みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

だれに拠り頼んでいるのか

2019年10月18日 | イザヤ書

イザヤ書 36章

 先日拾った胡桃(くるみ)を割って実をフライパンで炒ったところ、よい香りが台所に…。ところが、何個も胡桃を割っているうちに、胡桃割り器が壊れてしまいました。「胡桃割りならぬ胡桃割り器割り」となったのです。

 36―39章はイザヤ書前半のまとめの部分で、実際に起こった出来事が記されています。「ユダよ、エルサレムよ、人に頼るのか神に頼るのか」とずっと預言者イザヤによって神が問いかけてこられたことについての答えが、現実の体験によって明らかにされたのです。神がご自分に頼るようにと何度も語られたことばの正しさを示す「しるし」として位置づけられているばかりか、イザヤ書後半で語られることばの「しるし」としての役割も果たす記事になっています。

 「ヒゼキヤ王の14年」とは紀元前701年のこと。アッシリアは怒濤(どとう)の勢いでパレスチナを南下して攻め込んできました。アッシリア側の年代記によれば、アッシリア軍はアシュケロンとエクロンというペリシテの諸都市を落とし、そこから東進してユダのラキシュを初めとする46の堅固な町と周辺の小さな町々を包囲して征服したとあります。今年2月にイスラエルに行った折りに、このラキシュを訪ねました。

 センナケリブは、このラキシュからラブ・シャケに率いられた大軍をエルサレムに送って降伏を迫るのです。ラブ・シャケ数々のことばからは、力を誇る側の自信のようなものが伝わってきます。その中で、「おまえは、何に拠り頼んでいるのか」「おまえは、だれに拠り頼んでいるのか」ということばは、敵からのことばではあっても、神に拠り頼んで歩むとしているすべての者への、そして私への挑戦のように響きます。 ほんとうは「だれに拠り頼んでいるのか?」と…。

*ラキシュ攻略の後、奴隷としてアッシリアに連れて行かれるユダの人々のレリーフ(イスラエル博物館にあるレプリカ)


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