津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

虎の頭骨と片鎌槍

2007-10-19 09:57:24 | 歴史
 加藤清正がしとめた虎の頭骨と、片鎌槍が展観されるということで、盛んにTVで放映されている。これらは清正の息忠広の娘・献珠院が、阿部政重に嫁ぐ際嫁入り道具として持ち込んだものである。忠広が配流の地庄内で亡くなった時、上野(群馬)に在った息正良は自刃、母法乗院も亡くなった。一人献珠院が取り残された。五年後に赦されて紀州徳川の重臣渡辺若狭守の養女となり旗本阿部家に入ったのである。
 片鎌槍は政重から紀州徳川家に贈られた。後、旧帝室博物館(国立博物館)の所蔵するところとなった。虎の頭骨は後年某家の手に渡り、後徳川黎明会が所有するところとなり、徳川美術館所蔵となった。夫々が処を得て、現在もこのように大事に残されていることは喜ばしい事である。
 さて、片鎌槍については「加藤清正息女遥林院様御輿入之節御持込」と書かれていたらしいが、「清正と虎と片鎌槍」を著された轟一郎氏によると、これは明らかな間違いだと指摘されている。昭和52年のことである。(上記経緯は同著より引用した)
 今般、水野勝之・福田正秀氏共著による「清正『妻子』の研究」が発刊され、従来忠広(生母・正応院-玉目氏)と同腹の妹・あま姫(遥林院)が、実は水野忠重女・清浄院の腹の子であり、清浄院こそが清正正室である事が確認された。その血筋をもってあま姫は紀州徳川家・頼宣の正室となり得たのである。清浄院の父忠重は、徳川家康の生母・お大の方(伝通院)の実弟である。
 片鎌槍についての誤記もこのあたりのことが錯綜してのものであろう。しかし収まるところに収まったという感がある。不幸な加藤家の結末は悲しみを誘うが、あま姫(遥林院)や献珠院の穏やかであったろう後世を思うと、ほっとした思いにいたるのである。
「清正『妻子』の研究」は、加藤清正研究の将に集大成とも言うべき業績である。歴史家や研究者、文筆家などの各位は、この著の言わんとする所を大に理解するべきである。すなわち誤った事実や解釈が、ここに完全に修正された事をもって加藤家の真実が満天下に宣言されたという事である。
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先祖を調べる

2007-10-19 07:26:56 | 徒然
 我が家の先祖附を眺めながら、僅かの手がかりを元に関連する事柄を少しずつだが調べている。私の今日の歴史狂いの原因の一つは、先祖附の中にあった「佐々助三郎」の名前であった。「あの水戸黄門の・・・?」という訳だ。貞享二年六月の事、助三郎こと宗淳は熊本に入っているが、ご先祖様は各所を調査する宗淳について廻っている。又幕府の巡見使が都合九回熊本に入ったが、天和元年に奥田八郎衛門以下が来熊の際またまた案内役を務めた。実はこの二件について調べているが、一向に前進しない。宗純の熊本入りについては、水戸まで行けば何か見つかるのでろうが、暇がない。前に書いたような「本」にでもしようという野心はないのだが、全く興味を示さない子供達に、なんとかご先祖様の事跡を伝えようと思うが故である。この状態だと、相当長生きをしなければ成らない。
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