津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本県宇城市三角町の「細川御殿」

2007-10-26 18:05:55 | 歴史
 熊本県の地図の上半分を良く眺めると、犬が尾を立てて前足を投げ出し左向きに座っているように見える。その足の先端が三角町(宇城市)、五つの橋を渡って天草に入ることになる。その三角町の西港は明治大正の建物などが残っており、レトロな感じが人気を呼び、釣りを楽しむ家族連れなどで賑っている。ここから更に数百メートルの左側、山の上り口に当たる所に、地元の人が「細川御殿」と呼ぶ建物がある。現在は知人の不動産業者の所有となっているが、まったく使われることなく荒れ放題である。庭を通して目の前に海が広がっているが、庭木や隣接地の木々が手入れされておらず、せっかくの景色も死んでしまっている。この「御殿」の主は、細川家十五代藩主護成の妹・志津子である。生母は水俣の深水頼寧の三女ヌイで、志津子は阿蘇惟孝に嫁するが離縁しこの地で余生を送った。随分と面長の方だが気品漂う面差である。生い茂った雑草を払いながら、外から眺めさせていただいたが、40坪にも満たない様な慎ましやかな感じが印象的だった。このままでは朽ちていくばかりの有様に、何とかならないものかと考える。
熱心な法華宗の信者で、本妙寺の旧本堂を建立したと伝えられる。ここに数々の遺品が残されている。妙解寺の子女墓に眠っておられる。
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豊臣秀頼のお姫様

2007-10-26 13:18:03 | 歴史
 熊本城の西、JR鹿児島本線を越した地域が島崎地区で、藩政時代はご大身の下屋敷や別荘などがあった場所である。大きな一本道が山付に行き当たると「団子坂」に至り、かっての金峰山の登山口から、険しい鎌研坂へとつながっている。この「団子坂」はかっては「丹後坂」と言っていたらしい。団子坂の坂道を数百メートル登ると右側に、「西の武蔵塚」と呼ばれる一帯がある。武蔵をはじめ、二天一流の継承者寺尾家代々のお墓が並んでいる。その隣には廃寺となった霊樹院跡がある。細川家家老有吉家のお墓が並ぶが、この霊樹院の名は有吉英貴室に由来している。霊樹院(古屋姫)は三渕好重(細川幽齋・末弟)の娘とされるが、実はこの古屋姫は豊臣秀頼の娘であるとも伝えられている。いささか胡散臭い話しだが、忠興の養女として好重の室となったという。あちこちを散策したり掃苔したりしていると、いろいろ面白い事に出くわすが、このことも一級品の話しではある。
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