コリント人への手紙第二 11章1−15節
水曜日午前の祈祷会、「みことばの光」のその日の箇所を読むのですが、みんなで読むと一人では読み過ごしてしまうことばに目が留まります。
10章の後半に何度も用いられているのが「誇り」「誇る」ということば。パウロの誇りとは自慢や自己満足ではありません。達成感に浸ることとも違います。彼はキリストが自分に授けてくださった務めに励み、それを成し遂げることによって、主を誇るのです。ですから、パウロの誇りとは主を誇ることです。
彼は「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います」と書いています。「少しばかりの我慢」というのは、彼が自分が使徒であることを、特にコリントの教会に福音を届け、彼らを心底愛していることを誇ることです。
しかし、コリント教会は表向きは真理の教師の顔をした偽者によって荒らされ、主イエスの教会としてのあり方を失っていました。特に偽教師たちはコリント教会の土台を据えたパウロに激しい攻撃を浴びせて、自分たちが教会の指導者となろうと企てていました。
そして彼らのねらいは、教会から経済的な利益を吸い上げることにもありました。パウロが自分の生活の糧をコリントの教会に期待しなかったと証しするのは、そのような背景に基づくものだったのでしょう。
6節はユーモラスにさえ響きます。パウロをそんなふうにけなす輩(やから)がいたのです。誰かを貶(おとし)めようとするとき、人はどんな手段をも用います。なんと陰険なことでしょう。でも彼は、「そんなことはない! 自分は素人ではない」としていきり立つことはしません。学ぶべき姿勢です。