みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

怒りの器、あわれみの器

2011年12月03日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙9章19-33節


 母が食堂をやっていたことから、我が家にはいろいろな器があります。まったく使われない器もあります。それでも、何となく捨てがたいので残してあるのです。壊れたりしてだいぶ少なくなりましたが、それでも、ラーメンのどんぶりなどはなかなかのものだと気に入っています。
 
 神が人をみこころのままにあわれみ、かたくなにされるのなら、神には罪を犯した人間を責めることができないのでは…という疑問に、パウロは器を例に答えています。
 陶器師が、同じ土のかたまりからいろいろな器を思いのままに作る権利を持っているように、神には人をご自分の意のままに造り、お選びになる主権をお持ちなのだというのです。

 実際の器は、作った人に逆らうことはせずに、忠実に(?)、器としての役目を果たしていますが、人間はやっかいです。神に逆らうからです。
 陶器師なる神がそのような「怒りの器」を滅ぼしてしまったとしても、だれも文句は言えません。ところが神は、その中から「あわれみの器」を用意してくださったのです。

 初めから「怒りの器」「あわれみの器」と分かれているのではないのですね。すべての人は「怒りの器」なのです。
 その「怒りの器」である者が、主イエスを信じて神のあわれみをゆたかに受ける者となったのは、何とありがたい、嬉しいことかと、感謝でいっぱいです。

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
  ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
  値なしに義と認められるのです。」ローマ人への手紙3章23節





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