細川忠利は、文禄三年(1594)から慶長三年(1598)まで、愛宕山福寿院に入り学問に励んだ。その時学友として側に在ったのが田中以徳である(細川家家臣ではない) ある時忠利は細川家側近を召し、出家すべく内意あったが、意徳が再三お止めしたという。慶長五年(1600)正月、忠利(15歳)は証人として江戸へ下っている。豊前時代に至り突然の召しだしが有り、知行300石細川家家臣となった。寛永十八年忠利死去(56歳)にあたり殉死、63歳であった。跡式は弟長野一閑の嫡子・甚左衛門である。
過日「転切支丹の系図」を手に入れた。ここに「肥後国飽田郡熊本城下浪人転切支丹永野一閑」の物があった。何気なく眺めていたのだがどこかで見た名前だ。系図をよく見ると「田中」という氏が並んでいる。間違いない、田中意徳に関係あると直感した。田中氏の「侍帳」を見ると間違いない意徳の弟・一閑を確認、又一つ成果を加える事が出来た。
長野(永野)一閑の経歴は分からない。しかし転切支丹として記録されており、其の事を以って浪人したのだろうか。
ちなみに田中意徳・永野一閑の祖母菊が、大阪城最期の模様を伝える「阿菊物語」の著者である。 www.ikedakai.com/text/okiku.html
過日「転切支丹の系図」を手に入れた。ここに「肥後国飽田郡熊本城下浪人転切支丹永野一閑」の物があった。何気なく眺めていたのだがどこかで見た名前だ。系図をよく見ると「田中」という氏が並んでいる。間違いない、田中意徳に関係あると直感した。田中氏の「侍帳」を見ると間違いない意徳の弟・一閑を確認、又一つ成果を加える事が出来た。
長野(永野)一閑の経歴は分からない。しかし転切支丹として記録されており、其の事を以って浪人したのだろうか。
ちなみに田中意徳・永野一閑の祖母菊が、大阪城最期の模様を伝える「阿菊物語」の著者である。 www.ikedakai.com/text/okiku.html