態の構成要素であることができるのは、事物にとって本質的なことである」とあることに注目しましょう。これまで背景に退いていた事物が、ここで再び事態との関わりの中で明確に位置づけられます。したがって「2.0272対象の配置が、事態をかたちづくっている」わけですが、事物(対象)は単独で出現することはできません。先はどの文脈原理を援用すれば、事物はあくまでも事態の脈絡の中でのみ出現しうることを忘れてはなりません。これは述語論理における定項や変項が、命題の内部構造に依存して析出されることに相当します。その意味で、『論考』においては「事態」と「事物」という形で、世界の基本的構成要素が二重化されていますが、これは現代論理学における命題論理と述語論理の構造的二重性に対応すると考えていいでしょう。

もう一つ「論理空間」という概念を説明しておかねばなりません。これは最初の方に「1.13論理空間のなかにある事実が、世界である」という形で登場しますが、明らかに論理空間は世界よりも広い概念です。論理空間のなかには事実でないもの、つまり成立していない事態も含まれます。成立・不成立を問わず、あらゆる可能的事態を包含したものが「論理空間」にほかなりません。そのうちで実際に成立している事態、すなわち事実から成り立っているのが、われわれの住むこの現実世界なのです。だとすれば、論理空間は考えうる限りのあらゆる可能的世界の集合体と考えることができます。ヴィトゲンシュタインは「論考」の「はじめに」で、「つまりこの本は、思考に境界線を引こうとしているのです。いや、むしろ一思考にではなく、思想の表現に、境界線を引こうとしているのです」(3頁)と述べていました。それからすれば、「論理空間」という概念は、思考の限界であるこの境界線を論理的に具体化したものと考えることができます。
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