みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そういうわけですから

2011年12月09日 | ローマ人への手紙
ローマ人への手紙12章1-8節


 早朝の祈祷会の途中から雨が雪に変わりました。初雪です。
 昨日、思い立って冬タイヤに履き替えたばかりなので、何と絶妙のタイミングなのだろうとこちらが驚きました。けれども、私が住む所ではほとんど冬タイヤが登場する場面はありません。
 日曜午後から東北に出かけるので準備をしたというのが、ほんとうのところ…。
 
 「そういうわけで」という12章初めのことばは、8章の終わりを受ける接続詞です。試しに、8章38、39節、そして12章1節というように、声を出して読みますと、「信仰者として生きる」ことの動機がよくわかるようになるのです。「みことばの光」が書くように、8章39節が「こだまのように」響いているのです。
 
 まず思うのは、礼拝とは日曜日のある時間に共に集まってするということだけを指すのではなく、信仰者が自分のからだを「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる」ことなのだということです。

 ここを読むと、今は天におられるある牧師が、ユーモアたっぷりに話してくれたことをいつも思い出します。
 
 最近礼拝をお休みになっている方が駅で牧師さんにばったり。曰く。
 「先生。この頃いろいろと忙しくて失礼しています。そういうことで、からだは難しいのですが心は礼拝に行っております。」
 牧師さんは答えました。「からだも心といっしょに礼拝にいらっしゃいね。」

 ともかく、信仰によって神の義とされた信仰者がこの世にあって生きていくことの、基本がここにはっきり示されているのです。この基本、何歳になっても忘れてはならないことですね。


 


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