津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「波」という本

2007-10-05 20:24:32 | 書籍・読書
 芸術新潮が送られてきた。「細川家美と戦いの700年」なかなかGOODではないか。発行元から定価+210円で間違いなく送られてくるから、本屋さんまで出かけるより良いかもしれない。そして嬉しい事に「おまけ」があった。「波」という冊子が同封されていたが、中身が気に入った。連載物やらエッセイ、新刊書の紹介やら盛り沢山の145ページ、おまけに郵送してもらって一年で購読料1,000円だそうな。早速同封はがきで申し込みをした。タイミングがよかったのは、私の好きな秋山駿氏の「忠臣蔵」が始まったことだ。どんな展開になるのか大変楽しみ。
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近世紀行文集成から -2 「佐藤信淵九州紀行」

2007-10-05 17:48:30 | 書籍・読書
 「佐藤信淵九州紀行」の本文を読んだ。なかなか面白い。本文読了後詳しく著者の人となりを知ろうと、編者板坂耀子氏の解説文を読んで唖然とした。どうも佐藤氏なる人は実際旅をしたわけではなく、幕末の地理家・古川古松軒の「西遊雑記」を手本にダイジェスト版を造ったものらしい。昭和17年森銑三氏が指摘されたという。しかし大変巧みにダイジェストされており、この文章を読むことにより、逆に古松軒の「西遊雑記」をよく理解する事ができると解説される。

 疲れるなー、解説文を先に読むべきだった。コメントは「西遊雑記」を読んでからとしよう。(何時になるか分かりません・・・)
 

 
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近世紀行文集成から -1 「旅の恥かきすての記」

2007-10-05 13:25:24 | 書籍・読書
 旅の恥かきすての日記・・著者-日柳燕石(勤皇志士)
著者は香川県琴平出身、弘化元年(1844)友人と共に九州を旅した。熊本の部分を抜粋する。
○ 四月二十日、瀬高(福岡県瀬高町)から細い曲がりくねった道に難渋しながら熊本入り、道を尋ねる農夫の「ばってん」言葉に悩まされている。この国は「古より武術をはげむ風俗にて、侍の衣服も袖みぢかふして臂(ひじ)にいたり、裾はからげたる如く脛をあらはす。その古風なる事、土佐画にかける人物の如し」と風俗描写が面白い。
○ 二十一日、稲佐(現・玉名郡玉東町稲佐)・植木(現・鹿本郡植木町)をすぎ未の刻城下近くで、お城のしゃちほこが夕日に輝き綺麗な事に感激しながらも、水練家が瓢箪をうきたすき(浮き袋)に使っているというような話に喜んでいる。
○ 二十二日、「清正公の廟」に出かけ、参拝の老若のお題目が絶えることがないと記している。宿で「色赤くして油のごとし」酒(赤酒)を飲んで一杯で頭痛に陥った。(現在赤酒はお正月のお屠蘇用の他は飲用として使われることは殆どなく、地元熊本ではミリンに替わる料理用として使われている)
○ 二十三日、蔚山町や高麗門を見物して、熊本城廓内に入りその威容に感嘆するが、門番の侍の居丈高を狂歌に認めている。申ノ刻高橋(五ヶ町の一つ・現熊本史高橋町)に至り舟を借りて島原に向かった。

 僅か4日ほどの熊本の旅であるが、随所に今では覗えぬ風俗習慣、城下の賑わいなどを知る事ができる。
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先主を考える-21 毛利家

2007-10-05 12:17:07 | 歴史
 細川家家臣仁保氏はその家紋(丸に三つ引両)が示すように、相模の三浦の一族である。祖・右衛門大夫が毛利家に在った。その子太兵衛は彦山座主忠宥に養育され、元和二年忠興の召出す処となった。何故彦山に入ったのかは良く分からない。

 三齋没後殉死した久野与右衛門の介錯を勤めた磯部長五郎と、弟庄左衛門(後・眞藤)は、父親と共に毛利領下松に住まいしていたが、三齋公江戸上下の折り兄弟共に召し出され豊前に来た。両人とも児小姓を務めた。先祖附によると槙嶋云庵・清田石見が動いた事が分かる。祖父磯部越前守は三尾城主、三兄弟の末弟である父・市左衛門は500石を頂戴していたが牢人した。

 両家とも毛利家が大阪の陣後、大幅にその領地を失った為の細川仕官であろう。
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先主を考える-20 小早川隆景

2007-10-05 11:46:24 | 歴史
 「先主を考える-11」で小早川秀秋を書いたが、今回は親父殿小早川隆景である。小早川水軍の将と称えられたのが浦兵部少輔宗勝、実質の毛利水軍の将である。その子乃美主水が細川家に仕え、大阪の陣では首二つ、生け捕り一人という大活躍をして、忠興の賞賛を受けた。1,500石家老米田是政の女婿である。中津に於いては忠興に近侍した。
 我が家の縁戚に浦家があるが、毛利家浦氏である。亡父の従兄妹の嫁ぎ先である。
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