詩篇 22篇
トルコ旅の実質四日目の金曜日は、コロサイ、ラオディキア、そしてエペソを訪ねました。同労の方が「コロサイは見つけにくい」と言っておられたので懸念していましたが、道路標識に表示されていましたので、無事到着。ほとんど発掘などされていない丘の上に……。そこで、コロサイ人への手紙1章を読むことができたのは、大きな喜びでした。
詩篇22篇は、メシアであるイエスが十字架につけられることによって実現する預言です。
1節は、イエスが十字架上で話された七つのことばの一つです。神の御子イエスが神に見捨てられる、つまり神が十字架につけられたご自分の御子を見捨てるなどありえません。しかしこの時父なる神は御子を助けることなく、見捨てられました。しかし、それは私たちが神に見捨てられていないということを意味しています。
8節の「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから」も、イエスの十字架において成就しました。マタイの福音書27章43節に「彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」とあります。
18節の「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」は、マタイの福音書27章35節の「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた」に通じます。
見捨てられることがどんなに辛いかは、味わった人でなければ分かりません。御父が御子を見捨てることなどありえないということが起こったのです。神に見捨てられるのがどれほどのことなのかを、イエス自らが経験してくださった……。それは、私たちが神によって見捨てられることはないということの希望なのだと考えました。