みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神を「あなた」と呼ぶ

2019年09月04日 | サムエル記第二

サムエル記第二 22章26−52節

 毎日できるだけ歩くようにと心掛けてはいますが、歩くこと以外はこれといった運動をしていないので、どちらからともなく「ラジオ体操」の提案が…。当地に来てしばらくはしていたのですが、久しぶりに再開です。いつまで続くことでしょう。でも、このように書いたり宣言したりすることが継続の力になる場合もあります。近くの方、「ラジオ体操は続いている?」とお声掛けください。

 この詩の表題は「主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った」です。「サウルの手から救い出された日」とは、サウルがギルボア山の麓(ふもと)の戦いで殺された日のことでしょうか。しかし、サウルが殺されたとの知らせを聞いたダビデは、喜ぶどころか深い悲しみを抱いて、サウルとその子ヨナタンの死をいたんで哀歌を詠んだことが、本書の初めの部分に記されています。

 追うサウルと追われるダビデという力関係は、最後まで変わることがありませんでした。ダビデはサウルを主に油注がれた王として敬い、いのちを奪う数度のチャンスにも手を出そうとはしませんでした。この詩には、敵の執拗な攻撃の様子が歌われています。それは、サウルがダビデのいのちを狙い続けたことを思い浮かべるます。けれどもダビデにとって敵とは、サウルだけではなく、イスラエルを苦しめたペリシテ人だけでなく、いや、そのような目に見える「誰か」ではなくて、ダビデを神から引き離そうとするもののすべてなのではないかと、考えるのです。

 詩の後半には、前半には見られなかった変化が見られることに気づきます。それは、ダビデが神を「あなた」と呼んでいることです。何回出でてくるかを数えてみるのもよいでしょう。「私」と「あなた」という神との近さはダビデの宝物。神を「あなた」と呼ぶことができるので、彼は諸々の敵の手から守られ、倒すことができました。それは昨日も書きましたが、彼自身の力や強さによるものではありませんでした。

 神を「あなた」と呼ぶことのできる関係こそがダビデの強さではないでしょうか。

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