みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

高ぶりが妨げに

2019年09月24日 | イザヤ書

イザヤ書 15−16章

 警告サインが出たタイヤの空気圧をチェックしたところ、空気圧を規定よりも高くしていたタイヤが2本あることがわかったので、空気を抜いて調整しました。タイヤの空気圧は高くすれば良いということではないのですね。

 この日に読む15−16章には、死海を挟んでイスラエルの南東に位置するモアブに、神がイザヤによって語った宣告が記されています。これは、アッシリアによる侵入の様子を描いているのです。「一夜のうちに…」ということばが15章1節に二度用いられていることから、モアブへの侵入が素早いものだということがわかります。アルといはモアブの北の境界にある町で、キルとは、16章11節ではキル・ヘレス呼ばれているモアブの中心都市でした。敵はモアブの北から南へと怒濤のように侵入したのです。

 16章の初めの部分は、危機に際してのモアブの指導者たちの会議のようです。隣のユダに小羊を送って助けを求めたと取ることもできます。そこで主は、ユダがもアブにとっての影、隠れ家となるようにと語るのです。けれども、結局モアブはユダに頼ることをやめます。16章6−7節にその理由が明らかにされます。モアブが高ぶったからです。

 これは想像ですが、ユダに助けを求めるということはすなわち、主に信頼すること。助けを求める者は相手に対してへりくだる必要があります。しかし、モアブにはそれができなかったのです。どうしたら窮地を脱することができるだろうかというようなことは、

 健康を損ねたり、仕事に行き詰まったり、人間関係がこじれたりするなど、山ほど起こります。そのような時に、神に頼るなどということは、自分のプライドが許さないと考える人もいます。神に頼るとは、弱い人間のすることだ…というのです。しかし、私たちが何かに追い込まれているということは、自分が弱いということなのです。

 誇りを捨て、高ぶることをやめて、幼子のようになってわたしに頼るようにと、神はモアブの崩壊する様子に涙を浮かべながら呼びかけておられると、ここを読みました。


いと高き方のようになろう

2019年09月23日 | イザヤ書

イザヤ書 14章

 アウトバーンを走行中、タイヤの空気圧異常だとの警告が…。金曜日に空気圧をチェックし充填したばかりなのにと思ったのですが、どうしたのでしょうか。この自動車には、他にもいろいろなチェック機能があり、助かることが多いです。神のことばは、時に、私たちに危機を知らせます。

 4節以降で再びバビロンへの宣告が続きます。バビロンの陥落に「全地は安らかに憩い、喜びの声をあげる」というのですから、どれほどの脅威であったかがわかります。バビロンはユダを初めとする周辺の国々を虐げ、横暴をほしいままにしたのです。

 興味深いのは、死んでしまったバビロンの王を迎えるよみのざわめきです。先によみに落とされた国々のすべての王たちが、「おまえもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者となった」と迎えるのです。どんなに権勢を誇っていた者もいつかは死に、死ねば全く無力になってしまうという当たり前のことに気づかせる場面です。

 神がバビロンの王が倒し、よみに落とした理由は高ぶり。「天に上ろう。神々の星々のはるか上にわたしの王座をあげ」よう、「いと高き方のようになろう」と望んだのです。「高慢は破滅に先立ち、 高ぶった霊は挫折に先立つ」と箴言16章18節にあります。

 バビロンやアッシリアなど、神に造られた者の高ぶりに、神は断固立ちはだかります。22節から27節に「万軍の主」ということばが繰り返されてることから、高ぶりをさばく神の固い決意を覚えます。人間の、このような高ぶりは、現代ではよりかっこよく、姿を変えて表れているように思うのですが…。


主を知ることが…地に満ちる

2019年09月21日 | イザヤ書

イザヤ書 11−12章

 あっという間の土曜日! 一緒に聖書を開いて読む喜びを、いろいろな場所で味わうことのできた週でした。

 11ー12章には「エッサイの根株から新芽が」ということばで始まる希望のメッセージが届けられます。メシア(救い主)到来の約束です。エッサイはダビデの父の名前。イザヤがこの時に預言者として働いていたのはダビデの子孫が代々王位を受け継いでいる南王国ユダです。根株ということばには、そのダビデ家の王位が木が切られるように、断たれてしまったと思われる時が来ることを示しています。

 しかし、メシアは刈り取られた根株からの新芽として来るのです。マタイの福音書のはじまりにある「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とのことばが心に浮びます。さらに、メシアの上には主の霊がとどまると続きます。そして主の霊がとどまることが、メシアが真の王として治めるためのすべてを備えるのです。

 心に留まるのは「主を知ることが、海を覆う水のように地に満ちる」という9節のことばです。メシアが王としてこの地を治めることによって、人間ばかりでなくて神がお造りになった被造物の世界に秩序が回復されます。それが、主を知ることが地に満ちることによって実現するのです。

 今、この世界には何が満ちているのだろうか、と考えてみました。人によって関心の範囲が違いますので、一言で「これだ」ということはできません。主を知ることが地を覆っているのかというとそうではないと考えます。そして、自分自身の心は何を求めているのだろうかとも問われます。主を知ることなのだろうか、それとも他のことなのだろうか…と。 


杖や鞭にすぎない

2019年09月20日 | イザヤ書

イザヤ書 10章

 今週も、最近引っ越された方のお宅を訪ねました。お引っ越しの祝いにはパンと塩を贈るとのことで、お持ちしました。聞くところによるとパンは「食べ物に困らないように」という願いが、塩は「富と繁栄のシンボル」なのだそうです。以前よりもお宅全体が広くなり、聖書を一緒に読むリビングルームも日当たりがよい明るい所でした。

 この章には特に5節以降で、北王国イスラエルを滅ぼし、南王国ユダにも大きな脅威を与えるアッシリアへの神からのさばきの宣告が届けられています。アッシリアはイスラエルを懲らしめるために用いられる神の怒りのむち、憤りの杖です。

 ところが、アッシリアは自分たちの力、勝利が自分たちによるものだと取り違えて、「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ」と高ぶります。「全能者のように住民をおとしめた」とまで言います。主なる神は、彼らの高ぶりを見て、さばきを下されるのです。

 神はご自分のお考えを実行するために、さまざまな人を用いられます。そのために、ある者には知恵が与えられ、ある者には力が、富が与えられます。ですから、用いられている者が「私がやった」「私の力で…」と自分を誇るのは、お門違いなのです。けれども、気がつかないうちにそんなお門違いをしているのではないだろうかと、自分を振り返るのです。

 「…あなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」と弟子たちに教えられたイエスのことばを思い出しています(ルカの福音書17章10節)


御手は伸ばされている

2019年09月19日 | イザヤ書

イザヤ書 9章

 買い物をするために出かけ、気に入った物を選びレジに並ぼうとしましたが、バッグの中には財布がありません! 結局買おうとしている物を棚に戻して他の物も買えずに歩いて帰宅。財布は机の上にありました。とても良い運動になったねと、自分たちに言い聞かせました。

 本章の前半にはよく知られた「一人のみどりごが私たちのために生まれる。一人の男の子が私たちのために与えられる」ということばを初めとする、メシアの到来についての預言があります。ガリラヤ湖西岸に位置するゼブルン、ナフタリの地は、アッシリアによって真っ先に征服された地(「辱めを受けた」ということばがそのことを表しています)です。けれども、やがてこの地に闇がなくなると預言されています。メシアとガリラヤとのつながりを思わせる預言です。

 8節以降では、南王国ユダの兄弟国とも言える北王国イスラエルに、神がことばを送っておられます。彼らはイスラエルが北と南に分裂してから、神に背き続けました。神は彼らにアモスなどの預言者を遣わして神に逆らう罪を悔い改めるようにとの警告を与え続けてこられたのですが、それでも彼らは背き続け、神のことばを聞こうとはしません。自分たちの力を過信し、困難を乗り越えようとします。神は高ぶりに気づかせようとして彼らに敵を送るのです。

 「みことばの光」が書くように、「それでも御怒りは収まらず、なおも御手は伸ばされている」ということばが三度繰り返されるのは、彼らの頑なさがどれほどのものであるかを示しています。「懲りない」とは、この時のイスラエルにふさわしいことばなのかもしれません。

 メシアが来ることによる光は、この時に神の御怒りの御手が伸ばされているイスラエルにまず輝くのです。神が本気でお怒りになるその先にこそ、まことの光が輝いているのだということを、教えられます。


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