テサロニケ人への手紙第一 5章1−11節
きのうの午前はドイツ語のレッスン。教えるのが上手な、というよりもほめるのが上手な先生に励まされて、楽しいあっという間の90分でした。帰宅するとすぐに、「ドイツ語で聖書を読む会」。午前のレッスンの効果か、これまでよりもわかります。でも、先はまだまだ…という感じです。次回は金曜日。
主イエスが再びおいでになるのを熱心に待っていたテサロニケ教会に、パウロははどのようにして待つのかを書いています。それは「みことばの光」がまとめているように「恐れるな」「恐れよ」ということです。
中には、主イエスがいつおいでになるのだろうと、あれこれ詮索する者もいました。この人々にパウロは、主がいつおいでになるのかはだれにもわからないのだから、主に信頼する者は恐れることはないというのです。そして、いつおいでになってもよいように、主を恐れる生活をして待とうではないかと呼びかけているのです。
心に留めたのは、6節の「目を覚まして、慎み深くしていましょう」ということばです。
「目を覚まして」というのは、いつおいでになってもよいように、主に信頼して日々を歩むようにという意味です。「慎む深くして」というのは、主がおいでになることに過敏になることなくて、落ち着いた生活をするようにという意味です。信仰の歩みには、主がいつおいでになってもよい…という覚醒した心と、いつおいでになるかということにあたふたしないで落ち着いた生活をするという慎み深さの、両方が必要なのだと教えられます。