「先祖附」が残る佐久間家は一軒しかない。しかし史料を細かく分析すると二流の佐久間氏があった事が覗える。その祖は一つに繋がっている。一つは加藤家家臣であった、佐久間氏、加藤家侍帳に「並河志摩守与力・佐久間角介五百石」という記載がみえる。熊本県史に清正判物二点が紹介されていて、宛名は佐久間角助正頼とある。この正頼は県史解題には「佐久間勝之の弟」とある。加藤清正亡き後はどうなったのだろうか。
「細川家文書・御印之物」に興味ある記事がある。「有馬にて討死仕候牢人衆妻子ニ被下候御扶持方の事」という文書であるが、大西弥左衛門・柴田吉左衛門・佐久間角助の三人の名がある。「七人扶持方 佐久間角助跡 同人娘女子一人 同人娘 同人姉」とあるこの文書の日付けは寛永十五年五月十五日であり、有吉頼母佐の署名があり、細川忠利のローマ字印が押印されている。各種侍帳での佐久間角助がはじめて確認されるのは「寛文四年六月・御侍帳」の、長岡帯刀組七人扶持二十石の角助である。有馬で亡くなった角助には娘が残されたが、養子を迎えたのであろうか。この家は後年、百五十石取りの家となり、郡代を務めたりしている。
今一つは、佐久間半丞と言う人が個人名で侍帳に登場している。佐久間玄蕃盛政の子孫とあり、寛永二十一年正月に光尚に召し出され百二十人扶持、後三千石の大身になっている。熊本県史解題によると佐久間盛政の弟・角助正頼の子とされる。七兵衛、平左衛門、尉右衛門などの名が見え、夫々が千石を宛がわれており、子、孫、曾孫であろうと思われる。平左衛門室は坂崎成政女、尉右衛門は養子であり沢村大学友雅の三男である。この家は以降その動向が見えない。絶家したのであろうか。
ともあれこの二家は佐久間信盛・勝之兄弟の弟正頼がその祖であることが、各種文書から判断できる。しかしながら二家は随分その運命を異にしている。
「細川家文書・御印之物」に興味ある記事がある。「有馬にて討死仕候牢人衆妻子ニ被下候御扶持方の事」という文書であるが、大西弥左衛門・柴田吉左衛門・佐久間角助の三人の名がある。「七人扶持方 佐久間角助跡 同人娘女子一人 同人娘 同人姉」とあるこの文書の日付けは寛永十五年五月十五日であり、有吉頼母佐の署名があり、細川忠利のローマ字印が押印されている。各種侍帳での佐久間角助がはじめて確認されるのは「寛文四年六月・御侍帳」の、長岡帯刀組七人扶持二十石の角助である。有馬で亡くなった角助には娘が残されたが、養子を迎えたのであろうか。この家は後年、百五十石取りの家となり、郡代を務めたりしている。
今一つは、佐久間半丞と言う人が個人名で侍帳に登場している。佐久間玄蕃盛政の子孫とあり、寛永二十一年正月に光尚に召し出され百二十人扶持、後三千石の大身になっている。熊本県史解題によると佐久間盛政の弟・角助正頼の子とされる。七兵衛、平左衛門、尉右衛門などの名が見え、夫々が千石を宛がわれており、子、孫、曾孫であろうと思われる。平左衛門室は坂崎成政女、尉右衛門は養子であり沢村大学友雅の三男である。この家は以降その動向が見えない。絶家したのであろうか。
ともあれこの二家は佐久間信盛・勝之兄弟の弟正頼がその祖であることが、各種文書から判断できる。しかしながら二家は随分その運命を異にしている。