津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

宇治のお茶

2007-10-25 14:10:47 | 歴史
 細川家家臣上林氏のご子孫が判明した。田辺城籠城衆上林助兵衛のご子孫である。資料を送ったり頂戴したりの交流が始まった。そんな矢先「細川家文書・御判之物」を眺めていたら、次のような文書に出っくわした。

      宇治より市左衛門と申者罷下当町に有付居申候、
     彼もの茶ゑんの儀能存候間、上林甚介請合仕御茶
     ゑん仕立可申由申上候、左様二御座候ハハ御礼申
     上度由申間被得御諚可被仰候、以上
       二月三日   浅山清右衛門(花押)
                西郡刑部少輔(花押)
        飯田才右衛門殿

 この文書は前後にある文書から、寛永九年頃のものであろうと考えられるが、ここに出てくる上林甚介は上林助兵衛の息であろう。

 我がサイトの「侍帳」を眺めていて木村半平家の侍帳に目が止まった。木村家の祖とされているのは上林加賀守である。「武家家伝」にも登場している。細川家召出しは寛文五年とされるが、寛文四年・侍帳にすでに記載が見える。二代目半平は宇治代官上林某の家から養子として入りのち家老を務めた。三代目も養子で細川新田支藩二代利昌の男豊章である。ここで注目したのは、家祖が上林加賀守、下って細川家家臣木村家ニ代が宇治の代官上林氏の出であることである。「武家家伝-上林氏」を見ると意外な事実に遭遇した。宇治地方でお茶の栽培管理に当たっていたと言うのである。遡ればご先祖様はご一緒ではないのかという、素朴な疑問が湧いてくる。
上林甚介が熊本において、お茶の栽培に携わろうとするのは、全く関係ないとはいえそうにないではないか。今後の課題ではあるが、なかなか面白い。

偶然の発見だが、こんな事があるからわが「歴史探訪」は段々深みにはまっていく。止められない・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治九年十月二十四日

2007-10-25 09:09:54 | 歴史
 石光真清の「城下の人」によると、明治九年十月二十四日は寒い風の吹く日であったという。夜中に起きた一騒動の詳細を、幼い真清は翌日知ることと成る。いわゆる「神風連の乱」である。そんな祈念すべき十月二十四日、神風連の顕彰に尽力した荒木精之氏の生誕百年祭が県の護国神社で行われた。又、昨日の熊本日日新聞は「言葉のゆりかご」の欄で、作家小山寛二の母親の実家奥田家のことに触れている。奥田家には男子がなく長女(小山伯母)に婿養子を迎えていた。敬神の志深い人で、当然神風連の挙に参画するものと思われたが、出奔してしまった。その夫の行為を恥じて彼女は自害して果てるのである。この話は小山寛二の小文「哀傷の碑-神風連の女達」によっているが、この文章を読むと奥田家の出自は懐良親王を奉じた南朝方の子孫であると言う。林桜園とのつながりを以って、一党と行動をともにするという黙契があったのではないかと、小山は記している。地元新聞のささやかな一文の掲載をしても、「神風連の挙」は忘却の彼方にある。奥田家のこのような悲しい出来事も、ただただ関係者の胸の内に残るだけだろうか。この文章を書いているこの時間にも、再起を思い山中をさまよい、またそのことの不可能なる事を思い自らの命を絶った人たちが居られたのだろう。小山寛二は最期にいう「かにかくに、わが火の国の神風連は、限りなく悲しい」と。合掌
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする