使徒の働き 13章42-52節
きのうは恐らくこの夏一番の暑さ。32度5分ぐらいだったと聞いています。そのような中、月に一度キリスト教放送局での録音に出かけました。ところが、うっかりして時間を間違えてしまったのです。いつもどおりの午前11時に…とのつもりで出かけ、着いてみますと午後0時半からでした。さて、1時間半どうしようかと思いましたが、町の中心まで行ってみることに…。それが大当たり。大聖堂を見学し、町の中を流れるラーン川にかかる中世の石橋を眺めたりして、良い時を過ごしました。
ピシデヤのアンテオケでのパウロの説教が終わりました。ここには、人々の反応が記されています。もっと話してくださいという反応と、口汚くパウロたちをののしるという反応でした。これが、異邦人への伝道へと大きく舵を取ることにつながっていきます。ちょっと飛躍があるかもしれませんが、ピシデヤのアンテオケでのユダヤ人の反対が、私が福音を聞くことができるようになった契機になったとも言えます。
さらに、町のユダヤ人たちはパウロを追い出しにかかりました。このため、パウロたちは生まれたばかりの赤ちゃんのような弟子たちを残して、ほかの地に行かなければなりませんでした。しかし、心に留まることばがあります。「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」という13章最後のことばです。聖霊は、生まれたばかりの信者たちといっしょにおられ、彼らに喜びを賜わり育てておられたのです。この一言が、宣教が聖霊のみわざであることを改めて確認させてくれます。
育てられるのは神、なのです。