ヘブル人への手紙 2章
久しぶりに、アメリカ東海岸に住む同労の方と話しました。お元気そうな様子に互いに安堵(あんど)。話をしているうちに、時差に気づき「今何時?」と尋ねますと、「朝の3時半」とのこと。いただいた通話(?)でしたが、「すみません!」とおわびしてしまいました。数日前に日本から戻ってまだ体がこちらに慣れていないので、夜中でもだいじょぶとのことでした。
ヘブル人への手紙の著者は、前の章でイエスは御使い(天使)よりもはるかにまさるお方、つまり万物の創造者であり、相続者であると、つまり神であると説きました。しかし本章では、その御子がほんのわずかの間、御使いよりも低くされたと続けます。ここで、「低くされた」というのは、この章にある他のことばで言うなら、人がみな血と肉を持っているのと同じように、血と肉を持つものとなったということです。すなわち、人となられたのです。ありえないことです。
それは、死の苦しみを受けるためでした。もちろん、自分のための苦しみではなく、すべての人のためのものでした。「すべての人のため」ということばが目に留まります。そこには私も含まれています。そして、これをお読みのあなたも…。私の代わりにそんな苦しみの極みまでも通られたということは、これがなければ私は死の苦しみを延々と味わい続けなければならないのです。恐ろしいことです。
10節に、神が御子を多くの苦しみを通して完全なものとされたとあります。御子は完全なお方ではなかったのかという「突っ込み」が入りそうです。しかし、ここでの意味は不完全な人格が完全になったということではありません。御子イエスが、救いのわざのすべての過程を完全に走り抜かれたことで、救いのわざを完全に成し遂げられたということを言おうとしているのです。ありがたいことです。